鎌倉期から室町期に至るまで、時の幕府は大和国には守護を設置せず、代わって興福寺が守護の権限を行使して統治を司っていた。この興福寺に所属する下位の僧侶のなかでも、とくに軍事や検断(罪人の捕縛や断罪などの警察権)を担う武装集団を「衆徒」と称した。
この衆徒は仏事に関わることはほとんどなく、興福寺が領する荘園の荘官を務めるなどしており、実態としては興福寺に直属する武家であった。また、衆徒のなかでも代表格20名を「官符衆徒」(かんぷしゅと)と称し、他国での守護代あるいはそれに相当する有力領主といった格付けであった。
一方、衆徒と似た存在ではあるが、春日社に仕える白衣神人を「国民」と称した。春日社は藤原氏を祀る神社で、中世においては興福寺と一体の存在であったことから国民は興福寺にも属したが、神人であって僧侶ではないため剃髪はしておらず、衆徒よりも興福寺への従属の度合いは低く、従って自立性が強かったといえる。他国での国人領主(大名の直属の家臣ではない領主)に相当する階層であろう。
なお、「衆徒」という呼称は、他国においても寺院の僧兵集団を指して用いられる。