*************************************  無秩序にひしめき立つ無闇に背の高い針葉樹と、湿った草と土の匂いに包まれて、 ごく若い兵士がひとり、折り重なる枝葉に遮られて太陽の光もまばらにしか届かない 森の底を駆け抜けている。  ようやく声の変わった頃だろうか、青年と呼ぶにはまだいくらか早い少年兵である。  走って走って、ぼこりと盛り上がった木の根につまづいてよろめいたが、どうにか転倒は 堪えて体勢を立て直し、彼はなおも走り続けた。  足音に混じってまとわりつく、この耳障りな激しい音は何だろうか。  ひゅうひゅうと繰り返される、穴の空いたふいごに似た音は、自分の肺と口から絞り出さ れていた。  潰走である。  前線への物資補給を兼ねた小規模な増援部隊は、森で待ち伏せていた敵に囲まれ、 いとも容易く突き崩された。  糧食や武器の詰まった荷車が横転し、車に繋がれていた空背のチョコボ達は手綱をひきち ぎって走り去る。そして空気を裂いて飛び交う矢弾と、氷や風の魔法。幸いにもと言うべき だろうか、さすがに木々の隙間で炎を放つほど理性を失した者はいなかったらしい。  荷を警護する歩兵のひとりだった彼は、お仕着せの長剣を振り回しながら指示を仰ぐべく 上官の姿を探した。間もなくそれらしい甲冑を纏った身体は視界に入ったが、残念ながら 首から上は見当たらない。  少年は知っていた。勇敢に戦う事と無駄死にする事は違うのだと。  もはや一方的な虐殺と略奪に移行しつつある戦況に見切りを付け、彼は森の奥へ向かって 駆け出した。自分を逃すまいとして刀を振り上げた男に、呪文でまきあげた土砂をぶつけて 目くらましを仕掛ける。さらに幾人かの追手がついた。それらを魔法や急な方向転換で 誤魔化し誤魔化し走り続けるうち、背後に迫る気配は感じられなくなった。  とりたてて出っ張った石くれも木の根もない場所で足がもつれ、今度はあっけなく転倒する。  厚く積もった腐養土と枯れ葉は、思いのほか優しく彼を受けとめた。  緊張と疲労で頭がズキズキ痛む。心臓を吐き出してしまいそうだ。  喉は渇れ果てて、今はもう指先ほどの火の玉も出せそうにない。  どくどくと暴れ続ける心臓の音と荒い息遣いが、森中に響いているかのような錯覚に陥り ながら、彼はその場に倒れ込んだままじっとしていた。  ようやく起き上がれたのは既に日が暮れかけた頃だったので、しばらく気絶でもしていた のかもしれない。  奇跡的に無事だった携行食糧と革袋の水で喉と胃をなだめ、彼は歩き出した。  (…帰らねェと)  本隊へ。我が家たる砦へ。  一刻も早く、この急を知らせねば。  すっかり太陽はその身を隠してしまったが、星の明かりと方角を頼りに来た方向へ戻る。  また力尽きて倒れては元も子もない。駆け出したくなる衝動を押さえ付けながら、彼は早 足で黙々と歩き続けていた。  ――バキッ。  驚くほど近くから聞こえた枯れ枝を踏み折る音に、彼は体を強張らせる。  敵か、獣か。息を殺して周囲を見回した。木陰の闇に、いかにも剣呑に輝く何対かの光点。  とっさに武器を求めて腰の辺りを探るが、剣は襲撃の混乱の中でなくしてしまっていた。  何もないよりはマシだとばかりに、小さな雑用ナイフを構えた次の瞬間、まだ薄い肩から 大きく力が抜けた。しつこく引っ掛かっていた雲から解放された月が照らし出したものは、 皇国軍の紋章入りの金属と革を身に付けている。  ひょこひょこと近寄ってくるのは装備の整えられた数羽のチョコボである。リーダー格ら しき1羽が、少年を励ますように小さく鳴いた。  「よかった。生き残ったのは俺だけじゃなかったんだな」  つい綻びそうになる表情を慌てて引き締めた。  こんな時にチョコボの脚と帰巣本能があれば、これほど心強いことはない。  先頭にいた1羽の首をぽんぽんと叩き、その背によじ登る。  歩兵の少年にとってそれは初めての騎鳥だったが相性が良かったのか、特に鞍から 転がり落ちたりもせず、一行は極めて順調に進むことができた。  それから1時間ほど歩いた先で、どっかりとしつらえられた敵の夜営地に、行く手を遮られるまでは。  月はいくらか傾き始めていた。  東の言葉で表現するならば、丑三つ時と呼ばれている時刻である。  これが人里であれば目を覚ましている人間を探す方が困難な時間帯だが、こと遠征中の宿 営で、兵が一人残らず眠りこけている事などまずあり得ない。  