米国における生活賃金運動について
〜解題を兼ねて〜

戸塚秀夫
はじめに

 1995年にAFL-CIOの指導部が異例の選挙で交代して以来、日本でも、労働運動に関与している人々はもちろんのこと、労働・社会問題に関心を持つ多くの人々の眼が、その新指導部のもとでの労働運動活性化の動きに注がれてきた。新指導部の選出キャンペーンに掲げられた「ニュー・ボイス」と称するグループの公約的な主張を見るならば、それが実際にどのような運動として具体化されているのか、そこからどんな労働運動の未来が拓かれはじめているのか、と問いただしたくなるのは当然のことであろう。その公約には多くの事柄が含まれていたが、本格的な組織化に取り組もうという主張、組合員だけでなく非組合員をも含めたアメリカの労働者の賃上げを実現しようという主張、そのためには労働運動自体を転換し労働運動が活気に溢れる社会運動の支柱としてコミュニティの諸組織と連携していくべきであるという主張など、その公約が民間部門の組合組織率が10%を割り、非正規雇用の増加、低所得者・貧困層の増大に悩むアメリカ社会で好感を持って迎えられたのは理解し易いことである。

 そのような指導部交代を促した客観的な事情については、既に日本でもかなりの紹介が行われてきた。また、新指導部の目につき易い動きについては、しかるべき言及もなされてきた〔1〕。だが、指導部での転換は、その傘下組織のローカルなり、地域レベルでのコミュニティ諸組織での活動家たちの動きと密接に関連しているはずである。後者の着実な動きなしに、前者の持続的な転換はありえないはずである。その相互依存関係はどうなっているのか。

 こうした関心を抱くものにとって、過去数年間に広がってきたアメリカにおける生活賃金運動の実態は、まことに注目すべきテーマである。そこでは、まさに地域レベル、地方自治体レベルで低所得者層の賃上げと組織化、コミュニティ組織との連携が追求され、かなりの成功をおさめているように思われる。この小冊子には、数年間にわたって生活賃金運動を本格的に調査し、その結果を『生活賃金――公正な経済の構築』〔1998年〕と題する書物〔2〕として公刊した共著者の一人、ステファニー・ルースが昨年来発表してきた関連論文が収められている。アメリカにおける生活賃金運動の内部に立ち入り、そのさまざまなタイプを摘出し、成果と同時に限界、今後の課題を提起しているこれらの論文は、新自由主義の猛威のもとで次第に類似の問題状況に直面しつつある日本の労働・社会運動にとってもきわめて有意義なものと考え、ここに翻訳・公刊することにした次第である。

 だが、生活賃金キャンペーンないし生活賃金運動と称されるものについて、これまで日本で殆ど紹介されてこなかったことを考慮するならば、あらかじめ若干の序言的な言及が必要であろう。筆者自身の知識はまだ十分ではなく、とりあえずの覚書に過ぎないが、それでも読者がこの運動に関心をもたれる一つの手掛かりになりうるかもしれないと考え、まず、はじめに、この運動の思想的特質について、つぎに、この運動の運動論的な特質について筆者の考えを述べることにする。そして最後に、この小冊子が刊行されるに至った経緯にふれて、今後日本で検討されるべき課題について、私見を書きとめておく。


生活賃金運動の思想的特質

 生活賃金運動を突き動かしている思想の特質は何か。もちろん、そこには労働者が人間として生きる権利を有するという権利思想が流れている。だが、両者は決して同義ではない。むしろ、次のように問うべきであろう。人類社会の発展を推し進めてきた後者のような思想は、いかなる歴史的な条件のもとで、いかなる歴史的体験を経るなかで、生活賃金運動の思想として固まってきたのか、と。

