草創期の幕府において、尊氏が軍事指揮権・恩賞権・守護補任権などを握って全国の武士を統括し、弟の直義が所領等の裁決を行って統治面での政務を執行しており、この二頭政治は初期こそ有効であったが、しだいに尊氏党、直義党とも言うべきそれぞれの側に密接する勢力が形成されることになった。とくに尊氏直属の軍団長とも言うべき地位にあった高師直の威勢が増大し、所領不足を訴える麾下の将士に公家・寺社の所領の押領を認める師直と、法を遵守させる立場にある直義との間で反目が深まっていった。
同年8月、師直が5万余騎ともいわれる大兵力を動員して直義邸を圧迫したことで両者の対立は決定的なものとなり、この事態を憂慮した尊氏は直義を自邸に匿って和睦を斡旋し、直義党の上杉重能・畠山直宗の配流や、直義が政務から引退して義詮に後継させるなど、師直側の要求をほぼ全面的に通す形で和睦が成ったのである。
しかし事態はこれで収まらなかった。翌観応元:正平5年(1350)10月末、九州の足利直冬討伐のために尊氏・師直らが京都を離れている隙を衝いて、直義が尊氏から離反して南朝に帰順したのである。この直義・南朝軍に京都を制圧された尊氏は軍勢を返して奪還を試みるが成らず、観応2:正平6年(1351)2月に和議を結んで帰京するに至った。しかし尊氏・義詮父子と直義の不和は止まず、身の危険を察知した直義は8月に京都を脱出して北陸、ついで関東へと向かって11月に鎌倉に入っているが、この間の10月に尊氏も南朝へ帰順し、南朝の後村上天皇から直義追討の綸旨を得て11月には関東へ出陣、同年末には駿河国で直義勢を破った。
この後に両者の間で和睦交渉が持たれ、翌観応3(=文和元):正平7年(1352)1月に兄弟で鎌倉に入ったが、直義は2月26日に急死した。その死因は病死とされているが、当時から尊氏の手による毒殺説が囁かれている。
いずれにしても直義の死によって足利氏の内訌である観応の擾乱は終結を見るが、未だ政情の安定は成らなかった。この年の閏2月、後村上天皇から尊氏らの帰順を容れたのは「暫時の智謀」だったとして挙兵を命じられた上野国の新田義興・義宗兄弟(新田義貞の子ら)が鎌倉へ向けて進発した。また、時をほぼ同じくして畿内でも南朝軍が蜂起して義詮が守る京都へ攻め入っており、ここに尊氏と南朝は決裂したのである。
尊氏は新田軍の他、信濃国に在った後醍醐天皇の皇子・宗良親王を奉じた南朝軍や旧直義党の武将であった上杉憲顕・石塔義房らと人見原・金井原・小手指原などで戦い、一時的に鎌倉を占拠されはしたものの、苦戦の末に南朝軍を駆逐して鎌倉に入ったのは3月12日(武蔵野合戦)。この間、京都でも義詮の軍勢と南朝勢の激しい攻防が繰り広げられていたが、関東の情勢も予断を許せず、帰京することはできなかった。後事を子の足利基氏やその執事・畠山国清に託して京都に帰還したのは文和2:正平8年(1353)9月21日である。
翌文和3:正平9年(1354)12月にも南朝軍は京都に侵攻し、尊氏は北朝の後光厳天皇を奉じて近江国に退避しているが、翌年3月には播磨国からの義詮勢と呼応して京都を回復し、この攻防戦をもって畿内は一応の静穏を取り戻した。
延文3:正平13年4月30日、京都二条萬里小路邸で死去。背中にできた腫瘍が原因という。享年54。贈従一位左大臣、のち太政大臣を追贈。法号は等持院、法名は仁山妙義。前月には再び南朝方が勢力を盛り返していた九州への出征を計画していたが、尊氏の健康状態を気遣った義詮に諌められて断念したという。
尊氏の性格は、建武2年11月に後醍醐天皇から新田義貞率いる追討軍を差し向けられるという事態にあっても「これまで天皇の龍顔を昵近し奉りて、勅命を請て、恩言といい、叡慮といい、いつの世いつの時なりとも、君(天皇)の御芳志を忘れ奉ることはできない」と逡巡しながらも、代わって出撃した直義が苦戦しているとの報を受けて「直義が命を落とさば、我有りても無益なり。但し、違勅のこと、心中において発起に非ず」と出陣を決意し、建武3:延元元年8月17日付で清水寺に捧げた自筆願文では「自身には後生の救いのみを、直義には現世での果報と安穏を願う」旨を欲し、数多の戦場で窮地に陥ったときには何度も自害を思い立っては家臣に止められるなど、情が深く直情的であったとされる。夢窓疎石は尊氏を評して「強胆で死に臨んでも笑を忘れず、人を憎まず敵にも寛宥で、心広く財宝を惜しまない」という3つの徳をあげている。その尊氏が直義を殺害した(とされる)のは、直義との並立によって二元化した政治権力を集約して嫡子の義詮に委譲するため、との説が有力である。
また、尊氏の評価はその時代の皇国史観や政治情勢によって激変しており、明治42年(1909)には山路愛山が時代を代表する英雄と評価しているが、明治44年(1911)に南北朝正閏論が起こると逆臣として非難されることが多くなる。しかし戦後には古代の王朝権力を倒して歴史を進展させたこと、畿内近国の新興武士団を組織化したことなどが再評価されるようになっている。