この死力を尽くした相国寺の戦いでの消耗があまりにも大きかったため、これを最後として大きな戦闘は行われず、両軍ともに一進一退の膠着状態となった。御所と相国寺を辛うじて東軍が維持していたが、京都は既に焦土と化していたのである。翌応仁2年(1468)の正月と4月に東軍が西軍を攻めたが、大勢に影響はなかった。
その後も両軍の小競り合いは続いていたが、政治戦では勝元が管領職に就任するなど、将軍を擁していただけに東軍に有利に展開していた。しかし、11月になると大きな動きが生じる。一度逐電したのち東軍に戻っていた足利義視が、伊勢貞親の幕政復帰や義政への不信感などのため、西軍陣営へと移ったのである。これを受けて西軍陣営は義視を将軍に擬し、幕府を模した政治機構(西幕府)を調えたのである。
しかしこの頃より、戦局は地方へと波及していた。全国各地で東西両軍に応じた大名たちが領土をめぐって勝手に戦いを始めただけでなく、主君や守護大名の留守中に、守護代や有力家臣たちが支配権を狙ってそこここで叛乱を起こし始めた。
全国的な下克上の世の始まりである。応仁の乱が「戦国騒乱の序曲」といわれる理由がそこにあるのである。なかでも西軍一の勇猛な武将と謳われた朝倉敏景が、主家の斯波義廉に叛いて東軍に寝返ったことは諸大名に強い衝撃を与えた。諸大名は自国での下克上の動きを恐れて帰国を急ぎ始めた。
また、この頃より戦いの意味も変わってきている。はじめは斯波・畠山両家の内紛を争点とした守護大名同士の内訌、つまり武士相互の争いであったが、戦いが長引くにつれて土豪や地侍の戦闘になっていた。
また実際に戦う者も、足軽や無頼の者が戦争の中核を担うようになっていった。足軽こそはこの応仁の乱で台頭した新兵力であった。多くの場合は没落農民や浮浪民が金で雇われて傭兵となったものである。
やがて文明5年(1473)にはまず宗全が、ついで勝元が死に、東西両雄の死によって厭戦気分と和平の動きが一気に高まるのだが、西軍の畠山義就と大内政弘、東軍の畠山政長と赤松政則らが妥協を拒否し、文明6年(1474)6月から7月にかけて戦闘が行われ、その後も惰性的な対陣が続いていたが、都では新造の御所の建設が進むなど、時代の流れは和平へと動いていた。
このとき主戦論者の急先鋒である畠山義就と大内政弘を説得し、退陣を承知させたのが日野富子であった。富子はいつの頃からか東西両軍の大名たちに軍費を貸し付けて法外な利子を取り、莫大な財を築いていたのである。その金の力で義就に撤退を説得し、大金を使って朝廷を動かして政弘に官位を与えた。
こうして文明9年(1477)、義就と政弘の撤退が実現し、11年間に亘る応仁の乱は終息を迎えたのであった。