河野晴通(こうの・はるみち) ?〜1543?

伊予国の戦国大名。通称は六郎か。伊予国湯築城主。
河野(弾正少弼)通直の次代の当主となる。
この晴通の出自には諸説あり、通直の子とするものや、「予州家」と呼ばれる有力分家・河野通存の子・通政が名を改めた、ともいわれる。
天文11年(1542)に通直との対立が表面化し、家中を二分しての武力抗争に及ぶ(天文伊予の乱)。その経緯も諸説あって詳らかではないが、通直方には新興家臣の来島通康やその一族、晴通方には譜代家臣の多数が参集したといい、同年の夏頃には晴通方が優位な大勢にあった。
発給文書で見ると天文11年3月までは通直が当主の地位に在ったようだが、その後は晴通が文書を発給していることから、当主の交代を窺い知ることができる。
しかし天文12年(1543)3月14日付の安堵状を最後として晴通名の文書は現れなくなり、翌年以降は再び通直名の書状が発給されるようになる。
一説には天文12年4月24日に早世し、義安寺の側に葬られたという。