まどろみの向こう側IIC


「お帰りなさい、アルマ」

 『ジョーイ』が家に戻ると、

母親が待ち構えたように居間から飛び出してきた。

「どこへ行ったのかと心配してたのよ? お菓子を作ってみたのだけれど、

お父さんと3人でお茶に」

 母親が伏し目がちに言葉を紡ぐ。

『ジョーイ』はしばしその顔をまじまじと見つめた。

母親が心地悪そうに身じろぎしたところで、『ジョーイ』はふと微笑んだ。

「ありがとう、ママ。遅くなってごめんなさい」

 母親の瞳が驚愕に揺らぎ、これ以上ないほどに見開かれる。

思えば一度も彼女のことを母と呼んだことはなかった。

「え、ええ、今度は気をつけるのよ」

 面食らった様子の母親に自然と笑みがこぼれる。

そのまま階上へ上がろうとして、母親に呼びとめられた。

「お尻が汚れているんだから、ちゃんとお着替えをして、

お手々もちゃんと洗うのよ」

「はあい」

 返事をしつつ、何やら少々くすぐったい気持ちで自室に戻る。

子供部屋に取り付けられた小さなドレッサーの前、

きちんと用意されていた水がめと洗面器とを見て、

思わず頬を緩める。

さっそく水を注ぎ手を濯ぎつつ、目前の鏡を凝視した。

そこには今朝と変わらぬ容姿をした、

いや、それよりもやや幼びた様子の『アルマ』が映っていた。

『ジョーイ』は、そっと鏡に映った『アルマ』の頬を手でなぞる。

「ずっと、ずっと信じていたんだ……」

 もうすぐ、終りが来るのだと。

そうすれば『アルマ』が現れるのだ、と。

だが……。

「君はいない、俺はいる。ずっとこのまま」

 『ジョーイ』はいや、と首を振った。

「君がいないなら俺もいない……」

 『ジョーイ』は瞳を閉ざし瞑目する。

常識や信念など、崩れるのは一瞬だ。

意味があるなしも、恐らく瞬時に感じる時の断片でしかない。

だからこそ、今があるのだ。

「君がいるから、俺がいるんだ、きっと」

 そう思ったことでさえ、

いつか一瞬で崩れ去る時が来るのだとしても……。

自分は知った。そして悟った。

この生に今すぐの終りはなく、

この記憶も人格も、消え去ることはないのだと。

『ジョーイ』は閉じていた瞳を開き、左ポケットに手を入れた。

取りだしたのは、やはり古ぼけた赤いリボンだ。

先刻のエマの言葉を思いだす。


『見守るだけの神様もいるはずよ、この銀杏のように……』


 そうかもしれない。

そうでないかもしれない。

だから……。

『ジョーイ』はリボンをぐっと握り締め、

ゆっくりと鏡に映る『アルマ』を見つめた。

「俺、確かめてみることにするよ」

長く伸びた黒髪をブラシで丹念に梳きまとめ、赤いリボンを巻く。

リボンは古くぼろぼろで、とても綺麗とは言い難かったが、

『ジョーイ』はそれでも一房の髪でさえ零れ落ちることのないよう、

細心の注意を払って束ねていった。

両手を使い出来たリボンの輪を左右にひくと、改めて鏡を覗き込む。

一つに束ねた黒髪に白い肌。

くっきりと際立った輪郭は、まだ丸みを帯びた幼子そのものだ。

「俺は俺のまま、君になるよ」

 この生を生きるのも、悪くはない。

「よろしく」

『ジョーイ』は鏡に映る少女に向かい、手を差しだす。

「よろしく」

 たとえこの生がこの先、一瞬で崩れ去る運命だろうとも。

「これから、どうぞよろしく」

 微笑みを湛え、細めた瞳のその先には、

『ジョーイ』が焦がれ待ち望んだ『アルマ』の笑顔があった。



end








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