宝徳2年(1450)1月、津軽の制圧を企てた南部氏は、津軽半島東部の外ヶ浜の潮潟(後潟)の領主で安藤一族の潮潟重季を攻めた。この戦いで重季は討たれたが、その妻は南部義政の娘であったことから、子とともに助命された。この子は南部氏の将として取り立てられ、宇曽利(下北半島)の田名部に所領を与えられて安東政季と名乗ることになる。
その3年後の享徳2年(1453)、安藤氏惣領の安藤義季が討たれて嗣子なく断絶すると、政季は家臣の蠣崎(武田)信広・相原政胤・河野政通に安藤氏の名跡を継承するように説かれ、翌享徳3年(1454)8月に田名部を脱出し、蝦夷ヶ島(北海道)の渡島半島に渡ったのであった。
渡島に入った政季は安藤遺臣を糾合して道南の支配体制を整備し、その地盤を固めたのちの康正2年(1456)の秋、出羽国秋田湊の安東惟季に招かれて出羽国に渡った。
この頃の南部氏の矛先は出羽国にも向けられており、東は出羽国仙北郡角館の戸沢寿盛や平賀郡の小野寺実道と連合、北からは葛西一族で河北郡を領する葛西秀清と結んで小鹿島(男鹿半島)付近を窺っており、この長い防衛線を強化する為に政季が招聘されたのであった。
出羽入りした政季は、津軽半島を窺える河北郡の檜山城に入った。
この政季の移動に刺激を受けたのか、南部政経は康正3年(=長禄元年:1457)2月、政季のかつての所領であった田名部への攻撃を開始する。対する安東方の主力は蠣崎館に拠る蠣崎信純であったが、雪深いこの季節では出羽国からはもとより、惣領不在の渡島からの援軍すら望めないことを見越したうえでの南部勢の出陣であっただろう。
南部政経は三上筑前・類家行末・西沢行重に先鋒を命じ、七戸から田名部に向けて北上させた。しかし風雪と蠣崎方の防戦に阻まれて進軍が困難であったため海路から攻め入ることとし、船に軍兵を乗せて北上させ、夜陰に紛れて蠣崎の渚に上陸、館の背後からの奇襲攻撃で陥落させたという。
館主の蠣崎信純は渡島へ逃れたが、この敗戦によって安東氏の勢力は津軽半島に続いて下北半島からも駆逐されることになったのである。