現に天幕の群れの間にはいくつもの焚き火が揺れ、それぞれに不寝番が貼り付いている。  焚き火の明かりが届かない距離で、少年と鳥達は蹲っていた。  (このまま朝まで待機して、こいつらが動くのを待つべきか?…ちッ、目的地が同じなら無意味だな)  この連中が砦を奇襲するつもりであれば、なおさら先を急がなくては。  迂回も名案とは思いづらかった。夜営に使われている比較的ひらけた空間の周りには、茂みや 背の低い木も多い。お陰で姿を見られずに潜んでいられるのだが、この面子が音を立てずにぐるりと 移動するのは難しいだろう。  先程まではありがたく感じていた光曜日の満月だが、今となっては恨めしい。  地面に伏せ、じりじりしながら天幕や歩哨を睨んでいた少年は、あるものを目に止めて息を飲んだ。  それはアトルガン皇国の荷車だった。この宿営地の一角へ鎮座するには似つかわしくない。  ほんの半日前まで少年が警護していたものである。昼間の襲撃の記憶がまざまざと甦り、瞬時に カッと頭へ血がのぼる。奥歯を噛み締め、浅く早い呼吸を繰り返していた少年の肩に何かが触れた。  ずっとおとなしく伏せていたチョコボ達の1羽――彼がここまで乗ってきた奴――が、その大きな頭を 押し付けてきたのだ。鳥達を振り返ると、優しく光るいくつもの視線が自分に集中していて、 『大丈夫、落ち着け』…そんな具合の事を言われているような気がした。  「…子供扱いすんな」  むっつりと呟いてみたが、気が抜けて楽になったのも事実である。  一番近くにいた奴の体をぺんと軽く叩いて感謝の意を示した。  ほどよく冷えた頭で奪われた荷車を再度眺める。少年は、積み荷の中身を思い出して口の 端を歪めた。皇国軍の物資をいいように使われるのは癪だ。取り戻すことも難しい。  ならばいっそ…。  数分後、彼は一人で敵陣の端を這い進んでいた。  目指すは奪われた荷車のうち一つ――の近くにある焚き火から20歩ほどの位置。  見張りに気取られぬように細心の注意を払いつつ、じりじりと移動する。  姿隠しや音消しが使えれば簡単な話だが、ない物をねだっても始まらない。  …と言うかそもそも隠密魔法や薬品さえあれば、何の心配もなく先に進めたのだ。  無駄なことを考える暇があったら、歩哨の視線に神経を集中しよう。  間もなく少年は目的の場所に辿り着いた。  冷や汗と草の露や湿気で服がじっとりと重い。気分は最悪だ。  どちらかと言えば気温は暖かいくらいだったが、地面から引き剥がした指先が冷えて震えた。  恐らくは緊張と、恐怖で。  (引き返せやしねェんだ…肚くくれ、俺)  体は起こさず腹這いのまま、少年は短く呪文を唱えて解き放った。  魔法の効果範囲ギリギリに位置する焚き火が一つ、どー――んと派手な火柱を上げる。  火の側にいた兵士が尻餅を搗くのを横目で見ながら少年は立ち上がり、大きく息を吸って 腹の底から怒鳴った。兵法書にも書いてある。昔ながらの、突破方法。  「火事だぁァァー――!!」  膨れ上がった炎は狙い通りに近くの木と皇国印の荷車に燃え移った。  次の瞬間吹き付けてきた爆風を、もう一度地面に伏せてやり過ごす。  奪われた荷車に積まれていた弾薬類に、うまく引火してくれたらしい。  ざわざわと起き出した東の兵達は少年に気付かず、いくつかの天幕まで巻き込んで夜空を 焦がす炎をまのあたりにして騒ぎ始めた。  そして爆音を合図に全力で飛び出してきたのが数羽のチョコボ達である。  先頭を走る闇色の1羽に少年が飛び乗る。  『敵襲だ!いや、山火事だ!』恐慌状態に陥りつつある兵士達を揺れる鞍上から見やり、  少年は狂暴な笑みを浮かべた。疾走するチョコボに跨ったまま、長い呪文を早口に詠唱する。  「…ファ…イ……!」  とうに恐怖は限界を越えていた。今では逆に、怖いものなど何もない気がする。  さあ、気分は?最高だ。  「…ガー―ッ!!!!!」 *************************************  (いやもうアレだ、後にも先にもいっぺんキリだぜ火の輪くぐりなんざやらかしたんはさァ。   サーカスで芸する奴の気が知れんよ!あんなん二度とごめんだね、オレは!)  隣房の住人に向かって陽気に語りかけているのは、大柄だが細身のチョコボ。  