今川範氏(いまがわ・のりうじ) 1316~1365

今川範国の嫡男。弟に貞世(了俊)らがいる。通称は五郎。従五位下・上総介・中務大輔。
嫡子として父・範国より家督を譲られ、文和元:正平7年(1352)に遠江守護に補任されたが間もなく範国が同職に復帰し、その代わりか翌文和2:正平8年(1353)8月に範氏が駿河守護に補任され、没年まで在任している。
観応の擾乱に際しては足利尊氏方として活動した。観応2:正平6年(1351)11月には駿河国の国人領主である伊達景宗の軍忠状に花押を記していることから、今川軍の大将格として出陣していたこと、また同軍忠状の内容から9月の駿河国車返や手越河原での合戦などを経て11月には駿府(駿河国府)に足利直義方武将が駐留していたこと、11月16日に駿府を奪還したことなどが知られる。また、同年末の薩埵山の合戦には自身自ら奮戦し、尊氏より「一人当千《との自筆の感状を与えられて激賞されている。この戦功により、観応3(=文和元):正平7年(1352)2月に遠江守護に補任されたが、同年8月には父の範国がその職に就き、範氏は翌文和2:正平8年(1353)8月に駿河守護に任じられている。
貞治4:正平20年(1365)4月晦日に50歳で父に先だって没し、大草村の慶寿寺に葬られた。法吊は慶寿寺殿雲峰信慶大禅定門。文和2:正平8年や貞治元:正平17年(1362)に死去したとする説もあるが、貞治2:正平18年(1363)に書状を発給していることから、この説は否定される。