小山田信有(おやまだ・のぶあり) ?〜1541

甲斐国の国人領主。郡内(都留郡)小山田氏。小山田弥太郎の嫡男(一説には弟とも)。越中守。小山田(出羽守)信有の父。都留郡の中津森館に拠る。
永正5年(1508)12月に父・弥太郎が武田信虎と戦って敗死したのちに家督を相続。武田氏との緊張は依然として続き、永正6年(1509)にも武田氏に攻め込まれ、永正7年(1510)の春に信虎の妹を娶って従属した。
信虎へ従属したのちも甲斐国東部の都留郡に在って「都留郡守護」を自称していたことからも、独立性を残したまま本貫地の領知を認められていたと目される。その反面において、境界を接する駿河国の今川氏や相模国の北条氏からの侵攻に対しては「自領防衛」のために対処し、かつ、「武田勢」として国中(甲斐国中心部)の防衛や武田氏の軍勢催促に従う義務を負うなど、所領の維持には困難なものがあった。
また享禄2年(1529)には信虎によって国中から都留郡に通じる路次を封鎖されるという事態が起きているが、おそらくは武田氏と対立したためにその制裁措置を受けたものと目されている。この事態に今川氏との縁故を持っていたと思われる信有の母が6月に遠江国に赴き10月に帰国、翌11月に路次封鎖が解除されている。しかし同日に武田氏から郡内に対して棟別銭が賦課されており、ここに小山田氏は完全に武田氏の従属国衆となったとみることができる。
享禄3年(1530)3月に居館の中津森館を焼失したため、天文元年(1532)に居館を谷村に移す。
天文4年(1535)8月、北条氏綱が都留郡に侵攻してくると、信虎の弟・勝沼(武田)信友と共に迎撃にあたったが、大敗を喫した(山中の合戦)。一説には出撃した小山田勢2千のうちの過半数を討ち取られたという。
天文10年(1541)2月12日死去。法名は涼苑か。