冷泉隆豊(れいぜい・たかとよ) 1513〜1551

大内家臣。冷泉興豊の子。通称は五郎。正五位下。大夫判官を称す。
この冷泉氏は大内義弘の弟・弘正に始まる大内氏の庶家であるが、本姓の正統を侵すことを慎んで、母方の姓である冷泉に改めたという。
隆豊は和歌に通じ、大内義興義隆の2代に亘って仕えた。
大永7年(1527)、安芸国仁保島や国府(府中)城に戦い、武田光和より制海権を奪う。
天文11年(1542)、敵対する尼子氏の本国である出雲国への出征の可否を問う軍議では、陶晴賢が出陣、相良武任が反対意見を述べたが、隆豊は徐々に攻略しようとの折衷案を呈したという。
この出雲国出征は決行され(月山富田城の戦い)、隆豊は船奉行を務め、天文12年(1543)5月に撤退するときに義隆の嗣子・晴持を船に乗せて逃そうとしたが、その船が転覆。隆豊は懸命に探したというが、とうとう見つけることはできなかった。
同年12月から天文16年(1547)頃までは警固衆(水軍)を統率して伊予国沿岸に侵攻している。
出雲国出征の敗戦後、陶晴賢と相良武任に代表される武断派と文治派の対立を見て、義隆に文学・文化への傾倒を控えて軍事にも力を入れるように諫言し続け、晴賢に謀叛の風聞が立つと再三に亘って真相を究明するよう申し入れ、もはや謀叛が濃厚になると晴賢を討つように勧めたが、容れられなかった。
天文20年(1551)8月末に晴賢が謀叛に及ぶと最後まで義隆の逃避行に随行し、周防国山口の法泉寺に義隆を守り、逃れた先の長門国深川の大寧寺では最後まで追手と激しく戦って義隆に殉じた。義隆の自刃を介錯したのちに自害したともいう(大内館の戦い)。享年39。法名は東泉寺殿鳳仙道麒居士。