肥後国宇土郡の国人領主。肥後守護・菊池持朝の四男。菊池為邦の弟。弾正大弼。
宇土忠豊の養子となる。
通説では、肥後守護の地位を望んで文明16年(1484)に肥後国木原赤熊で甥の菊池重朝と戦い、文亀元年(1501)に重朝の子・菊池能運との抗争に勝利して守護を称したとされるが、実際は文明16年に菊池勢が宇土領の東の境界付近の木原赤熊(明隈)へ攻め込んできたのを迎撃(木原赤熊の合戦)するも敗れて逐われ、肥後国球磨郡人吉城主の相良為続を頼って相良領の松隈にて庇護を受け、文明17年(1485)の馬門原(幕の平)の合戦で相良為続らが菊池勢に勝利した際の講和条件で旧領の宇土を回復し、文亀元年5月に能運が重臣・隈部氏との抗争に敗れて肥前国高来(島原)に逐電したのち隈部氏らに奉じられて肥後守護を称した、というのが真相のようである。
しかし文亀3年(1503)8月に至り、八代の領有を企てる相良長毎の助力を得て勢力を回復した能運に逐われて筑後国へ亡命したが、立花山城守に捕えられて能運のもとへと送還され、子の重光、孫の宮満丸と共に隈府で殺害された。