千葉胤紹(ちば・たねつぐ) 1408?〜1445

肥前国の国人領主。肥前国千葉氏。千葉胤基の子。千葉胤鎮の弟。通称は弥次郎。右京大夫。
永享9年(1437)、肥前国千葉氏の家宰・中村胤宣に擁立され、翌永享10年(1438)2月には兄で千葉氏の当主であった胤鎮を追い落して当主の地位に就いた。当時、肥前国を含む北九州では大内氏と少弐氏が争っていたが、少弐氏派であった胤鎮に対し、中村胤宣は大内氏の援助を受けて胤紹を擁立したため、この兄弟の相剋は、少弐氏と大内氏の代理戦争の様相を呈している。
胤紹は大内氏から小城郡の郡司に任じられ、小城郡の知行を認められた。また、右京大夫に任じられている。
胤紹陣営に敗れて放逐された胤鎮は、潜伏しつつ根強い抵抗を続けていたが、文安元年(1444)の冬頃に蜂起し、翌文安2年(1445)6月頃より反撃を開始した。
胤紹は同年8月には肥前国佐嘉郡の川上山田での合戦に敗れ、府城(小城郡の小城城か)をも落とされて長子の政胤らとともに討たれた(『鎮西志』)。なお『九州治乱記』では、小城城に退却する途中に討たれたとしている。38歳であったという。