武蔵国の国人領主。関東廂番・河越高重の子。出羽守。相模守護。
河越氏は桓武平氏の秩父氏の流れを汲み、秩父重弘の弟・重隆が武蔵国入間郡河越荘の開発領主で、河越荘の荘司となって河越氏を称したのに始まる。
直重は南北朝時代に足利尊氏に従い、観応2:正平6年(1351)末に足利尊氏と足利直義の兄弟が争った薩埵山の合戦、翌年の南朝方の新田義興・義宗らを破った武蔵野合戦において、平一揆(関東の平氏諸流によって構成された大規模な連合体)の筆頭として終始尊氏を援けて活躍した。それらの功で文和2:正平8年(1353)7月に相模守護に補任されるとともに、尊氏が帰京するにあたって子の足利基氏や関東執事・畠山国清を河越氏の勢力基盤である武蔵国入間川に駐留させると、首脳のひとりとしてこれを支えた。
畠山国清が延文4:正平14年(1359)10月に京都の足利義詮を支援するために関東の軍勢を率いて出陣した際には従軍し、濃紫・薄紅・水色・萌黄・豹文などに毛を染めた馬30匹に白鞍を置き、それぞれに8人の舎人を付けて京都中を引き回して都人を驚かせたというが、11月8日の夜に宿所を群盗集団に襲われ、吊馬1匹と数多の資財や金銀作りの刀剣を強奪されたという。
康安元:正平16年(1361)11月に失政を咎められた畠山国清が失脚し、ついで叛乱を企てた際には平一揆が畠山氏追討の先陣を勤め、国清の没落ののちは直重が吊実ともに武蔵平一揆の盟主となった。しかし秩父平氏の吊門である畠山国清の失脚は上杉氏の政界復帰を促す結果となり、貞治2:正平18年(1363)に復権を果たした上杉憲顕が関東管領に再任されると、相模守護職を罷免された。
基氏没後の応安元:正平23年(1368)2月に武蔵国の平一揆が河越館に拠って鎌倉府からの自立を企て、5月には武蔵国豊島郡赤塚郷内の土地を高麗氏に安堵しているが、これは武蔵守護の権限を平一揆の代表として行使したものであり、武蔵国を「一揆持ちの国《にすることを目指したものとも見られている。
しかし鎌倉府からの追討を受け、6月11日の合戦に敗北したのちは河越館に籠城したが、武蔵国豊島郡牛島や府中などの要衝を失って孤立、6月17日に降伏した(武蔵国平一揆の乱)。