明軍のさらなる南下を喰いとめるべく小早川隆景が漢城北方の碧蹄館に布陣、26日には明軍を打ち破った。有名な「碧蹄館の戦い」である。
これ以後は明軍も積極的に攻めて来ることもなくなり、戦線は膠着した。
3月、戦況視察のために石田三成・増田長盛・大谷吉継が漢城に到着した。このときの漢城の状況は予想以上に深刻であった。はじめ石田らは督戦するつもりであったが、悲惨ともいえる状況を目の当たりにし、直ちに撤退に向けての協議を考え始めたという。
その後、本格的に和平交渉が行われることとなり、4月中頃、日本軍は漢城から釜山を中心とした南部方面に撤兵した。これと併せて明国の講和使節と石田らが肥前国名護屋の本営に向かう。
5月15日、明国の使節が名護屋に到着し、23日には秀吉と会見、具体的な講和交渉に入った。28日に秀吉は和議の条件として、明国の皇女を日本の天皇の后とする、勘合貿易を復活させる、朝鮮の王子と大臣を人質とする、朝鮮南部の4道を日本のものとする、などの7ヶ条を明国使節に示したのである。
明国使節は6月下旬には名護屋を離れていった。秀吉の示した講和条件は、現地遠征軍の苦労や苦戦を知らず、全く強硬なものであった。そして明国・朝鮮側にとってもとうてい承諾できる内容のものではない。明国側は既に日本軍を朝鮮南部に追い込んでいるという背景から強気であったが、その一方で強引に攻め込めば退路のない日本軍の必死の反撃を受けることを憂慮し、交渉は決裂させずに継続することにした。
明国使節が帰国のために日本から朝鮮に渡ってくると、小西行長は家臣の内藤如安を明国講和使節と同道させて漢城に派遣した。
7月8日に漢城に到着した如安は、明軍の総司令との会見において「朝鮮を通って明国に朝貢しようとした」と弁明したが、とてもそんな弁明が通じる状況ではなかったという。
8月末に漢城を発した如安はさらに北京を目指したが、今度は遼東において「講和をまとめるには秀吉の降伏文書が必要である」と留め置かれた。これを受けた行長は明の外交官と協議の末、偽の降伏文書を作り、それを明国朝廷に送ることにしたのである。石田三成ら軍監も、これを認めた。その背景には、とにもかくにも講和して撤兵させなければならない、という思いがあったのだ。再び明国が猛攻を加えれば日本軍は壊滅しかねない状況なのである。
一方の秀吉は偽装文書が提出されることなどは知らず、自分の要求が受け入れられるものと思い込んでいた。そこで明・朝鮮に圧力をかけることと朝鮮南側4道割譲の既成事実を作るため、慶尚道の晋州城を攻めさせていた。講和使節が朝鮮入りする頃のことである。厭戦気分の高まっていた明軍は傍観に終始、日本軍の猛攻により1週間ほどで城は陥落、将兵・民衆あわせて6万余が虐殺されたという。この晋州は義民兵の拠点でもあり、それを憎んだ秀吉の厳命によって根絶やしにされたのである。
内藤如安が漢城や遼東で足止めされたのは、そうした日本軍の攻勢姿勢を踏まえていたこともあるだろう。小西行長らが推し進める「講和」と現地での「戦闘」状態のつじつまをあわせるためには、秀吉が降伏する形をとるしかなかったのである。
そののち、日本軍は撤退を開始した。海戦における大敗で多くの船を失っていたため、船便の手配も事欠き、乗船の順番を籤引きで決めるありさまだったという。
こうして、第1次朝鮮出兵、すなわち文禄の役は、小西行長らの講和交渉にすべてを委ねるかたちで自然休戦となったのである。日本軍が撤兵を開始したとはいっても、完全に引きあげたわけではなく、朝鮮半島に残る将士もあった。
偽の降伏文書を携えた明国の講和使節が再び動き出したのが文禄3年(1594)1月下旬、さまざまな紆余曲折や協議の末に如安が北京に入ることを許されたのが、その年も押し詰まった12月になってからのことだった。
またこの年、朝鮮在陣中の諸大名らはさかんに虎狩りを行っており、朝鮮各地に城(倭城と呼ばれている)を築いたりしているのである。
結局、この文禄の役と呼ばれる海外侵攻において、得るものはなかったというべきであろう。朝鮮に渡った日本軍15万余のうち5万人ほどが死亡したといわれている。またそれ以上に、戦場となった朝鮮においては兵士のみならず民衆にまで多大の犠牲者を出し、国土は荒廃した。これが秀吉の想い描いた「夢」の結果である。もはや「夢」などという次元ではなく「誇大妄想」といわざるを得ない。