応永(おうえい)の乱 (2/2頁)

交渉が決裂したのち、両者はそれぞれ決戦の準備に取りかかった。
義弘は東上と前後して足利満兼や興福寺・比叡山の寺社勢力、土岐詮直や宮田時清(山名氏清の子)ら、もと南朝方であった菊池・楠木氏らといった反幕府勢力に挙兵を求めている。また一方で、堺の周囲に東西・南北共に各16町(約1750m)に亘る要害を構築し、その要地に48の井楼と1千7百の櫓を設けて防衛強化を図り、幕府軍の来襲に備えた。そして堺の要害が完成すると、守口方面で寄せ手を支えていた杉正之や守主山にあった杉重明を堺に呼び戻し、籠城戦に備えている。
対する義満は各地の守護大名に参陣を求め、11月8日を征討軍進発の日と定めた。その陣容は細川満元3千、京極高詮2千、赤松義則3千の計8千余騎を先陣として淀・山崎を経て和泉国へと発向させ、自らは本陣を東寺に進めた。この本陣に従う者は畠山基国・満家斯波義将義重をはじめとして吉良・石塔・渋川・一色ら足利一門や土岐・佐々木・今川・武田・小笠原・富樫・河野など、3万余騎ともいわれる大軍であった。義満はこれらの軍勢を従えて14日に八幡に本陣を進めた。
堺への攻撃は11月29日の朝より始められた。
幕府軍が要害越しに殺到すると、城中の櫓からは弓が射かけられ、互いに譲らない激しい攻防戦となった。そのうち畠山基国軍が城の北口にたどり着き、一の木戸・二の木戸を破って三の木戸に攻撃をかけはじめた。幕府軍はここに畠山満家・山名時煕軍を投入し、大内軍では杉弘信・杉重明・野上豊前らが駆けつけ、この日の最も激しい戦闘が展開された。
義弘は四方の戦いを指揮して廻っていたが、ここが最も重要な戦いと見て取り、自ら2百余騎をもって援護し、ここを持ちこたえることができた。
東口では幕府軍の京極・六角・小笠原隊が義弘の弟・大内弘茂が率いる軍勢と渡り合い、夜半に至るまで戦った。しかし敵味方とも朝からの激戦に疲れ果てて決着はつかず、幕府軍が本陣に兵を退かせたため、辛くも大内軍が持ちこたえたのである。

堺での攻防が行われている間に、先だって発せられていた義弘や足利満兼の要請に応じて、諸国で反幕府の軍勢が蜂起した。
美濃国では土岐一族の土岐詮直が居城の厚見郡長森城に兵を挙げ、尾張国に討ち入って土豪を従えて7百余騎の勢力となり、再び美濃国に引き返して池田秋政を加えて勢威盛んになった。土岐氏の惣領である土岐頼益は幕府軍として和泉国に出陣していたが、これを聞いて急ぎ帰国して11月半ば頃には長森城に拠る詮直らを殲滅し、その首級を八幡の義満陣へ進上した。
丹波国では、明徳の乱に敗れた山名氏清の嫡子・宮田時清が兵を挙げた。時清は、この機に乗じて京都に侵攻し、義満を討って亡父の恨みを晴らそうと追分宿まで進出したが、義満は山名時煕・氏之兄弟を差し下して迎撃させ、11月18日に時清・満氏・煕氏らを討ち取った。こうして丹波国の宮田勢も鎮圧されたのである。
近江国においては、京極高詮の弟・五郎左衛門が兵を挙げた。五郎左衛門は甲良荘へと討ち入り、野武士を従えて2百余騎の勢力となって勢多へと向かったが、三井寺の衆徒に道を塞がれ、やむなく守山に引き返した。和泉国に出陣していた高詮はこれを聞き、1千余騎を率いてこれを鎮圧するため帰国したが、これを察知した五郎左衛門は土岐詮直の軍と合流しようとして美濃国へと向かうも、その途次の垂井で土一揆に襲われ、行方知れずとなっている。

大軍を擁して臨んだにも関わらず堺を攻略できなかった幕府軍は、攻撃方針を転換した。数を活かして攻めるためには、まずは要害を破らなければならない。そのためには、まずは井楼や櫓を攻略する必要があった。
再度の総攻撃と定められた12月21日、幕府軍は左義長のように木材を三脚のように高く組み上げて火をつけ、それを井楼や櫓に倒しかけて焼き払うという策を用いた。この策は吹き荒れる大風と相乗して図にあたり、幕府軍の突入を阻んでいた井楼・櫓はたちまちのうちに噴煙に包まれた。城兵が逃げ惑う隙に乗じて幕府軍は木戸を乗り越え、一挙に猛攻をしかけたのである。
城兵は必死に防戦するも兵力の差は如何ともしがたく、大内軍の名のある将も次々と討たれていった。重臣の陶広長はこの状況を義弘に注進するとともに城から落ち延びて帰国して再起を図るべきであることを進言したが、義弘は武名を後世に残すために戦う、と断ったという。
義弘は手勢を率いて斯波義将・義種隊へ猛然と切りかかり、この軍勢を切り割って畠山満家の隊へと突撃した。しかし数に勝る畠山隊の必死の応戦の前に大内隊は次々と討たれていき、ついには義弘も壮烈な最期を遂げたのである。
大将の義弘が討死したことが知れると、大内軍の諸将も相次いであとを追って討死あるいは降伏し、大内勢は壊滅。東の陣に在って奮戦していた弘茂も自害しようとしたが、家臣に諌めれて降伏し、のちに赦免されて周防・長門の2国を安堵されている。
また、城郭を焼き尽くした炎は延焼し、堺の1万軒の家屋を焼き払ったという。

一方、鎌倉公方の足利満兼は、表面上は幕府を援けるためと称して11月21日に1万余騎を率いて出陣、武蔵国の府中まで陣を進めていた。
満兼は中山道を経由して美濃国の土岐詮直を援け、さらに京都を衝くことを計画していたとされるが、その途次において義満の意向を受けた上杉憲定に抑えられて進軍が遅延していたが、その間に堺で義弘が討死したとの報が届き、それ以上西へ進むことはできなかった。