しかし、北関東では未だ古河公方の足利政氏・高基父子を中心とする分裂抗争が続いていた。元来、公方家は大きな自家兵力を持たず、もっぱら権威を背景として大名や国人領主らの支援を得ていたため、この父子対立において常陸国の佐竹氏や下野国の宇都宮氏、陸奥国南部の岩城氏など、関東各地の諸領主を巻き込む武力闘争に発展していたのである。
政氏・高基父子の対立は永正6年に一度は和解したが、翌永正7年には対立が再燃し、高基は下総国の簗田氏を頼って関宿城に入っていた。それのみならず義明もが自立運動を続けており、山内上杉氏においては顕実と憲房が対立している。そしてこの個々の陣営は姻戚やそれまでの経緯などから連携するようになり、足利政氏・上杉顕実・上杉朝良を頂点とするという連合と足利高基・上杉憲房派という連合が形成されていくことになったのである。
この2つの連合の対立において、永正9年(1512)6月に高基・憲房方が顕実の本拠である鉢形城を攻略するという動きがあり、それにともなって政氏も古河城から下野国の小山政長の拠る小山城(別称:祇園城)へと退去した。その後、古河城に高基が入り、実質的に古河公方の地位を継承したのである。
これに乗じるかのように、北条早雲も再び動き出す。8月になると三浦義同の拠る相模国岡崎城を攻め落とし、鎌倉を制圧。10月には鎌倉に玉縄城を築いて三浦氏の侵出を扼している。岡崎城を逐われた義同は住吉城に拠って抗戦していたが、永正10年(1513)1月の合戦で敗れ、本城である新井城に追い込められることになったのである。
その後、早雲は新井城を牽制しつつ武蔵国への侵攻を図っていたが、永正13年(1516)7月、三浦氏救援のために派遣された上杉朝興の軍勢を破ったことを契機として新井城に総攻撃をかけ、これを陥落させたのである(新井城の戦い)。ここに相模国の名族であった三浦氏は滅亡し、相模国のほとんどが北条氏の領国となったのである。
一方、小山城に在った足利政氏は小山氏の庇護を受けつつ古河への復帰運動を続けていたが、永正13年の暮れ頃に小山氏までもが高基を支持するようになったため小山城から退去せざるを得なくなり、上杉朝良の案内で武蔵国岩付城に移った。しかしその朝良が永正15年(1518)4月に没したことで最後の後ろ楯を失うこととなり、岩付城を退去して武蔵国太田荘久喜の甘棠院に隠棲し、公方としての政治生命を終えたのである。
この政氏が隠棲したことによって高基方の勝利が確定し、政氏・高基父子の対立が発端となって引き起こされた永正の乱は終息したのである。