石山合戦 (2/3頁)

この「本願寺挙兵」により、事態は急変する。それまで信長に反感を持っていた勢力同士が連携し、対抗するようになったのである。
本願寺挙兵直後の16日には近江国の門徒衆に呼応した浅井・朝倉氏が本願寺と連絡を取りつつ、3万の兵を率いて近江国の坂本口まで進軍。そして19日、京都に通じる道を扼する南近江の宇佐山城を攻めて織田信治・森可成を討ち、21日には醍醐・山科近辺にまで侵攻してきた。これを知った信長は23日、摂津国の戦線から兵を退いて京都へと戻り、今度は比叡山に上った浅井・朝倉軍と戦う戦略に切り替え、「志賀の陣」へと移行することとなる。
こうして畿内での戦線は膠着状態となったが、戦線の拡大は止まらない。伊勢国では顕如の檄を受けて蜂起した長島の一向一揆勢が尾張国小木江城を攻め、11月21日には信長の弟・信興を滅ぼした(小木江城の戦い)。そんな状況にあっても信長は志賀の陣で身動きが取れず、弟を見殺しにするよりほかになかったのである。

これら一連の「反信長」勢力の攻勢に窮した信長は、朝廷や将軍を動かして本願寺および浅井・朝倉との講和にこぎつけた。これ以後の信長は各勢力との同時対決を避け、各個撃破の戦略を取るようになる。
その手始めとして、元亀2年(1571)5月、伊勢長島一向一揆鎮定のために出兵したものの、この戦いで柴田勝家が負傷、氏家卜全が討死という敗退を喫した。一方の本願寺側では朝倉義景の娘が顕如の長子・教如に嫁すことが決まるなど堅牢な「信長包囲網」が形成されつつあり、信長の置かれた状況は苦しくなる一方だった。それでも9月には比叡山を焼き討ちにし、元亀3年(1572)の夏には浅井氏所領に軍勢を送るなどして牽制するなど、岐阜と京都を繋ぐ南近江の交通だけは確保している。
この年の秋、これらの動きを見て取った甲斐国の武田信玄が上洛を開始する。12月、武田勢行軍進路の三河国において徳川・織田連合軍が敗れた(三方ヶ原の合戦)ことによって、徳川・織田両氏の命運は風前の灯火となるかと思われたが、翌元亀4年(=天正元年:1573)に信玄が病没する。これにより武田勢が甲斐国へと撤兵したことで、一時的ではあれ、信長は虎口を脱することができた。ここに突破口を見出した信長は7月、「信長包囲網」の首謀者のひとりである足利義昭を追放すると、攻勢に出たのである。

息を吹き返した信長は朝倉氏・浅井氏と個別に討滅し(朝倉征伐:その2小谷城の戦い:その2)、包囲網を瓦解させることに成功した。こうして拠るところの少なくなった本願寺は、11月に信長と講和するが再び両者の関係は悪化するに至る。

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