 ここではその歴史的特質を詳しく述べる余裕はない。ただ、次の幾つかのことを想いおこしておくことは、有意義であろう。

 その一つは、産業革命が進むなかで、当初労働者の心を捉えたのは、生活賃金の思想ではなかったということである。イギリスでも、アメリカでも、賃金を求めて工場主の専制的な統制に身を委ねることは、人間としての自立と尊厳を売り渡すことに通じる、というのが大方の意識であった。南北戦争をとおして人間を動産として処分しうる奴隷制の廃止を高らかにうたったアメリカ社会でも、次第に勢いを増す賃金労働者の波に洗われるなかで、直ちに生活賃金を要求する思想が支配的になったわけではない。むしろ、ひろがったのは、「工場奴隷」「賃金奴隷」への嫌悪であり呪詛であった。賃金労働者の身分に「堕ちる」ことは、自立的な小生産者、自立的な職業人として「立身」するための経過的なステップとしてのみ許容される、というのが当時の「良識」であった、といえるのかもしれない。かのアブラハム・リンカーンが、生涯他人に雇われる身分で終わる人がいるとしてもそれは社会制度の罪ではなく、その人本人の人間的欠陥によるところが大きい、と述べていたのは甚だ象徴的である〔3〕

 生活賃金運動の思想への接近が始まるのは、そのような小生産者的な自立への道が著しく狭められ、好むと好まざるとにかかわらず、生涯を賃金労働者としておくる運命にある人々が増えてくる、という歴史的現実が展開してからのことであった。長期にわたって他人に雇われて働く以上、その対価として「正当な賃金」「公正な賃金」を要求するのは当然であるという運動の思想が広がってくるのは、必然であろう。だが、ここで直ちに生活賃金の思想が労働運動を席巻したわけではない。ここにいま一つの留意すべき点がある。19世紀の80年代から20世紀の20年代にかけて、イギリス労働者の賃金意識と組合の賃金政策を丹念に考察した古典的労作は、何をもって「正当な」あるいは「公正な」賃金と合意するかについては、産業・職業如何によって、労使間はもちろんのこと、労働者間でも大きな差異があったことを明らかにしている。また、その合意の中味は、単に伝統的な生活水準や慣習に制約されているだけでなく、技術革新、社会主義思想、戦争などの影響を受けて歴史的に変化してきたことなどが指摘されている〔4〕。生産物の価格や利潤の変動にリンクする「スライディング・スケール」の賃金制度から生活賃金の要求獲得へと進んだイギリスの炭鉱労働組合は、労働運動における生活賃金思想の先駆的な提起者であったが、その背景には、市況による激しい炭価の変動があり、従来受け入れてきた仕組みのもとでは所得の安定を期しがたい、という危機的な状況があった。組合が使用者団体との間で出来高賃率にあたる「プライス・リスト」を協約化し、それによって生産性向上の成果を入手しうる力を持っていた綿紡績工の組合が、生活賃金思想になじまなかったことは示唆的である。やや大胆にいえば、労働組合が独自の交渉力で安定的な収入を確保しえないという、厳しい歴史的な体験を経て、生活賃金の思想が労働運動のなかに広がっていった、といえるのではないか。それは当然、社会主義思想の影響とも結びついていた。

 だが、今日のアメリカにおける生活賃金運動は、いま触れたような生活賃金要求の思想と同じではない。ここにいま一つの注意すべき点がある。この小冊子に収録された諸論文を一読されれば明らかなように、まずアメリカの生活賃金運動では、地方自治体に対して、それとサービス提供その他の契約をする企業、あるいはそれが施設利用権や公的助成を供与する企業に対して、その企業で働く労働者の世帯が貧困線以下に落ちないような、一定の時間賃率以上の賃金支払いを義務付ける条例の制定を要求している、という点が注目される。いわば、地方自治体レベルで、その自治体の業務に関係する民間企業に対する限定的な最低賃金制を立法化する、という運動である。確かにこれは、前述のイギリス炭鉱労働組合の生活賃金要求の思想と同じではない。つまり、今日のアメリカの生活賃金運動の思想の起源をたずねるとすれば、いま少し視野を広げなければならないということである。

