河野通久(こうの・みちひさ) 1394?〜1435

伊予国河野氏の惣領・河野通義(通能)の子。幼名は犬正丸。初名は持通。刑部大輔。
父・通義は応永元年(1394)11月に若くして病死し、それに先立って弟の河野通之に家督を譲っているが、その際に「自分の妻が男児を出産したら家督を相続させるように」と遺言したという。おそらくは妻が懐胎していて、嫡男となるべき男児が生まれる可能性を見ていたのであろう。そして通義の死後に生まれたのが、この通久であった。
その後は家督を継承した叔父・通之に養われ、応永13年(1406)に伊予国湯築城で元服して持通と名乗り、のちに通久と改名した。
通義の遺言を容れた通之より応永21年(1414)には家督を譲られて伊予守護となった。しかし通之の子・通元は通久に従わず、父の築いた権力基盤を背景にして被官への所領安堵を行うなど惣領然たる振る舞いがあったことから対立するに至った。通元の威勢は通久を凌ぐほどであったもいい、河野氏はこの両名の対立をきっかけとして長きに亘る分裂抗争が行われることとなった。
永享7年(1435)5月、大内持世大友持直の抗争において、通久は幕命と大内持世の要請を受けて豊後国に出兵したが、大友勢に敗れて6月29日に海部郡姫嶽城で戦死した。