天下統一はここに新段階を迎えたが、同年に石山本願寺が再挙し、西国の雄・毛利氏がこれを支援して反信長の立場を鮮明にした。そこで信長は本願寺を攻撃する一方で羽柴秀吉を播磨国に、明智光秀を丹波国に派遣し、本格的な中国経略に着手した。
松永久秀・別所長治・荒木村重などの離反などで中国経略はやや頓挫したが、天正8年(1580)には毛利氏と石山本願寺の分断に成功、10年間に亘って反抗を続けた本願寺を屈服させた。
天正9年(1581)2月には京都で盛大な馬揃えを挙行してその威風を天下に示し、天正10年(1582)には甲斐・信濃国に侵攻して武田氏を滅亡させた(武田征伐)。
ついで四国侵攻を計画の折、毛利氏と対峙する秀吉の要請によって中国路へ出陣しようとしていたそのとき、京都本能寺において明智光秀の急襲を受け、ここで果てた(本能寺の変)。天正10年(1582)6月2日黎明のことで、49歳であった。法号は総見院泰巌安公。
敵対した者や勢力を容赦なく殲滅する苛烈さを恐れられる反面で徹底した合理主義者であり、人材の登用についても有能な者は引き立て、働きを成さないものは家格が高くとも召し放った。軍事面においても、当時の常識を破る三間半槍や鉄砲の集団使用などを考案し、軍備の増強を図った。
流通や経済の振興政策としては、関所を撤廃すると共に、城下町に楽市・楽座制を導入、検地差出を徴し、堺など都市と流通を掌握するなどの統一政策を布き、既存の中世権門に大打撃を与えた。しかし柴田勝家に越前を与えたものの全権委任はしていないなど、その政治体制は信長個人の専制支配の色が濃く、政権の性格としては戦国大名から大きく脱皮することはなかった。それだけに政権も分国支配も、信長の死とともに瓦解した。
南蛮文化やキリスト教の布教には好意的に臨んだが、仏教などの既存権力には容赦なく弾圧を加えた。常に新しいものを望み、古く怠惰したものを嫌悪したためとされる。ためかキリスト教を布教することは認めたが、信長自身はキリストの教えは信じなかったという。
なお、信長に会見した宣教師・ルイス=フロイスはその著書『日本史』に「長身、痩躯で髭は少ない。声はかん高く、常に武技を好み、粗野である」とその容貌を伝えている。また「正義や慈悲の業を楽しみ、傲慢で名誉を尊ぶ。決断力に富み、戦術に巧みであるが規律を守らず、部下の進言に従うことはない。人々からは異常なほどの畏敬を受けている。酒は飲まない。よき理解力、明晰な判断力に優れ、神仏など偶像を軽視し、占いは一切信じない。名義上法華宗ということになっているが、宇宙の造主、霊魂の不滅、死後の世界などありはしないと明言している。その事業は完全かつ功名を極めている。人と語るときには遠まわしな言い方を嫌う」とも記されている。