 ここで筆者が注意を促したいのは、地方自治体や政府がとり結ぶ公契約の相手方、つまり民間企業に対して、その従業員たちへの「公正な賃金」の支払いを要求する思想が公的機関の政策にまで具体化したのは100年以上も前のことであった、ということである。1892年に刊行されたフェビアン協会のパンフレット、『公共機関のための労働政策』は、当時のイギリスにおけるその新しい動向を取り上げて、地方自治体やその他公共機関が、それらが直接雇用する労働者の賃金、労働時間、さらには団結権について「他の使用者たちへの模範」となるだけではなく、公共的事業への入札業者に対しても公共機関の直傭労働者と同等の保護を与えるよう要求すべきであり、「苦汗労働」への依存を許容すべきではない、という思想を労働組合の政策として提唱している。地方自治体の選挙にあたっては、有権者の棄権防止に取り組み、この労働政策の実現を追求しようというものであった〔5〕。実際、1891年にイギリスの下院を通過した「公正賃金決議」では、政府が結ぶすべての公契約において、下請けに伴う苦汗労働の弊害の防止、各職業における一人前の労働者への現行賃金とされる賃金額の支給の保障などを、契約の条件にいわゆる「公正賃金条項」として盛り込むべきことがうたわれた。この線に沿った地方自治体の議会決議の中には、保証すべき賃金として労働組合と経営者団体との協約賃金を明記したものさえあったのである。

 このように歴史を振り返るならば、ほぼ100年前にイギリスで定式化された「公正賃金条項」の思想がその後どのような経過、どのような歴史の波風にもまれるなかで、今日のアメリカの生活賃金運動につながっているのか、と考えていくことが有効であろう〔6〕。また、「公正賃金条項」が限定的な最低賃金制であったことに注目するならば、アメリカにおける最低賃金制の歴史、そこにはらまれる問題点を理解することも重要であろう。だが、それらはともに相当に厄介な作業を必要とする。ここではただ仮説的に、次の2つの論点を書きとめておく。

 第1は、今日のアメリカの生活賃金運動が条例によって勝ち取ろうとしている賃金額が、労働者世帯の生計を貧困線のレベルにまで引き上げる、という考え方で設定されているということである。かつてイギリスの「公正賃金条項」の運動がときに提起していたような労働組合と使用者団体との間の団体交渉を前提として、そこでの協約賃金の普及を迫る、という発想は見られない。意識されているのは、低きにすぎる連邦政府や州政府の最低賃金をどの位上回り、生存維持を可能とする賃金を保障しうるか、ということである。かつてのイギリスの「公正賃金条項」の思想が、やがてイギリス労働党の主導する集産主義に裏づけられ、福祉国家の諸制度を建設していく夢につながっていく攻勢的なものであったのに対して、このアメリカの生活賃金運動には、さしあたって従来の社会改良的諸制度を取り壊してきた新自由主義による弊害を地域レベルで如何にくいとめるか、といういわば防衛的な姿勢が投影しているように思われる。1980年代から今日にかけて、労働市場が如何に変貌し、貧富の格差が如何に広がったか。この小冊子に収められた第3論文を一読するだけで、その深刻さは分かるであろう。この生活賃金運動には、今日の深刻な社会問題に取り組んでいる地域の活動家たちの抵抗への思いが込められているように思われる。

 第2は、しかしなお、この生活賃金運動のなかには、かつての「公正賃金条項」の運動思想には見られなかったような、新しい発想が芽生えていることも軽視すべきではない、ということである。さしあたって防衛的ではあるか、深刻な社会問題を生み出したアメリカ社会を地域レベルから、民衆の力を結集して変革していこう、という革新的な意欲を感じることのできる運動である。筆者は、そこに注目する。もちろん、この小冊子の第1論文が明らかにしているように、生活賃金運動のなかにも様々なタイプがあって、性急な一般化は避けるべきであろう。だが、この生活賃金運動を本格的に取り上げた著者たちの主著が「公正な経済の構築」という副題を掲げていることの意義は、きわめて大きいと思う。実際、この書物では、空洞化、衰退化してきた都市部を活性化し、健全な雇用を創り出していく上で、生活賃金運動が如何なるインパクトを与えうるかという点の検討に、かなりのスペースが割かれている。ただ仕事口が作られればよい、というのではない。それは「生活可能な仕事口」でなければならないし、別の地域の雇用をたらい回しするようなものであってはならない。著者たちはその観点を明確に打ち出している。この観点からは当然、税金の控除や減税、補助金の供与などによる企業誘致策、それを柱にした都市再開発政策への批判が提起されることになる。生活賃金運動の熱心な推進者たちのなかには、民衆の力に依拠した「オルタナティブ」な都市政策の構想が芽生えているのである。この人たちが地域レベルでの運動の限界を意識して、「全国的な生活賃金政策」を構想していることも、重要な点であろう。筆者はここに、今日のアメリカの生活賃金運動における斬新な思想的な質を見出しうるのではないか、と期待している。


