大坂夏の陣 (1/2頁)

徳川家康が大坂城に拠る豊臣秀頼の征討を企てたことによって勃発した大坂冬の陣は、慶長19年(1614)12月19日に和議が成立したことで終息し、22日までには和議締結の誓書の交換や人質の提出が滞りなく行われた。その講和条件の一つに「大坂城は本丸のみを残し、二の丸・三の丸は破却する」というものがあり、徳川方の兵は誓書の交換を行った翌日の23日より昼夜兼行で『惣堀』あるいは『惣構え』と呼ばれる広大な堀の埋め立て工事に取り掛かったのである。
家康は25日に大坂を去って京都に移っているが、出立に際して本多正純に「3歳の子でも上り下りができるほどに」と命じていったともいわれる。そしてこの日より二の丸・三の丸の破却も開始された。
これを知った大坂方(豊臣方)の織田長益(有楽)大野治長は、慌てて抗議を申し入れた。それは和睦締結の際に内々の約束として、惣堀の破却・埋め立ては徳川方で行い、二の丸・三の丸は大坂方で行う、ということが取り決められていたことによるものであった。大坂方には、破却作業は年月をかけて進めているうちに(高齢の)家康は死ぬだろう、との目論みがあったようであるが、本多正純は仮病を使って大坂方の使者に面会せずに「二の丸・三の丸の破却は城方で行うということであるが、手間取っているようなので手伝った。遠国の諸将も長期の在陣に迷惑しているので一刻も早く終了させて帰国させたいと考えて助力している」との口上を伝えさせたともいい、大坂方の抗議を無視する姿勢に出たのである。
これは、破却工事の分担までは講和条約に明文化されておらず、口約束であったことを双方が都合のいいように履行しようとしたためで、結局は徳川方が大坂方の抗議をのらりくらりとかわしながら破却工事を続行した。そして翌慶長20年(=元和元年:1615)1月24日までには完了し、建造物の残骸や土居、石垣までもが堀に投げ込まれて埋められ、本丸のみを残して懐平されてしまった。
本丸だけの裸城になってしまっては、いかに堅固を謳われた大坂城といえども防御力は無に等しい。大坂方が失ったものは、あまりにも大きすぎたのである。

3月になると京都所司代・板倉勝重からの使者が、駿府に帰っていた家康のもとへ頻繁に来着するようになり、大坂方の動静を逐一報告している。その内容は、大坂方が城の外郭に塀や柵を設け、埋められた堀を掘り返すなどして防備を強化するとともに、新たに浪人を集め、その浪人らが毎晩のように京都に押しかけて乱暴を働いている、とするものである。この報告すべてを鵜呑みにすることはできないが、大坂方が戦備を整えつつあることは明らかであった。さらには大坂方が京都に放火するという噂が流れ、このために市中が大騒ぎになったという情報がもたらされた。
家康はこれを重く捉え、大野治長より派遣された使者に対して詰問したばかりか、秀頼が大坂城を退去して大和国または伊勢国に移るか、新規に召抱えた浪人を追放に処すか、とする要求を押し付けたのである。
これに困惑した大坂方は謝意を表して要求の緩和を申し入れた。しかし家康は容れず、交渉は妥結しなかった。
事ここに至っては徳川方と大坂方の再戦は動かし難いものとなっており、事態は家康の望みどおりに運ばれたのである。

4月4日、家康は九男・徳川義直の婚儀に列席するため、駿府を発って名古屋に向かった。この頃は未だ大坂方との折衝が続けられており、家康としてもあからさまに軍勢を率いての出立は憚られたのである。しかし真の目的が大坂攻めにあったことは疑いない。途次の6日には伊勢・美濃・尾張・三河等の諸大名へ伏見・鳥羽方面に集結することを命じているし、翌7日には西国の諸大名にも出陣の準備を下知しているのである。
家康は10日に名古屋に入ったが、この日には本隊を率いる徳川秀忠も江戸を出発して西上を開始している。
婚儀に列席した家康はその足で15日に名古屋を発ち、18日に山城国の二条城に入った。秀忠の伏見到着が21日、この頃には軍令を受けた諸国の軍勢も続々と畿内に参集しつつあった。これら徳川方の兵力は15万を超えるものだったという。
そして24日、家康は大坂方の常光院と二位局を呼び寄せ、書付を大坂城に持ち帰らせた。この書付の内容は不詳であるが、おそらくは先に大坂方に突きつけていた要求の返答を今一度求めたものか、あるいは宣戦布告にも等しい最後通牒に類するものであったと推察される。
対する豊臣方兵力は5万5千人。

この2日後の4月26日より局地戦が開始されている。まず大坂方の大野治房が2千の兵を率いて大和国に出撃し、筒井正次の大和郡山城を攻略した。郡山城を占拠した治房は、その勢いを駆って奈良にまで侵攻しようとしたが、徳川方の水野勝成隊が近づいていることを察知し、河内国に引き上げた。
そして28日には2万の軍勢が大坂城を発向した。兵は途中で二手に別れ、一隊は小出吉英の岸和田城を襲撃、もう一隊は堺の町を焼き払った。
かつて独立自治都市であった堺は、大坂城を築いた羽柴秀吉が商人たちを大坂の城下町へ強制的に移住させたため、慶長期には衰退していた。関ヶ原の役後に徳川の直轄領となり、堺に残っていた豪商・今井宗薫は徳川に接近していた。このため、堺は徳川の兵站基地と目されていたのである。
この堺焼き討ちの翌日、遭遇戦が起こっている。3千の兵を率いた大野治房が、和泉国南部の樫井で、5千の兵を率いて行軍中の浅野長晟隊に攻撃を仕掛けた。しかし浅野隊の反撃が激しく、大野隊は敗走した。この戦いで治房に属していた塙直之が討死している。

徳川方が攻勢に出たのは5月5日であった。この日、家康は二条城を出陣。当初は3日に出陣と決められていたのだが、3日が雨だったため5日に延期されたという。このとき家康は、陣場の賄いの者に3日分の兵糧だけを用意するように命じた。冬の陣のときとは違い、大坂城の防御機能が無に等しい今回は野外での短期決戦となることを見越しての指示だった(ただし、用意された食糧が本当に3日分だけだったかは不明)。
京を出た徳川勢は、軍勢を河内方面軍と大和方面軍の二手に分けた。河内方面軍は先鋒が藤堂高虎井伊直孝、2番手に榊原康勝・酒井家次、3番手に本多忠朝・松平康長、4番手に松平忠直・前田利常という編成である。家康・秀忠の率いる本隊もこちらに属している。
大和方面軍は先鋒が水野勝成、2番手に本多忠政、3番手に松平忠明、4番手に伊達政宗、5番手に松平忠輝。この両軍は大坂南郊で合流し、大坂方を南の広野に誘い出したうえで、一気に大坂城に向けて攻め立てるという目論見である。同日の夕方、家康と秀忠は大坂城を3里先に臨む河内国の星田と砂に着陣した。

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