バスルームから部屋に戻ると、ベッドの上にあったバスローブを羽織り、まだ上気した体でカウチに

腰かけ、ふう、と溜息をついた。

 全身のそこかしこに、バスルームでの強烈な快感の余韻が残っている。

 なんか、飲もう。

 部屋の隅にこれまた真っ黒な冷蔵庫を見つけた。中には色々入っていたけれど、もちろんビール始め、

アルコール類もあったけれど、ミネラル・ウォーターのペットボトルを取った。

 カウチに戻って水を一口飲んで、また溜息。

 自分の体が自分のものじゃないみたい。どうしてこんなに感じまくってしまうのだろう。

 こんなことはなかった、こんなに我を失うほどに感じてしまうことは、あの男とでは…。

 思考がやばいエリアに入りかけたところで、彼がバスルームから出てきてくれた。腰にバスタオルを

巻いただけの姿。

「ビールじゃないんだ?」私の手元を見て。

「さすがにね。もう今夜はやめとこうかなって」

「そうだね、帰らなきゃいけないし」

 そら、そうだわね。

 彼は自然な仕草で私の手元のペットボトルを取って、ごくごくと飲んだ。そして、それをまた

私の手に戻してから、ベッドの上に手を伸ばし、バスローブをふわりと羽織ると私の隣に腰掛けた。

その一連の動作が流れるように優雅で、ゆるやかなダンスのよう。

「ごめんね」彼が私の顔を覗き込んで言った。

「う、何が?」何を謝られているのかもわからないし、相変わらず彼の顔のアップはどきどきモノだし、

私はうろたえてペットボトルを口につけた。

「ナマで入れちゃって」

 私は飲みかけていた水を吹き出しそうになった。「あ、ううん、外に出してくれたし…そんな

危ない日じゃないし」

「そう言ってもらえると、罪悪感が和らぎます」彼の唇が私の額に触れた。

 額の一点に熱が集中する。

 その熱に、またすぐに溶けそうになる。

「そ、それにしてもさ」

 熱を紛らわすために、私は慌てて口を開いた。

「色々…知ってるし、できるんだなあって、早乙女くん…感心しちゃった」

 言ってしまってから、ああ、私ったら言うに事欠いてなんてこと、と思ったが口にしてからではもう。

ぶわっと頬が熱くなるのを自覚した。

「色々って」少し考えてから、私の表情を見て何のことか理解したのか、彼はくすくす笑って。

「そりゃ、どうも」

 ああ、私ったらもう。

熱い頬をペットボトルで冷やす。

「うーん、怒るかなあ、さすがに、曽根さんでも」と、彼は笑いながら変なことを言った。

「何を?」

「俺が色々知ってて、できるワケ」

「…経験豊富なワケ?」

「身も蓋もないな」

「怒らないから、言ってみて」

「本当に?」

「怒ったってどうなるものでもないでしょ」

 怒る資格もないのではないか?

 本当は、ワケを追求する資格もないのではないか?

「確かにねえ」彼は肩をすくめてから。「あのね、俺、かなり大勢の女性と、次々に寝ていた時期が

あって」さすがに私の目を見ないで言った。

 そんなことだろうと思ってはいたが、本人の口から聞くと、さすがにズキンと胸に響く。

「複数の女性と平行してつきあってたってこと?」

「いや、何度かつきあった人もいたけど、ホトンドが一度限り」

「…エンコー?」

 彼は少し考えて。「その時はそんなつもりはなかったんだけど、今考えてみると、それに近いかも」

少しだけ唇を噛んだ。

「早乙女くんなら…そりゃもう売り手市場だよねえ…」

「まあね…自分から声かけたことはないからね」

 彼が言うと、イヤミに聞こえないあたり…

 私は彼の肩に、強めに頭突きした。

「まさか、今はやってないんでしょうね?まあ、こんな田舎でそんなことできるわけないか。町中に

バレバレだ」

「やってない、やってない」彼は笑って、胸の前で手を振る。

「なら、許す、って私が許す筋合いのもんかどうかもわかんないけど」

「やっぱちょっと怒ってない?」

「怒ってないよ、だって何か理由があったんでしょ?そんなことをしなければならない」

 深い意味があって言った言葉ではなかった。彼のような優しい真面目な人が、エンコーまがいの

ことをしなければならなかったというのは、何らかの理由があったのだろうと、そう思っただけの

ことだった。

 なのに、彼は苦しそうに目を閉じて、「理由…」呻くように呟いた。

 え。

 そんなに、深刻な理由が?