生活賃金運動の組織論的特質

 以上、今日のアメリカの生活賃金運動が新自由主義の跳梁に苦しめられてきたアメリカ労働運動の反撃の一形態であり、そこには、脅かされている労働者の生存権を防衛しようとする抵抗の思想と同時に、かつての苦汗労働を彷彿とさせるような「底辺に向けての競争」に歯止めをかけることによって、より人間的、文化的な社会を地域からつくりあげていこうとする革新的な思想とが重なっていることを指摘した。それは普遍的な人権思想に根を持つが、今日の歴史的現実に制約され、特殊現代的な体験を通して形成された斬新な思想ではないか、というのが筆者の解釈である。

 ところで、このような思想が運動の思想として広がるためには、運動の組織化の仕方についても斬新な取り組みなされているように思われる。この点に注目することは、次第に同様な歴史的な現実に直面しつつある日本の労働運動にとっても有意味であろう。

 まず、第1に、この運動が主に都市自治体に照準をあわせた立法運動として組織されている、ということである。もちろん、州や連邦政府の動きを視野に入れていないわけではない。また、郡部に運動がないわけでもない。だが、都市自治体の行政に当面の的を絞っているのは積極的な理由があってのことである。それが都市住民の声が届きやすいところにあるというだけではなく、今日の民主主義、地方自治のたてまえの下では、その行政に対して影響力を行使しうる住民のルートが開かれている、ということである。州レベル、連邦レベルで強力に組織されている財界団体の経済的、政治的影響力が、貧困層を多く抱えた都市地方自治体レベルでは、さほど強力には組織されていない、という事情もあるにちがいない。ともあれ、この運動は、都市自治体の議会や首長の動きに焦点を合わせ、自治体財政の支出、とりわけその公的契約のあり方に住民の関心を呼び起こすという、世論組織化の運動として成立している。

 第2に、この運動が貧しい人々の生存権を守ろう、という「社会的正義」の大義に共鳴する様々なNGO組織や民衆の共働として組織されている、ということである。ここに収録された論文の中に頻繁に登場する「連合〔Coalition〕」や「連携〔Alliance〕」という言葉は、決して労働組合間のそれ、あるいは組合と政党のそれ、というような意味で使われているのではない。地域レベルで労働、住宅、環境、マイノリティーズ、高齢者問題などのテーマで動いている労働者、市民、学生、宗教家、法律家たちの諸団体が、この運動の中で出会い、その交流を通してまた新しい団体、たとえば地域の「持続可能な経済を考える」グループが生まれるというような、民衆の相互刺激、相互啓発の場として生活賃金運動が組織されていることに注意すべきであろう。収録されている第2論文が明らかにしているように、労働組合の既成の地域組織であるAFL-CIO地方労働組合評議会〔CLC〕が、この運動に貢献したところも多いが、必ずしも積極的に関わらなかったところも少なくなかった、という。むしろ、この生活賃金運動に一歩足を踏み出すことを契機に、既に組織された組合員へのサービスだけに専念しがちな伝統的な「ビジネス・ユニオン」の体質からの脱皮が迫られる、といってよいであろう。

 第3に、この運動は条例制定の立法化運動に終わるだけでなく、その条例の施行をモニターし、法の厳格な実施を追求することの重要性を明らかにした、ということである。収録された第1論文の厳しい指摘によれば、この重要な課題に取り組めている運動事例は、むしろ少数のようである。いうまでもなく、民主主義社会においては、すべての法律は議会における審議と可決を経て制定され、公布、施行のステップを経て実施されるが、この生活賃金運動の経験は、立法化を推進する諸団体が制定される法の実施をモニターし、その厳格な履行を強制していくだけの執拗さをもたない限り、法は空文化してしまう危険性をもつ、ということを示している。先にふれた19世紀末の「公正賃金決議」が死文化した原因の一つも、ここにあった。その意味で、第1論文の「分析」の項にまとめられた著者の考察は貴重である。一方で、「合理化」の圧力を受けて公契約の効率化と経費削減を迫られている地方自治体の当局者が、他方で公契約の相手方企業に対して、従業員の待遇改善を迫る、ということは決して容易ではあるまい。この論文は、生活賃金運動の推進主体が地方自治体当局者と共働して条例実施のモニターにあたっている、注目すべき事例に光を当てている。決して主流になっているとはいえないようであるが、法制定要求のキャンペーンの域を越えた運動の組織化が始まっているように思われる。

