この定正の死後、政情に変化が現れる。それまで扇谷上杉方に与していた足利政氏が山内上杉陣営に鞍替えし、同年11月に両上杉陣営が交戦した際には山内上杉方として出陣している。
明応5年(1496)7月、山内上杉勢は相模国西部に侵攻。これを長尾景春らが迎撃して大激戦となった。この合戦は山内上杉勢の勝利となり、続いて東部の実田(真田)要害を包囲。これに対して上杉朝良は後詰のために援兵を率いて江戸城から出陣し、さらには長尾景春が武蔵国へ出陣するとの報を得た山内上杉勢は軍勢を転じ、武蔵国上戸に陣を築いて河越城を圧迫するなど、一進一退の攻防が続けられた。
永正元年(1504)8月21日、山内上杉勢は河越城を攻めたが落とすことができず、今度は江戸城を攻めるために陣を白子に移した。これに対して朝良は駿河守護・今川氏親と北条早雲に援軍を求めた。この今川・北条の援軍は9月20日には武蔵国登戸の枡形山に着陣しており、これに対抗すべく山内上杉勢も足利政氏を奉じて立川の普済寺に陣を張った。この両陣営が激突したのが27日の立河原の合戦である。この合戦は扇谷上杉勢が勝利し、顕定は鉢形城への撤退を余儀なくされた。
しかし顕定は実弟で越後守護の上杉房能に援軍を要請し、12月には武蔵国椚田要害と相模国の実田(真田)要害を攻略した(椚田・実田の戦い)。
勢いに乗る山内上杉勢は永正2年(1505)2月に再び河越城を包囲。3月7日には多くの死傷者を出す戦闘があり、ついに河越城を支えきれなくなった上杉朝良が降伏を申し入れたのである。
この朝良の降伏によって、20年間に亘って続けられた両上杉氏の抗争は終結したのであった。
この降伏交渉の条件は朝良の隠退と、その名代(後継者)の古河公方への帰順であった。朝良は出家して建芳と号し、朝良の名代としては朝良の甥・上杉朝興が擁立された。