「い…」

いいよ、そこまで話してくれなくて。そう言おうとしたとき、彼が早口で言った。

「それは、今は訊かないでくれる?いつか、きっと話すから」そう言って、深い溜息を吐いた。

「う、うん、いいよ、そんなこと…気にしないから、私、ホント。いつでもいいし、話さなくても

いいし」

 訊く資格ないよ、こんな私には…

 私の方がきっと言ってないことたくさんある。

「ありがたいよ、そう言ってもらえると」彼はほっとしたように

「誰にだって秘密はあるよ」自分への言い訳も含めて、私は言った。

「秘密か…あ、そうだ。ききたいことがあるんだけど」

 彼は、さっと私の方を向き直り。

 え、何?あらたまって…

「な、なんでしょう?」正直、びびった。

 彼は真面目な顔で、「さっきの、笹本が言ってた三件の中に、三浦は入ってるの?」

「えっ…」

 正直、動揺した。

 言うべきか、言わざるべきか…

「…は、入ってます」

 きっと彼は判って訊いているんだ。それに、その場しのぎで嘘ついたって、あの澄んだ眼差しには、

簡単に見透かされてしまうだろう。

「やっぱりな…」彼は、ふう、と溜息を吐いて。「つきあって…は、いないよね?」

 私は慌てて胸の前で両手を振って。

「ないないない、つきあってたら、早乙女くんとこんなところにいませんて」

「そりゃそうだ」彼はやっと笑ってくれて。「つきあってはいないと思ってたけど、でも、

仲いいからさ、一応確認しとかないと」

「そ、それほどでもないと…」

「いやあ、息が合ってて、夫婦漫才みたいだよ?」

「ええ〜」…いやだな。

「いつ、告られたの?」

「えと…」私はもぞもぞと。「去年の冬…」

「すぐに断ったの?」

「うん…三浦のこと嫌いじゃないけど…異性として好きかっていうと、そういうんじゃないし…それに」

 澄んだ眼差しが痛くて、目をそらした。

「…その頃、男性恐怖症気味だったし…」

「えっ」驚きの声。

 しまった。

「男性恐怖症って…曽根さんが?」

 言うんじゃなかった。

「どうして?」

 ああ、どうしよう。

 心の準備ができていない。

彼になら、言えるかもしれないと、考えられるようになってきていた。

彼なら、私の傷を知っても、軽蔑しないで、受け入れてくれるのではないかと…。

もし、早乙女くんの彼女になれるのなら、ちゃんとつきあう前に言うべきだろうと思っているし。

黙っているのはフェアじゃないと。

 今、言うべきなのかもしれない。チャンスなのかもしれない。

 彼に知ってもらえば、自分自身もこの傷を克服できるようになるのかもしれない。

「だって、今は…」彼は自分の両手と私を交互に見る。さっき、彼の腕の中で溶けまくった私が、

つい数ヶ月前まで男性恐怖症だったなんて、信じられないのだろう。

 数ヶ月前どころではない。早乙女くんに触れられるまでは、怖かったのだ。怖いから、女史と

呼ばれてしまうほどの強力なバリアを張って、自分を守っていたのだ。今だって、彼以外の男性に

触れられたら、恐怖の発作に襲われるのかもしれない。

 だけど…彼だけは…。

 真摯なまなざしが、私を見つめる。

 私の言葉を待っている。

「私ね…」

 言葉を口にした途端、息苦しさを覚えた。

 彼なら大丈夫……そう思うのに。

 息ができない。

 声が出ない。

 胸が痛い。

 苦しい…。

 もし、彼に嫌われたら、軽蔑されたら、どうする?

 もう抱いてもらえない、キスもしてもらえない、口をきくことさえしてもらえなくなったら。

 信じているけど…彼なら、と思っているけど…

 ……蓋が、開く。

 ―――怖い!

「曽根さん?」

 彼の手が私の両肩を掴んだ。

「どうしたの?」

 私はいつの間にか泣いていたのだった。

「ご…」やっと声が出た。かすれた情けない声だったけど。「ごめんなさい…」

 彼の胸に引き寄せられた。

「…言えな…まだ…ごめんなさい…」

 ぎゅうっと、痛いほどに、彼の腕が私を抱きしめた。

「いいよ、俺こそごめん、変なこと訊いた」

「ううん…言わなきゃ…なんだけど…」

 私は臆病者の上に卑怯者だ。

「いいよ、もう。俺だって、言えないことあるんだからさ。今、ここにいてくれるんだから、

それだけでいいよ」彼の唇が私の頬の涙を舐め取る。

 その言葉が嬉しくて、彼の胸が広くて、また泣けた。

「…忘れさせてあげる」

 そんな囁きが耳をくすぐった。


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樹下の天使3−3B