 第4に、この運動は、未組織労働者の組織化戦略の一環となる可能性を持っているのではないか、ということである。もちろん、第2論文が指摘しているように、この運動が大量の組織化の成果をあげたとはいえないようである。もともと、この生活賃金条例にカバーされるべき低賃金労働者の多くは、雇用の不安定な「非正規労働者」であり、最も組織化が困難とされてきた層である。実際、近年のアメリカで労働・社会運動のテーマとなった「苦汗労働工場反対〔No Sweatshop〕」の運動では、その苦汗労働者の多くが発展途上国にいることもあって、苦汗労働者自身が運動の主体として登場するケースは稀であった。アメリカ国内で苦汗労働者が組織されたケースでも、その労働者たちがどの程度まで運動の主体となりえているか。かなり大きな留保をつけなければならないのが実態であった。悲惨な底辺の労働者に同情し、その人々の人権を代弁し主張するという、人道主義的アドヴォカシーの運動だったのである〔7〕。この生活賃金運動も、その要素を多分に持っているに違いない。だが、第3論文が指摘しているように、底辺の労働者たちの賃金その他処遇への不満、組合への期待は大きい。生活賃金条例の施行をモニターするこの運動グループが、違法業者の摘発に乗り出し、そこでの低賃金労働者の組織化を支援していく、という構図が絵空事だとは思えない。だが、そのためには、かつて、「ニュー・ボイス」が公約していたように、労働組合自身が社会運動と連携しながら、未組織労働者の組織化に乗り出すことが切実に求められるであろう。この生活賃金運動は、そのような方針が地域における具体的な組織化戦略として固められる必要を意識させるのである。

 最後に、この運動を発展させていく上で、運動の推進者グループと実践的な研究者との真の協力が大きな意味を持っていることにふれるべきであろう。この論文の冒頭でふれた著作『生活賃金―公正な経済の構築』は、著者たちの協力が運動への支援や賛同のアピールなどの域にとどまらない協力となっており、運動に触発された研究者がその調査研究の内実を通して運動に貢献していこうとする、実践的な研究者と運動グループとの濃密な協力関係が成立したことを示している。この小冊子に収録された諸論文も、そのような協力関係なしには纏められなかったはずである。運動体の提起している問題を正面から取り上げ、運動の発展を妨げている反対世論の正否を実証的に確かめ、さらには運動体内部の限界や弱点を指摘してその克服の道を探っていくという、著者たちの知的営為は、筆者のごとく労働問題の調査研究に携わってきた者にとって、一つの範例として意識されるほどのものである〔8〕

