達磨寺の史跡


達磨画像
聖徳太子画像

 達磨大師と聖徳太子をそれぞれ描いて2幅の掛軸としたもので、ともに縦約170cm×横約80cmの大きさがあります。これは法会で用いるためのもので、達磨寺の本尊である達磨像と聖徳太子像を模写して制作されたと考えられます。画面の上のほうには、永享3年(1431)3月5日に室町幕府6代将軍足利義教が記したとされる賛(画像に添え書かれた文)があり、片岡山で聖徳太子と達磨大師が交わしたという贈答歌が記されています。しかし、この賛の書体や画像の画風からすると、これらが永享3年3月に僧の周文によって描かれたことが記されており、江戸時代に模写が作成されるまでは周文によって描かれた画像と、そこに足利義教の賛が添えられた真本2幅があった可能性も考えられます。

雪丸像
 聖徳太子が飼っていた雪丸という名の愛犬をかたどったとされる石像で、もとは本堂の鬼門、つまり東北のところにまつられていました。それは、雪丸自身が臨終のさい、死ねば本堂の東北隅に葬ってほしいと話したからであるといい、雪丸は言葉を話したり、お経を唱えることもできたといわれています。雪丸が死んだあと、聖徳太子が自ら石工に命じて雪丸像をつくらせたといい、1月1日に雪丸が鳴けば、その年は豊作になるという言い伝えもあります。現在、雪丸像は本堂の西南(裏鬼門)に移されています。

一夜竹
 本堂の西南にあり、達磨大師御杖竹ともいわれます。伝説によると、達磨大師が携えていた竹杖を挿したところ、一夜にして芽が出てきたといい、毎月タケノコができるともいいます。蓬莱竹(ホウライチク)という種類の竹で、直径が2.5cm、節間が30cmくらいの竹が300本ほど群生しています。もとは熱帯・亜熱帯のインドシナ原産で九州・沖純地方では生垣として植えられており、一部では野生化しています。

聖徳太子像
 本堂の3尊のうち千手観音像の右隣に安置されている像で、重要文化財に指定されています。像高は93.2c血で寄木造りです。巾子冠をかぶって袍を着け、両腕を曲げて胸の前で笏をとるという姿をしており、眉を寄せて眉間にシワをつくり、口を結んで威をただす表情をしています。膝裏には墨地の上に朱で記された「「大仏師法印院恵/作者法橋院道/建治三年十一月日」という銘文があり、この像が鎌倉時代の建治3年(1277)に院派仏師の院恵・院道によって造られたこことがわかります。目尻をつり上げた厳しいまなざしやなめらかな頬は鎌倉時代後期の院派仏師らによる作品の特教を示しています。

達磨像
 本堂の3尊のうち千手観音像の左隣に安置されている像で、重要文化財に指定されています。像高は88cmで寄木造りです。この像は大型の達磨像で、袈裟を深くまとって膝の上で定印を結んでおり、面長な顔に大きく見開いた眼、それに閉じた唇から前歯2本をだすという個怯的な表情をしています。像底には朱で記された銘文があり、この像は水草2年(1430)4月に室町幕府6代将軍足利義教の命によって椿井仏師の集慶が造ったこと、彩色を僧の周文が担当したこと、それに左の眉と眼、鼻・口・両手は旧像の部位を用いて造ったことが記されています。しかし、外見上は旧像の部位を用いたようなところが見当たらないので、旧像の形にならって造られたと考えるのがよいと思われます。周文が担当したという彩色も永享2年当時のものかどうか慎重に検討する必要があると思われます。

千手観音像
 本堂の3尊のなかでも中央に安置されている寄木造りの像で、像高が76.8cmあります。嘉永3年(1850)の史料には、この像が方丈(客殿)の本尊として記されています。頭上には11面があり、大手か合掌手と宝鉢手の各2本、中手が各16本、小手が左177本、右179本で、当初は500手近い千手であったと考えられます。造られた年代などを示す銘文はありませんが、腰の座った安定した正面観や平滑に内刳りされた像内の構造などからすると、15世紀の院派仏師の作風に近く、達磨寺の中興を記念して中興記幢が建立された文安5年(1448)ごろが制作年代を推定する目安となると考えられます。

