最上家臣。伊予守。
はじめ出羽国西村山郡谷地城の城代として4千石を給されていた。
民政、とくに治水事業において優れた手腕を発揮し、新田の開発などにもその業績を残した。とくに慶長11年(1606)には最上川の難所における開削の奉行として大いに手腕を発揮し、最上川の水運を最上領内における一大運輸機関にしたのも、光則の力に拠るところが大きいといわれる。
慶長16年(1611)、最上義光の嫡男・義康の殺害に関わる陰謀事件の調査を命じられたとされる。
元和年間の初め頃、最上義光の弟・光直が楯岡城主になると、その家老として天童の高城で5千5百石を給されたが、元和8年(1622)の最上氏改易によって没落した。