 以上、多分に日本の現状を意識しながら読み取った論点に傾きすぎているかもしれないが、この運動を成立させている組織論上の特徴について筆者の解釈を書きとめておく。


おわりに

 この小冊子が刊行されるまでには、記録にとどめるべき経緯があった。それは、この刊行プロジェクトが開始される前に、日本の最大のナショナルセンター・連合傘下の組合リーダーたちの、最近のアメリカ労働運動の動向への関心がたかまっていた、ということである。熱心な調査団が現地を訪れ、その帰朝報告集会で、ジョージ・ミーニー・センターの主任研究員、アンディ・バンクスが新AFL-CIOの下での組織化戦略について講演するという行事が行われたのは、昨年5月のことであった。それと前後して連合傘下の幾つかの単産のアメリカ調査・研修旅行が相次いで行われた。そのような調査旅行に参加した自治労本部組織局の小畑精武氏から、すでに度々触れてきた書物『生活賃金―公正な経済の構築』の日本での紹介はできないものか、という希望が伝わってきたのは昨年秋のことである。親しいアメリカの友人の勧めでその夏にこの書物を一読し、強い印象を受けていた筆者は、まず著者の一人、ステファニー・ルースを日本に招き、生活賃金運動の実態を深く知る機会をつくれないかと考え、国際労働研究センターの運営委員会の同意を得て、この招待プロジェクトの具体化を同センター運営委員の渡辺勉氏に委ねた。以降、渡辺氏と小畑氏との緊密な協力のもとに、ルース招待計画が具体化することになる。国際労働研究センターの招待プロジェクトではあるが、これに小畑氏他、日本の労働界のリーダーたちが積極的な支援をして下さったことで、この小冊子の刊行も可能となったことを感謝を込めて記しておきたい。

 この小冊子には、彼女が上記の主著公刊後に続けてきた、最新の調査研究のペーパー3本が収められている。国際労働研究センターとしては、これらのペーパーの翻訳は招待計画を効果的にする上でも有意味であると判断し、翻訳事業に着手した。翻訳分担者の草稿が筆者の手元に届けられ、筆者としては必要と判断したところに修正の筆を入れたが、その取捨選択を含めて、最終的には翻訳分担者個々人の責任で脱稿されている。原文と照合したい読者のために、日英両文の収録されている冊子も作成されているので、それを参照されたい。

 筆者は生活賃金運動についての序論風の解説を書くことを求められた。「はじめに」でふれたように、筆者の知識は甚だ貧弱であるので、この論文は、今後本格的な研究に進むための仮説的なメモとして受けとめて頂きたい。もしも、この小冊子を手にした読者の中から、度々ふれてきたルースの主著をじっくりと読み込み、日本の運動へのメッセージを拾っていく作業をはじめる方々が生まれるのであれば、この小冊子の刊行に携わったものの一人として大変幸せである。

 いうまでもなく、いかに先進的な運動であろうとも、外国で成功した運動を法制度、歴史、文化の諸事情が異なる国にそのまま直輸入することは不可能である。必要なことは、類似の問題状況に直面した外国の労働者が、なぜ、いかにして成功したか、その経過を正確に理解し、そこに貫く一般的な傾向が自国の場合にはいかなる形で発動しうるかを考察していくことであろう。さしあたっては、日本では何故にこのようなタイプの運動が見えてこないのか、と問い詰める必要があるように思う。ILOにおいて「公契約における労働条項に関する条約」〔条約94号〕が採択されたのは1949年のことである。それは本文で述べた「公正賃金決議」の国際版といってよい。ちなみに、「公正賃金決議」の発祥地イギリスでは、1946年10月に新しい公正賃金決議が可決され、政府との公契約にあたっては請負契約業者だけでなく、再下請業者にも「公正賃金」遵守の義務を負わせ、さらに請負契約業者がその労働者に組合加入の自由を認めるべきことがうたわれていた。

 当時占領下にあった日本でこのような国際的な動向が意識されなかったのは理解できるが、日本がILOに加盟し、国際的労働基準に関する情報を手にしやすくなって以降も、かの94号条約についての議論が広がったという記録はない。何故そうであったのか〔9〕

 1970年代から80年代にかけて、日本での「地域運動」なり「地域生活圏闘争」なり、地域住民との連携を重視する方針が出されたが、そのキャンペーンは今日のアメリカにおける生活賃金キャンペーンと対比して、どのように評価しうるのか。とりわけ、連合発足後の労組の地域組織は、AFL-CIOの地方労働評議会〔CLC〕に匹敵するような仕事に取り組めているのか。さらに、地方自治体その他公共機関の公契約を梃子にして、地域の低所得者の賃上げを実現し、さらには組織化につなげていく、というような戦略が構想されたことはあったのか。なかったとすれば、それは何故なのか。端的に、日本でアメリカにおける生活賃金条例のごときものを提起して行くことは可能か。また、それは、運動の前進にとって意味はあるのか。そのために果たすべき日本の研究者たちの役割、研究者と活動家との共働は如何にして高めうるのか。率直に議論すべきことが山積みされているように思う。

