慶長(けいちょう)の役 (2/2頁)

ところで、この慶長の役で特筆しておかなければならないのは、このときに日本軍が行った鼻切り・耳切りである。討ち取った朝鮮人兵士や民衆の首の代わりに鼻や耳を切り、それを名護屋城の秀吉のもとに送ったのは、なにも慶長の役が初めてではなく、すでに文禄の役においても島津軍などが行っているが、その規模の大きさは比較にならない。慶長の役の頃には、「男女生子迄も残らず撫切り致し、鼻をそぎ其日々塩に致す」とあるように、非戦闘員の、しかも生れたばかりの赤ん坊のものすら含まれていたのである。
この段階で、渡海した諸将たちの脳裏にあったのは、如何にして日本に送る鼻の数を増やすか、その数の多さでいかに秀吉を喜ばせるかであった。さきの文禄の役において、名前を日本風にさせたり、子供たちに「いろは」を教え込んで朝鮮を「日本化」させようとしていたのとは次元が違うのである。
塩漬けや酢漬けにした鼻や耳は、桶や樽・壷などに詰められて日本に送られたが、このときの日本軍の蛮行によって殺された朝鮮人の数は10万を下らないであろうといわれている。
その送られてきた耳や鼻を埋めたのが、京都の豊国神社の前にある耳塚である。
また、これも文禄の役より行われてきたことだが、「人さらい」も横行した。場合によっては子供をさらうために、その子の親を切り殺すことも珍しくなかったようである。さらわれた者は日本に連行されて労働させられたり、「奴隷」として売買された者も少なくなかった。
この朝鮮派兵において日本に連行された者は2万から3万人にものぼるといわれる。

朝鮮側も反撃の様相を見せる。更迭されていた李舜臣(イスンシン)が朝鮮水軍の指揮官に戻された。さきの海戦による敗北で残されたわずか13艘の兵船にて反撃戦を試みるのである。
9月14日、鳴梁(ミョンリャン)での海戦において地の利・潮流の変化を読みきって攻撃をかけ、日本水軍に大打撃を与えた。このときの戦いで来島通総が戦死、藤堂高虎が負傷した。これによって制海権は朝鮮水軍の手に渡り日本水軍の西進は断たれたのである。
また陸戦においては、漢城(ソウル)から忠清道を経て全羅道全州に南下してきた明軍と毛利秀元・黒田長政隊が9月はじめに稷山(イクサン)において激突した。戦況は一進一退だったが日本軍の北進は停滞することとなり、9月14日には後退をするに至る。
慶尚道においては慶長の役の主要な戦いとされている「蔚山城の戦い」が展開される。これは加藤清正・浅野幸長らが慶尚道蔚山に築城をはじめ、そこを拠点にしたのであるが、普請半ばの12月22日から明・朝鮮連合軍4万4千人の大軍に包囲されてしまったのである。厳寒の季節でもあり、水の手を断たれて兵糧も乏しいという過酷な籠城戦で、清正・幸長らも落城はもう時間の問題と考えていた。翌慶長3年(1598)1月4日、毛利輝元らの救援隊が西生浦から到着し、ようやく明軍も包囲を解いて退いている。
戦いはこのように朝鮮各地において一進一退を続け、これといって目立った展開が見られないまま月日だけが経過していった。

秀吉の病気が重いということは、慶長3年の7月頃には伝わっていた。しかし、8月18日に没したという情報は正確には伝えられなかった。秀吉の死ということで諸将が動揺し、士気に関わるという理由であると思われる。
秀吉の喪を秘したまま五大老・五奉行による停戦工作が始められた。秀吉の死後10日経ってから停戦・撤退の命令が出され、その命令を携えた使者・徳永寿昌と宮本豊盛が釜山に到着したのは10月1日のことであった。この10月1日には、明国と朝鮮の連合軍が慶尚道泗川(サチョン)に陣する島津勢を攻撃し、島津勢がこれを撃退するという泗川の合戦があり、まだ戦場では戦いが続行中であった。同じ頃に順天でも戦いがあったが、こちらでも日本軍が勝利している。
10月下旬になってようやく加藤清正・浅野幸長・鍋島直茂・黒田長政らのところにも帰国命令が届けられた。戦いは退くときが問題である。陸路ではさきの戦いの和議において撤兵の安全を約束されていたが、海路においては戦闘があり、小西行長らの隊は順天からの退路を抑えられ、島津義弘の救援によってようやく死地を脱するというありさまであった。この海戦において島津勢の水軍は大打撃を蒙って敗北を喫するが、この慶長の役における最後の戦闘において、日本水軍をことごとく討ち破った李舜臣を討ち取ったのである。

11月20日に島津義弘の軍勢が巨済島を離れて対馬に向かったことにより、第2次朝鮮出兵、慶長の役は終わりを告げたのである。
終戦を宣言する講和条約を結ぶ間もないままに撤兵し、朝鮮とは国交断絶となり、朝鮮各地に戦いの爪あとを残し、多数の人を無残に殺しただけであった。
このあと、捕虜として連行された人々によって日本の陶磁器業は飛躍的に発展することになるが、それを戦いの副産物と呼ぶことに抵抗を隠せない。
また、この2度の戦役において石田三成・小西行長・福原長堯ら『文治派武将』と加藤清正・福島正則・黒田長政ら『武断派武将』の確執が深まり、この対立感情が関ヶ原の役にまで尾を引く一因となるのである。