蘆名盛高(あしな・もりたか) 1448〜1517

陸奥国蘆名氏第13代当主。蘆名盛詮の子。通称は小太郎。従四位下・刑部丞・修理大夫。陸奥国会津郡黒川城主。会津(郡)守護。
文安5年(1448)8月17日生まれ。文正元年(1466)3月の父・盛詮の死後に家督を相続した。
寛正6年(1465)に伊達成宗の娘を妻とし、明応3年(1494)4月に伊達成宗・尚宗父子が内訌を起こすと、これから逃れてきた尚宗を庇護し、のちには帰還させている。
文明11年(1479)5月、陸奥国大沼郡の土豪・渋川義基を高田城に攻めて滅ぼした。
文明16年(1484)9月、岩瀬郡須賀川にて二階堂氏と戦う。
麾下の領主への支配力強化に意を注ぎ、延徳4年(=明応元年:1492)の3月に麾下の猪苗代伊賀、4月には松本藤右衛門(輔忠か)・富田淡路(頼祐か)らを、謀叛を企てたとして討伐した。
また明応4年(1495)11月には謀叛が露見した松本備前(藤右衛門の兄:輔豊か)・伊藤某を追討、明応7年(1498)5月から6月にかけて松本豊前(行輔か)・同丹後守(輔吉か)・同右馬允(輔之か)らを討伐し、明応9年(1500)1月から2月にかけては大沼郡中野館(一説には石塚館)、ついで耶麻郡綱取城に攻めて松本対馬(輔政か)を討つなど、松本一族への圧迫を執拗に加えた。
さらに文亀元年(1501)閏6月、猪苗代氏と交戦。文亀2年(1502)12月には常世・三橋・小荒井氏などの討伐を画策。この征討戦で常世氏を討つとともに三橋氏らを逐い、翌文亀3年(1503)には伊達氏の援軍を得た三橋氏の反撃を受けるも、これを撃退している。
永正2年(1505)8月、蘆名氏の宿老的存在である佐瀬・富田氏と松本源蔵・同勘解由とが対立し、盛高が前者を、子・盛滋が後者を支持したことから父子の抗争にまで発展し、蘆名家中を二つに割る内乱となった。両者は白川結城氏の和睦斡旋にも応じなかったため、同年10月に耶麻郡塩川において戦うに至り、敗れた盛滋は伊達氏を頼って出羽国置賜郡長井に逃れたが、翌永正3年(1506)には盛滋が黒川に戻って和解が成った。
永正14年(1517)に没した。70歳。法名は常勝院殿天祥麟公大禅定門。