あとがき
 
 総説で述べたように、本書は神話の定義をそのまま記紀神話に適用し、その叙述を「天与」の現実と照合させていったにすぎない。だから、もし本書の解釈が正しいなら、記紀神話は世界的に見ても、最も典型的な「神話」の一つだと言えるだろう。
 しかし、本書の最大の特徴は、その神話理論ではない。方法論でもない。個々の神話の意味を具体的に明らかにしたことでもない。それは、神話の体系を揺るぎないものとして提示したことである。個々の神話がそれぞれ独立したものではなく、すべて体系の中に完全に組み込まれていることを示したことである。
 だから、もし本書の説を否定しようとするなら、本書が具体的にその意味を明らかにしたすべての神話解釈を否定しなければならない。より具体的な解釈を示さなければならない。個々の解釈はいくら否定されても構わない。すべての神話の解釈が否定されない限り、基本体系は否定されない。そして、基本体系が否定されない限り、記紀神話=神話説は必ず成立する。
 本書は「倭の神話」の全貌を余すところなく解明しているわけではない。細部にはほとんど触れられなかった。私の力の及ばなかったところも多い。とんでもない誤解をしているところもあると思う。だから、本書の解釈がすべて正しいと主張するつもりはまったくない。それどころか、「倭の神話」の内容は本書の解釈より数段豊かであることは間違いないと考えている。「倭の神話」は私の力をはるかに超えた巨大な作品である。巨大な作品だからこそ、神話として完成された作品だからこそ、私の力でもその揺るぎない体系を示せたのである。
 読者の中には、「倭の神話」の意味がその「死」から一世紀もたたないうちにまったく失われてしまったことをいぶかしむ人がいるかもしれない。その理由はいくつも考えられるし、単一の理由で説明できるものでもないだろう。本書でも解説の中でいくつかは指摘しているが、おそらくその最大の理由は「倭の神話」があまりに巨大だったからである。理解の鍵が失われたとき、人は漠然とした記憶より記録として残されたものに頼る。そして、書かれた文章を頭で解釈しようとする。「倭の神話」を観念的に捉えている限り、誰もその圧倒的な想像力と思考力には思い及ばないだろう。
 本書は「倭の神話」の主要神の神格しか特定できなかった。多くは未知のまま残されている。だが、それだけで、「倭の神話」は自らがこんなにも豊かであることを語ってくれる。いったい、まだどれほど広大な精神の沃野がそこに秘められていることだろうか。本書が記紀神話を何のためらいもなく「国民的財産」と呼べるのは、その内にこのような汲めども尽きせぬ豊饒を蔵しているからである。
 これまで記紀神話が「神話」として読まれなかったことは、「倭の神話」を創った古代人にとっても、記紀神話としてそれを伝えた『記』『紀』にとっても、そしてわれわれにとっても不幸だった。『記』『紀』を研究するすべての人に対して、ぜひ記紀神話を「倭の神話」として解明し、この偉大な「国民的財産」の全容を明らかにするよう努めてくれることを願って止まない。