佐竹義舜(さたけ・よしきよ) 1470〜1517

常陸国佐竹氏第15代。佐竹義治の子。妻は岩城常隆の娘。従四位下・左近衛権少将・右京大夫。常陸国太田城主。
延徳2年(1490)4月、父・義治の死没を受けて佐竹宗家の家督を継承するが、父祖の代より宗家に反発を続けていた山入一揆の山入義藤・氏義父子らに太田城を奪われ、母の実家である孫根城(別称:大山城)に逃れた。
その2年後の明応元年(1492)に山入義藤が病死したことをきっかけとして山入一揆の威勢が衰えると、岳父・岩城親隆の仲介を得て和睦の機運が高まるが、義藤の子・氏義は応じようとしないばかりか攻勢を強め、明応9年(1500)には山入勢に孫根城を攻められて金砂山城に逃れた。
文亀2年(1502)には金砂山城をも攻められて苦戦したが、雷雨で浮き足立つ山入勢に攻勢をかけて一気に勝利をもぎ取った(金砂山城の戦い)。
この金砂山城での勝利を起点として形勢は逆転し、岩城氏や下野国の那須氏らの支援を得て永正元年(1504)には氏義を逐って太田城を奪還した。こののち、本拠地である山入城(別称:国安城)に逃れた氏義は同族の小田野義正によって捕らえられて子・義盛と共に殺害され、山入一揆はここに滅亡した。
永正3年(1506)、23条から成る家法を制定。
永正7年(1510)、陸奥国白河の領主・白河結城氏の内訌に乗じて旧領の依上保を奪い、翌年には下野国の宇都宮氏の内訌を利用して版図を広げた。
永正14年(1517)3月13日没。48歳。法名は晴峰寺院殿還慶道補大禅定門。