お仕事シリーズ4 誉兄&高橋 お仕事シリーズ第4段「誉兄&高橋」です。
さりげなく『ともに慈雨を』裏話です。



 ふっくらとした掌の上に、緑がかった金色の籾がひとつかみ。その手は、大きくて節くれ立ってはいるが、色白で柔らかそう。海焼けと雪焼けで年中真っ黒な顔とは、違う人のもののようだ。
 そうか、杜氏の手なんだな、と、いくらかの緊張感の中、思った。
「うん、良い出来だ」
「えっ」
 シンプルな褒め言葉に、俺は思わず誉さんの顔を見上げた。
「えっ、て何だよ、驚くとこか? それともヒロ、お前、そんなに自信の無いブツをウチに納めようとしてんのか」
 誉さんは、自分の掌の上の籾に見入っていた顔を上げ、眼鏡の奥の目を細めて笑った。
「そ、そーじゃないけどさ、なにせ酒米作ったの今年始めてだから、そんなに簡単に合格点もらえると思ってなかったもんで」
 正確に言うと短大と大学の実習でやったことはあるのだが、そんなのはやったうちに入るまい。ウチの親父も作ったことが無かったから、まずは資料を読みあさり、それでも解らないところは大学や農業試験場に相談したり、ベテランの酒米農家に聞き回ったりして、やっとのことで収穫にこぎつけたという有様だったから。
「食米のことはヒロの方が詳しいだろうけどさ」
 さらさらと、指の間から細く籾の粒が落ちる。その手つきは愛おしげと言っていいほどに優しい。
「酒米についちゃ、俺だってなかなかのもんよ?」
「分かってるよぅ」
「なら褒めてるんだから、素直に喜べよ」
「もちろん喜んでるよ」
 ってか、ホッとしてるっつーか。
「さて」
 一粒残らず米を戻した誉さんは、丁寧に袋の口を閉め、
「良い米作ってもらったんだから、あとは俺の腕次第ってワケだな」
「誉さんがリーダーで造るの?」
 曽根酒造さんには、社長であるお父さんもいるし、毎冬杜氏をしているベテラン職人さんもいるので、誉さんは不惑を迎えようとしている今でも、まだ若旦那兼杜氏見習的な立場のはず。
 誉さんは片目を渋そうにつぶり、
「ってかさ、年寄り共は、今回のプロジェクト、所詮若旦那の道楽って思ってるわけよ。減農薬有機栽培米で造りました、なんて謳ったって、高くつくんだからそうそう売れっこないべさ、とか言ってるわけ。だから意地でも俺がやるしかないわけよ」
「えー、そうなんだ?」
 俺は今回の減農薬有機栽培米のみで酒を造るというアイディアを聞いた時、絶対ウケると思い、迷わず参加表明したのだが。だって、ウチのコシヒカリだって、減農薬有機栽培の方が通常栽培より3割方高いのに、良く売れているから。現代の消費者は、食の安全には非常に敏感だと思う。
「だからもう、絶対旨い酒にしなきゃなんだよ。いや、旨い酒ってだけじゃ駄目なんだ。売れる酒造らないと」
 誉さんはそう言うと、きりっと唇を引き結んだ。
 その引き締まった表情に、思い出した。
 ジャンプ選手時代の誉さんを。


 子どもの頃から、普段はいかにも落語に出てきそうな昼行灯的若旦那タイプで、のらりくらりおっとりした人なんだが、飛ぶ時だけは顔付きが違っていた。
 誉さんに憧れて、俺も一時スポーツ少年団に入り、ジャンプをやろうとしていたことがあった(恐がりなので見事1シーズンで挫折したが)。もちろん誉さんは10歳も上だし、選手としてのレベルも雲の上の人だったから、一緒の大会に出ることは無かった。それでも応援に行った競技会で、ジャンプ台の急な階段を、長いスキーを担いで一歩一歩上っていく誉さんの顔付きが変わっていくのを見ていると、見てるだけの俺まで気合いが入ってきたものだった。
 その時の顔に似ているかもしれない。
 飛んでやる、という覚悟を決めた時の顔付きに。

 ああ、そうか。
 誉さんは飛ぼうとしているんだ……

「……うん、頑張って良い酒造ってよねっ」
 思わず力の入った声でそう言うと、
「なんだよヒロ、いきなり気合い入れちゃって?」
いつになく引き締まっていた表情が、途端に緩んだ。
「俺はウケると思うよ。減農薬有機栽培米の酒って」
「まあなあ、ヒロに払う米代くらいの儲けは出さないと、正に企画倒れだ」
 親父たちにも、ホレ見ろ、ってバカにされること請け合いだし、と、誉さんは憂鬱そうに付け加えた。


 俺にとっての誉さんは、永遠に憧れの兄貴だ。それは飛ばなくなった今も変わりない。
 子どもの頃は、どうしてこの人は、俺の兄さんじゃなくて、美誉の兄さんなんだろうって、悔しく思ってしまうほど、俺はこの人が好きだった。

 今回のプロジェクトを打ち明けられた昨冬、酒米を作ったことのない俺が、どうして後先考えずにその提案に飛びついたか、今、解ったような気がした。
 いつにない気合いを感じたのだ。誉さんに。
 飛ぼうとしている気配を感じたのだ。
 だから俺は、この人が飛ぶのを応援したいと、直感的に思ったのだ。

「バカにされないようにさ、頑張ろうよ。人手が足りなかったら、声かけてよ。手伝うからさ」
 勢いでそう言ってしまったら、誉さんはニヤリと笑った。
 美誉の言うところの、
 兄貴ってさ、一見、いかにも「豆腐にかすがい」じゃん。でも、その豆腐を割ってみたら、中は真っ黒でした、みたいな感じしない?
 正にそんな雰囲気の笑みで。 

「ほーお。ヒロ、今の言葉忘れるなよ?」



※ふたりが無農薬有機の酒米&酒造に始めてチャレンジした、秋の話ですー。(2008/3)

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