柵越しに耳を傾けているのは、最近羽の縁が黒ずんできたコチョコボ――小さなアズラ イールである。  (とにかくまさに火事場のバカぢからって奴?ま、あん時ゃ火事も自分らで起こしたんだ   けどなァ!)  頭を揺らしてクェクェと笑う。  彼の羽色は一般的な黄だが、窓からさす太陽の光が当たると赤っぽくキラキラした。  火みたいでカッコいい。目を細めながらアズライールは先を促す。  (それでがだらる、がファイガー!して、どうなったの?)  大きな隣人は長い首を伸ばしてアズライールの体をこづいた。  (曲がりなりにもご主人なんだ、様ぐれー付けてやんな)  押されてぽてんと転がったチビの姿が妙に愛らしい。  (けけけ…丸っこいハラだ。そんで何だっけか、坊ちゃんのファイガー!のあと?そりゃもう   辺り一面火の海よ。そこら中の天幕がなァ、ぶわーっと篝火になんの!壮観だったぜェ!!)  彼はガダラルを坊と呼ぶ。会った時からずっとそうしてきたらしい。  アズライールには飼い主の子供時代がどうにも想像できなかったため、いつ見ても仏頂面 のあの男と、坊ちゃんという言葉の不釣り合いさが面白かった。  (オレ達は走ったよ、火ン中をさァ。生意気にも坊ちゃん見っけて斬り掛かってくる連中   がいたんで、そんなのを蹴っ倒したりしながらな!…ちっと怪我しちまったけど)  大した事じゃないと翼を振ってみせた彼だが、陽気な隣人の足指が1本欠けている事を アズライールは知っていた。  彼の思い出話は続く。  消火に気を取られる東の兵達を尻目に、見事敵陣を突っ切ったこと。  坊ちゃんを交代で乗せながら、夜通し走り続けたこと。  無事に砦へと帰り着き、皇国の貴重な財産たる軍羽を守った功で歩兵の少年は 専騎を与えられ、騎兵隊に編入されたこと。後で確認された敵部隊撃退の事実により、 坊ちゃん――少年兵ガダラルの軍功に箔が付いたこと。  (そんで、オレの指導羽デビューにもなったァな!)  言い放つ彼の声は、どこまでも朗らかだ。  (なにも最前線で駆け回るだけが仕事じゃねェのよ!オレは楽しんでんだぜ。新兵君達の騎鳥   訓練も、治りかけの負傷者乗っけてリハビリさせんのも…)  アズライールは何か言いたげに嘴を少し開いたが、結局何も言わなかった。  (…もちろんお前らチビども引き連れて、一緒に遊んでやんのもなァ)  彼とは今まで何度も駆け比べをしたが、アズライールが勝てたためしはまだ一度もない。  息を切らして走る自分達に、応援や助言の声を降らせながらのんびり追い抜いて、彼は いつもゴール地点で待っていてくれた。  ――ほらもっと歩幅広げろォ、顎を上げんなー!  しかし最近、ゴールで待たせる時間が短くなってきた気がする。もうすぐハンデのスタート待ち時間 が要らなくなってしまうだろう。運動場から帰るときも、チビ達ペースでゆっくりのんびりである。  彼が本気で走る姿を、アズライールは見たことがない。恐らくこれから先も目にする機会 はないだろう。残念に思った。太陽の下を風のように走る彼は、光を弾く黄と赤の羽がはためいて、 きっと凄く綺麗でカッコいいのにな、と。  ああ、そうだ。一つ訊き忘れていた。  (なんで一緒に帰ろうとしたの?チョコボだけの方が速いでしょ?)  そんな状況では人間の子供など、文字通り足手まといのお荷物としか思えないもの。  重ねてそう言うと、アズライールの教師兼友人は上を向いて笑った。  (ホントご主人に容赦ねー奴だなお前はァ!   オレ達ゃ黒い御仁に従っただけさ。今度自分で訊いてみな。オレもだけどあの大将   特にちっちぇーもん好きだし、そう深い理由はねェと思うぜ)  しんと静まり返っていた厩舎の周りが、いつの間にやらざわつき始めていた。  人の話し声とチョコボの鳴き声が混ざり、少しだけきな臭い感じが鼻を掠めた。  (帰ってきたなァ)  彼の呟きと同時に厩舎の扉は開き、どやどやと人やチョコボが雪崩れ込んでくる。  その後はもう先ほどまでの静けさなど何処へやら、朝と同じ賑やかさの始まりである。  アズライールはぴょんぴょんと飛び跳ねながら周囲に目を凝らしていたが、やがて目的の 姿を発見して歓迎の声を上げた。  (ソルーシュ!がだらる…様!おかえりなさい!)  はしゃぎ過ぎてまた無様に転んだものの、兄とご主人が笑ってくれたので良しとしよう。 *************************************