阿蘇社北朝系大宮司・阿蘇惟忠の孫。阿蘇惟憲の子。別名を菊池武経。肥後守護。入道して満休斎と号す。
はじめ阿蘇社の大宮司職を継ぎ、肥後国益城郡矢部を本拠として益城・阿蘇の2郡を統治した。
文亀4年(=永正元年:1504)2月に肥後守護・菊池能運が没したのち、菊池氏の家督は能運の遺言によって菊池(肥前)政隆が継承したが、これを不服とする菊池家臣らによって永正2年(1505)に推戴された。この背景には菊池氏家中で政隆と反政隆派の家臣団の対立があり、同年9月頃は反政隆派から軍事後援を求められる立場にあったが、同年12月には肥後守護として迎えたいという旨の84名から成る連署起請文を受けていることから、政隆の対抗馬として擁立されたことが窺える。
惟長はこれを容れて同年12月に肥後守護の地位に就いたが、未だ肥後国の守護所である隈府への入部は果たせず、永正3年(1506)9月頃より大友氏の支援を得て政隆を逐い、永正4年(1507)に隈府に入って菊池氏の名跡を襲って菊池武経と称した。これに伴い、阿蘇社の大宮司職を弟の阿蘇惟豊に譲っている。
しかし大友氏の影響を受けた家臣団と不和になり、永正8〜9年(1511〜1512)頃に菊池氏当主と肥後守護の地位を捨てて帰郷したが、大宮司職をめぐって弟・惟豊と対立。永正10年(1513)に惟豊を矢部から逐って子・惟前を大宮司職に就けたが、永正14年(1517)に惟豊方の反撃を受けて没落、相良氏領の八代に亡命する。
その後、大永3年(1523)に益城郡堅志田城を奪ったと見え、天文6年(1537)に同地で死去した。