 この小冊子の刊行が、そうした議論の糸口となれば幸せである。


 〔注〕

  1. たとえば、ジェレミー・ブレッカー/ティム・コステロ著、戸塚秀夫/荒谷幸江訳「旧い殻の中の『新しい労働運動』か?」〔『労働法律旬報』1997年6月上・下旬号〕、ネルソン・リヒテンシュタイン著、山崎精一訳、荒谷幸江編「アメリカ労働運動の展望」〔『労働法律旬報』1999年6月下旬号、7月上旬号〕、マーティン・ハルペルン著、戸塚秀夫訳「米国における労働運動の危機と新しい国内・外交政策の模索」〔『労働法律旬報』2000年2月上・下旬号〕。〔本文に戻る〕

  2. Robert Pollin & Stephanie Luce, Living Wage ―Building a Fair Economy, New York: The New Press, 1998.〔本文に戻る〕

  3. Lawrence B. Glickman A Living Wage: American Workers and the Making of Consumer Society, Ithaca, NY, Cornell University Press, 1997, pp.12-13.〔本文に戻る〕

  4. J. W. F. Rowe, Wages in Practice and Theory, London, Routledge, 1928, pp.150-166.〔本文に戻る〕

  5. Sidney Webb, A Labor Policy for Public Authorities, Fabian Tract No.37, 1892.〔本文に戻る〕

  6. イギリスにおける「公正賃金条項」の歴史的推移を吟味する上で、Brian Bercusson, Fair Wage Resolutions, Mansell, 1978は有益である。この大著は、「公正賃金決議」が様々な要因によって完全な実施を妨げられた事情をあとづけている。これらの決議の推進者たちが特に問題視していたのは、建設・建築業界に広がっていた下請制度に付きまとう「苦汗労働制〔Sweating System〕」であった。公共機関の行う業務は外注せず直傭労働者によって行え、という主張は当時社会主義者から出されていたが、それを完全に実現することは困難であったのである。〔本文に戻る〕

  7. 「苦汗労働工場反対」のキャンペーンを理解する上で、Andrew Ross(ed.), No Sweat _ fashion, free trade, and the rights of garment workers, New York & London, Verso, 1997は有益である。なお、筆者は1997年にこのキャンペーンを推進している人々を現地に訪ね、次のレポートを発表した。戸塚秀夫「経済のグローバル化に対する民衆の運動戦略―北米からの示唆―」〔『労働法律旬報』1998年5月下旬号〕、同「経済のグローバル化と労働運動―新しい運動戦略の模索」〔全国労働組合総連合『国際労働情報』第6号1999年11月〕。後者にはこのキャンペーンが大統領府を巻き込んで勝ち取った合意文書を収録してある。〔本文に戻る〕

  8. R・ポーリン、S・ルースの著作では、生活賃金条例の諸案の実施によって予想される企業側のコスト増、雇用への影響などについて、入手しうる企業側の情報をも丹念に分析し、俗耳に入りやすい反対論への批判を提起している。その上で、生活賃金の実施が他の社会的インフラストラクチュアの整備とあいまって、現状と異なる「公正な経済」社会を構築していくステップとなりうる、という構想を提起している。〔本文に戻る〕

  9. ILO 94号条約は、公共機関との公契約の当事者が公共工事や労務の提供などに従事する場合、下請業者が守るべき「労働条項」を規定し、それを遵守しない業者に対する契約の留保、支払いの留保などを規定している。その「労働条項」には、賃金、労働時間、安全衛生などが含まれているが、賃金、時間については、使用者団体と労働者団体間の労働協約で取り決められた条件を下回らないものとする、という考え方が提示されている。産業別、職業別の労働協約が発展しなかったわが国では、批准は困難な条約と意識されたのではあるまいか。

     地方自治体労働者の組合は、自治体業務の民間委託に反対するだけではなく、民間委託の条件、とりわけ「労働条項」についての方針を如何に定めているのか。筆者の知識は貧弱であるが、自治労の「自治体入札・委託契約制度研究会」の「中間報告」〔2000年10月〕は、おそらく、アメリカの生活賃金運動の経験から学べる点が多いのではないかと筆者は予想している。〔本文に戻る〕



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