方丈
 3室2列という禅宗の方丈の基本形からなり、西面が入母屋造、東面が切妻造で本瓦茸の建物です。棟札から寛文7年(1667)に京都の工匠によって建立されたことがわかり、当初の形式がよく保存されています。この建物は奈良県では類例の少ない本格的な方丈建築として、平成元年(1989)3月に奈良県指定文化財になりました。

中興記幢
 本堂の北側にある高さ約180cmの八角形の石幢で、連勝寺の中興についての銘文を各面に陰刻したものです。重要文化財に指定されています。達磨寺の中興を成し遂げた南峯和尚が、南禅寺の惟肖和尚に頼んで永享7年(1435)9月に記してもらった達磨寺中興記を、南峯和尚が一文を添えて石幢としたのがこの中興記幢です。そこには、旧仏教勢力による弾圧によって荒廃していた達磨寺を、南峯和尚が山名時熙と室町幕府の将軍足利義満、義持、義教の力添えをえながら中興を成し遂げていった経過が刻まれています。
中興記幢地下遺構  平成12年(2000)7月に達磨寺境内の整備にともなって中興記幢を移動したさいに新たに発見された適構で、記幢の下から石碑が、さらにその下から備前焼大甕が出土しました。出土した石碑は最大部で縦約130cmx横約110cmx厚み約24cmあり、朱で記された銘文から、達磨寺を中興した祖能禅師(南峯和尚)をたたえて嘉吉2年(1442)に制作されたものであることがわかります。また、備前焼大甕は口径約48cmx高さ約85c血で15世紀中ごろのものと考えられ、大甕のなかには口径7・5cm×高さ5・5cmの龍泉窯系の青磁香炉が入れられていました。
達磨寺1号墳  達磨寺古墳群3基のうちの1基で、本堂の東北隅にあります。この古填は復元すると経16m、高さ4m以上となる円墳で、東に開口する全長5・8mの両抽の横穴式石室をもっています。玄室からは組合せ箱式石棺の一部が確認され、石棺の付近からガラス小玉」ガラス管玉、鉄銀片のほか、杯、台付長頚壷、同蓋、長頚壷、堤瓶、短頚壷、坩の須恵器が出土しました。出土遺物や古墳の築造法などから、この古填は6世紀末ごろに築造されたと考えられます。
達磨寺2号墳  達磨寺古墳群3基のうちの1基で、1号古墳の南側約8mの地点にあり、現状の測量図から径約16m、高さ約2mの円墳であることが確認できます。南側には横穴式石室の羨門の一部が見え、堆積している土砂の間から内部をうかがうことができます。墳丘からは、江戸時代の銭貨である「寛永通宝」が2点出土しています。この古填は6世紀末ごろに築造されたと考えられます。

本堂
 当寺本堂は代々、達磨大師の墓所であるといわれる古墳の上に建立されています。 「寺院明細帳」には、旧本堂が明治11年(1878)に大破したために修繕をして、合わせて新しく旧拝堂を建立した ことが記されています。新本堂は平成12年(2000)より勧進を始め、多数の皆様のご支援のおかげをもちまして、 平成16年(2004)4月11日落慶をさせて頂きました。ここに厚く御礼申し上げます。
松永久秀の基  本堂の西にある石塔で、現在は摩滅して読むことができませんが、もとは「松永久秀墓天正五年十月十日」の文字が刻んであったといいます。松永久秀は、天正5年(1577)10月10日に織田信長方の攻撃を受けて信貴山城で自害しており、筒井氏がその亡骸をこの地に葬ったといいます。
片岡春利の基  本堂の西にある石塔で、春利は筒井氏の麾下で順慶の妹婿にあたります。石塔には「元亀元年三月五日卒」と刻まれているといいます。