家康は6月6日、白河口より家康自身と嫡子の秀忠が進み、仙道口からは佐竹義宣、信夫口からは伊達政宗、米沢口からは最上義光と仙北の諸将、津川口からは前田利長と堀秀治が侵攻するとする会津征伐の部署を定め、6月16日に手勢を率いて大坂城を出発した。
この会津征伐はあくまで秀頼の名代としての形を取っているため、福島正則や黒田長政をはじめとする豊臣恩顧の大名といわれる武将たちにも従軍を命じているが、先の前田利長のときもそうであったように、秀頼の威光を利用して他の敵対勢力を排除しようという性格のものであった。利長のように屈服すればよし、屈服しなければ「秀頼公のために」征伐するという大義名分を掲げて軍兵を動かせるのである。
大坂城を発して伏見城に入った家康は重臣・鳥居元忠を城将に任じて別れの宴を張った。
このことから、家康は会津征伐の出陣中に畿内周辺の敵対勢力が何らかの動きを起こすであろうことを予測していたことが推察され、裏返していえば敵対勢力を決起させるために伏見城に元忠らを残し、自らは畿内を離れることにしたのである。つまり伏見城は敵対勢力の決起を暗に促すための捨石であり、元忠もその役目を承知したうえで受けたのであろう。
6月18日に伏見城を発した家康は近江国大津・水口を経て伊勢国に入り、四日市から三河国吉田、遠江国浜松と東海道を下って7月2日に自城の武蔵国江戸城に入り、7日に陸奥・出羽国諸将へ陣容を指示している。
一方、佐和山城にて蟄居を余儀なくされていた石田三成は、家康が会津征伐に向かった今こそが秀頼を戴いて打倒家康の兵を挙げる絶好の機会と考えていた。その意味では家康の誘い水に乗ってしまったわけであるが、家康が江戸に入ったのと同じ7月2日、家康に属して会津征伐に出陣する途中であった大谷吉継を佐和山城に招き、この謀議を持ちかけたのである。吉継ははじめ反対し、数日間佐和山城に逗留してまで翻意を促したが、親友でもある三成の熱意に折れ、三成に加担することを決めたのであった。
この密議において吉継は、三成に「そなたは他人に対して横柄で人望がない」と辛辣な忠告をし、「総大将は家康に対抗しうる人物でなければならない」と主張。結局は総大将に毛利輝元、副将に宇喜多秀家を戴くことで相談が一決したのである。
輝元を総大将に推戴するにあたって毛利方への窓口になったのは(安国寺)恵瓊であった。その説得工作が功を奏し、輝元は7月15日に舟で広島を発って翌日に大坂に到着、そして17日には大坂城西の丸にいた家康の留守居衆を追い出して入城し、さらに前田玄以・増田長盛・長束正家の三奉行の名によって「内府ちかひ(家康違犯)の条々」、すなわち家康が秀吉の遺命に背いたとする13項目から成る弾劾文を、家康討伐の決起を促す檄文と共に諸大名に送付したのである。
これは紛れもなく宣戦布告文であった。これに首謀者の三成の名が入っていないのは、この時点で三成は奉行職から外されていたからである。
また、三奉行はこれに先立つ15日に大坂周辺に戒厳を布き、諸大名の大坂屋敷から妻子が帰国することを制止している。これは家康に従って会津征伐に出陣している大名に対する、事実上の人質である。
他方、会津征伐軍を迎え撃つこととなった上杉氏においても戦備が進められており、福島城に本荘繁長、白石城に甘粕景継、梁川城に須田長義、米沢城に直江兼続、庄内城に志田義秀をして外郭要所の防備を固めていた。また、白河口からの侵攻が見込まれていた家康率いる軍勢を迎撃するにあたっては、景勝自ら出馬して白河関の北西の革籠原に陽動し、機を見て川を逆流させて深泥と化した泥中に追い込んで一気に殲滅するという方策を立てていたのである。景勝はこの革籠原で勝機を失うようであれば討死を遂げるしかない、とする乾坤一擲の策に臨み、7月22日に会津若松城を発向した。
さらには時をほぼ同じくして、上杉氏の旧領であった越後国において堀氏を牽制する動きが起こっている。これは直江兼続の指示によるもので、土着していた斎藤・柿崎・山吉・宇佐美ら上杉旧臣諸氏の一族が越後国の分断を図って一揆を起こしたものである。
一揆は7月下旬より魚沼郡・古志郡・刈羽郡などで蜂起して堀勢の動きを阻害し、越後国から会津に通じる六十里越・八十里越・津川口をも遮断するに及んだ。これにより、堀氏の会津侵攻は不可能となったのである。