中西治嘉の詩と詩学
1997.2/
はじめに
<詩学>とは、講談社版日本語大辞典(1989年)によれば、
「詩歌の本質とその美的価値・作品の構造・作詩法・表現などを論じたもの。アリストテレスの『詩学』がその最初。詩論。poetics」
とある。どうも文学部での美学・作品論・構造論・作詩法・表現論などをベースにした学問の一つであるようだ。
この私が詩と詩学を論じようと思い立ったのには次の二つの理由による。
まずはじめに、<詩学>の言葉にかなりの衝撃を次の著作から受けたためである。
それは、河島英昭著「叙事詩の精神 パヴェーゼとダンテ」での以下の文書である。
「詩学というのは抜き差しならない言葉だ。その抜き差しならないわけを、現代イタリアの詩人、小説家チェーザレ・パヴェーゼの詩集『働き疲れて』をめぐって明らかにするのが、この小論の目的である。
誰の場合でも同じであろうが、詩は不意に訪れてくる。あるいはそれによって人はおのれを取り戻し、ときには精神的な再生を果たす、とさえ言ってもよい。とにかく初めに詩があるのだ。そして好ましい詩、好ましくない詩が、片々と姿を現してくる。便宜上、日本とイタリアの現代詩人たちの例をいくつか挙げてみよう、何よりも共通の詩的理解を詩学へ向けて築いていくために。」(3
詩人という仕事U:p.61)
「だが、そのまえに、詩学についての考察をすこしだけ進めておこう。《はじめに詩があるのだ》と先に記したが、言い換えればそれは、ただちにそのあとに詩学がくる、ことを意味している。一遍の試作のあとに、詩人は誰でも詩学を意識しないではいられない。あるいは、つねに詩学につきまとわれてしまう、あるいはまた、絶えず詩学にさいなまれてしまう、と言ってよいであろう。その結果の一つなのだ、たくさんの詩人たちが、詩とは何か、詩人とは何か、という詩を書いてきたのは。」
いみじくも中西の「ぼくの空」の「第4章詩人の秋」で、<詩人とは何か>をテーマに以下のような詩を書いている。
<ある夜ふけ>
ある夜ふけ
一たん寝むったまんま
詩人は考える
どうして詩をかかなくなったんだろう
どうしてぼくはぼくでなくったんだろう
ある夜ふけ
すてられた犬がやってきて
そこいらじゅうを吠えまくる
太郎もねむらずほえ叫ぶ
詩をかけなくなった詩人は
犬の遠吠えが気になって
寝むられぬままペンを持つ
すごく朝(あした)が来てほしいのに
夜のしらむのがこわくなって
詩人の胸は重たくなった
二つ目の理由は、詩論を書くためにはその詩人に対するかなりの調査が必要であるが、幸い中西の場合は、私本人であるためその必要が少ないと思われることである。しかし、いかに客観的に論を進められるかにはかなりの疑問が残るが…。