4月に入り、しだいに焦りの色を見せてきたのは秀吉方であった。とりわけ、羽黒の陣での敗戦によって面目を失った森長可の岳父にあたる池田恒興は名誉挽回の機会を望み、「家康を小牧山に釘づけにしている間に別働隊が三河(家康の領国)国岡崎を攻め、家康本陣を撹乱すれば勝てる」と秀吉に進言した。秀吉ははじめこの案に肯定的ではなかったが、甥の豊臣秀次までもがその別働隊の大将に志願したため、ついにはそれを許可したのである。
4月7日、秀次を大将として池田恒興・池田元助・森長可・堀秀政らは1万6千の軍勢で密かに南下し、三河国へと向かったのである。この別働隊は第1軍が池田恒興、第2軍が森長可、第3軍が掘秀政、第4軍は総大将の秀次という布陣である。
ところが、大軍であるうえに途中の岩崎城を攻略するなどして行軍速度が遅かったため、この別働隊の動きは家康の知るところとなった。
家康はまず榊原康政・大須賀康高らに4千5百の兵をつけて先発させ、酒井忠次・石川数正・本多忠勝らを小牧山の守備に残るように命じると、8日の夜半には家康自身も密かに小牧山を出て、矢田川北岸の小幡城に入った。
翌9日早朝、先発した榊原康政隊は白山林に待機していた秀次隊に奇襲攻撃をかけた。これに秀次隊は崩れ、長久手方面へと敗走を始めたのである。
その頃、金萩寺まで先行していた堀隊は秀次隊が攻撃を受けたことを知り、長久手方面へと引き返して桧ヶ根に布陣。秀次隊を収容すると反撃に出て、榊原隊を潰走させた。
一方、本隊を率いる家康・信雄は色ヶ根に進み、白山林を経て長久手北方に位置する丘陵の富士ヶ根に本陣を置いた。そして諸将の動きを見ながら前山まで本陣を進めた。池田隊には井伊直政隊3千余で当たらせ、家康は5千余の軍勢で森隊と戦った。
この合戦の舞台となった長久手とは長い湿地帯の意味で、機動力を生かそうにも足を取られて動きにくい場所である。余裕を持って布陣した家康勢は山の斜面に鉄砲隊を数段に分けて展開させたという。
秀次隊は全く予期もしていなかった家康軍の追撃によって崩れ、池田恒興・元助や森長可までもが討死、大将の秀次は命からがら逃げ帰るという結末になった。
このときの戦いで秀次勢に2千5百余、家康勢に6百弱の犠牲者が出たという。
秀吉がこの家康の動きを知って軍を動かしたときにはもう遅く、家康は小幡城に兵をおさめ、さらには小牧山に戻ってしまったのである。結局、秀吉は何らなすところなく軍勢を失い、再び持久戦に持ち込まれてしまったのである。
5月に入ると秀吉は楽田・犬山・羽黒の守備を配下諸将に命じ、自身は岐阜に移って竹ヶ鼻城などの信雄属城を攻め落とし、6月28日に大坂に戻った。
この頃になると軍事闘争も減って厭戦気分も高まり、外交上での駆け引きが目立ってくるようになる。
9月に至って講和の動きも出たが条件が折り合わず、不成立に終わった。そこで秀吉は11月11日、ひとまず信雄との単独講和を結んだ。信雄の助勢という名目で参戦した以上、秀吉と信雄が和睦してしまったからには家康に戦いを続ける名分がなくなり、兵を浜松城に戻すよりなかったのである。
家康は局地戦においては勝利を得たが、外交戦略において丸め込まれてしまう結果となった。