島津忠良(しまづ・ただよし) 1492〜1568

伊作島津氏・島津善久の子で、伊作島津氏第10代。母は新納是久の娘・常盤。明応元年(1492)9月23日に生まれ、幼名は菊三郎。通称は三郎左衛門尉。相模守。号は愚谷軒日新斎。
明応3年(1494)4月に父・善久が横死したのち、母の常盤が島津相州家の島津運久に再嫁するに際して忠良が次期家督となることが決められ、相州家の家督継承後には本領の伊作に田布施・高橋・阿多などの所領を併せ、薩摩半島中域に勢力を拡大した。
大永6年(1526)11月、島津本宗家の当主で薩摩・大隅・日向守護を兼ねる島津勝久より国政を委ねられて鹿児島に招かれ、さらには嫡男の貴久が勝久の継嗣となって3国の守護職を継承するとその後見となり、大永7年(1527)4月に出家して日新斎と号す。しかし同年6月に勝久が島津薩州家の島津実久に唆されて貴久に相伝した地位を悔い返すと、貴久とともに田布施に退いた。
その後は実久勢力の切り崩しを図りながら近隣地域の掌握に意を砕き、天文6年(1537)頃より実久との直接的な抗争に臨み、天文8年(1539)3月の紫原の合戦で実久を破って出水地方へと逐い、薩摩国の中域から南域にかけての勢力を確固たるものとした。
これによって忠良・貴久父子の声望は増大し、天文14年(1545)に貴久が島津一族の島津忠広・北郷忠相の支持を受けて実質的な島津氏当主に擁立されるに至った。
天文19年(1550)12月に貴久が鹿児島に内城(御内城:みうちじょう)を築いて入城。島津本宗家の本貫地である鹿児島に入城するということは、島津氏当主であることを内外に宣言したことと同義であり、島津氏傍流の出身でありながら子を本宗家当主の地位に就けるという一大事業を成し遂げたのちは一線から身を引き、薩摩国加世田に隠居して貴久や孫の義久、家臣らの指導や育成を専らとした。
忠良は教養が深く、神儒仏の合一や四書五経の推奨を行い、教導歌ともいわれる「いろは歌」を作った。この「いろは歌」は現代の短歌と同じ五七五七七調で口に馴染みやすく、為政者や武士としての儒教・道徳感を養うために忠良自身が考案したもので、近世薩摩藩の士風強化の聖典となった。
合戦後には六地蔵塔を建立し、敵味方の別なく戦没者を厚く供養し、博愛慈悲の心を表した。
政治・精神の面での戦国大名島津氏の基礎を作り、島津氏中興の祖といわれる。
永禄11年(1568)12月23日、加世田で死去。享年77。