灰谷健次郎講演会

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講演内容

 

 平成12年11月24日(金)に人権への啓蒙活動として、「人権ハートフルフェスバル」(主催愛知県・愛知県教育委員会・名古屋法務局等)が名古屋国際会議場で開かれた。その中では、人権啓発のパネル展示や福祉の店、人権相談コーナーなどや作家の灰谷健次郎氏の講演会や歌手河島英五のトーク&ライブがあった。

 私のお目当ては、灰谷健次郎氏の講演会である。この講演に先立ち、作者の代表作である、「兎の眼」と「太陽の子」を読んでいた。この二つの作品の感想等は、後日このホームページに載せるつもりであり、詳しくはそこへ譲りたいが、両作品ともすばらしく心にしみた。特に「太陽の子」の主人公である「ふうちゃん」には、強く引きつけられるものがあった。彼女は、天真爛漫で底抜けに明るく、誰にも好かれるキャラクターである。それでいながら、大人顔負けの繊細さと物事に対する洞察力を持った少女である。そして何よりも、やさしい心を持った少女である。物語は、彼女の家族と母親が経営する、沖縄料理の店に集まってくる人々の、ふれあいを通して展開されて行くが、そこに集まってくる人々はみんな温かく、人間味に溢れ、やさしい。でも内側では深い悲しみを持っている。この小説を読み終わったとき、なぜか心が安まり、人間のやさしさや思いやりを信ずることができるような気がした。そして人間は、過去を乗り越えることができる強さを持っていることを知らされた。この作品によって、沖縄の料理、風土、風習、歴史、そして、そこに住む人々に強い興味を覚えた。作者の口から直接、これらの沖縄のことや作品のことが、どのように語られるかを楽しみにして、この日の講演を待ち望んだ。

 ここでは、その講演のすべてを書くことはできないので、13:4015:15の約100分間に語られた中で、私が特に気に入ったもののみを書いてみた。(氏が言わんとする主旨はできるだけ変えずに、わかりやすさを主眼に、話の順序や細かい言い回しを、私の言葉や表現で書き直した。また、ネチケットに照らして、匿名にした方がふさわしいと考えた部分は、名を伏せた。)なお、講演の題名は「子どもの人権−いのち、このやさしきもの−」である。

 まず始めに登壇した氏が、「自分はこの後ライブをする河島英五氏の前座である」と、聴衆を笑わせ、聴衆の気持ちを引きつけてから、現在彼が最も関心を持っている子供の人権の話から始めた。

  「経済発展して人権はぼろぼろ。他者の命を踏み台にして幸せになる風潮が強い。」という言葉で、現在の子供を巡る人権の厳しい状況を表現した。その具体的な例として、フィリピンの首都マニラに近い、スモーキー・マウンテン(ケソン市の郊外にあるゴミ捨て場)でゴミを拾って生計を立てる子供達のことを話した。

 この悲惨な状況の中でも、彼らの目が光っているのはなぜか?この不思議な現象を探求すると、彼らには、自分達が働いて生計を立てている、つまり、家族のためになっているという強い自負心があるからと分かった。

 現在、スモーキー・マウンテンのゴミ捨て場はなくなってしまった。テレビで放映され、その反響の大きさに驚いた国が、国家の威信のために、他の場所に移してしまったからである。しかし、その移った場所では前と同じように、子供達はゴミを拾って生計を立てている。これによって、国のメンツは保たれたかもしれないが、子供の悲惨な状況は何も変わっていない。

 フィリピンでボランティア活動をする先進国のある国の人達は、中途半端な援助(一時的に食料やお金を渡すだけという、経済援助のみで、彼らが自立する道を援助してはいなかった)をして、それも途中でやめてしまった。その結果、自立の道を知らない子供達は、中途半端な夢、例えば日本で歌手になりたいなどという、非現実的な夢を持ち、さもそれが実現できるような錯覚を持ってしまった。援助とはそんな中途半端な夢を与えることではなく、現実的な自立の道を与えることである。この先進国のある国の間違ったボランティア活動を反省し、もう一度ボランティアの在り方を考える必要がある。

 

 法律では子供達は働くことができない。しかし、現実は働かざるを得ない。この悲惨な子供達の現実を前にして、我々大人はその原因や対策を考えずに(考えても原因が複雑で、とても簡単に解決できないのですぐあきらめてしまう)その子供達の目の輝きや、明るさがせめてもの救いであると言う。しかし、この発言は現状を認めることであり、何もできないことの責任逃れのためのコメントである。そして、この言葉は人間の傲慢さを現している。

 先ほど述べたように、ゴミ捨て場で働く子供達には笑顔があった。それは、自分達が家族のためになっているという意識からだった。しかし、その子供達にも笑顔が消え、暗い表情の子が増えてきた。それは、親の虐待などが原因で、親から離れ一人で生きて行かなければならない子供達が増えたからだ。氏は言う、「貧困はまだ良い。子どもたちが暗くないから」と……。

 資本主義だろうと、社会主義だろうと子供達を取り巻く状況はさほど変わらない。ベトナムのフェに日本人の小山道夫さんが、ストリートチルドレンの施設(子供の家)を作った。しかし、本来これはベトナム人がやらなければならないことである。小山さんはそのきっかけを作っただけであるが、現在はその動きはない。これは、中国も同様である。どこの国も、弱者の方に目が向いていない。経済発展の恩恵を受け、金持ちになるのは、企業家と政治家と官僚だけである。

 貧しいが物乞いのない社会であった、中国やネパールにも、経済発展とその歪みの中で、昔より厳しい生活を弱者は強いられている。車とビジネスが、かつてはのんびりとしていたネパールを交通渋滞世界一の国にしてしまった(かつてはバンコクがそれであった)

 経済的な豊かさを得るために、我々は大切な何かをなくしてしまった。それは、あまりにも大きな代償である。貧しくてもみんなが食べていけた国、それが、経済発展という名の下に、一部の金持ちを作り、食えない人間を多数輩出した。これらの事実から豊かさとは何かを、もう一度考えてみる必要がある。

 

 このように発展途上国の子供達の人権侵害を話してきたが、それ以上に現在の日本の子供の人権はぼろぼろである。

 日本のある著名な政治家は、初めて重度障害者施設を訪問したとき、『大変なショックを受けた』『ああいう人間達にも人格があるだろうか』『安楽死もあっても良い』との一連の発言をした。政治家が今まで障害者施設を見たことがなかったという事実も驚きであるが、さらに、重度障害者を見て、それに大きなショックを受け、障害者の人格を認めない、人権を無視するような発言をするのはとうてい容認できない。このような人物を長とするような国の国民は不幸である。人権は、このような人の上に立つ人の考え方を変えていかなくては到底守れない。傲慢な政治家(人間)はきらいだ。自分が絶対に正しく、他はすべて間違っているというような、尊大さは排除すべきである。人間は謙虚(心からのものでなければならないが)で控えめであるべきである。

  神戸のサカキバラセイト事件で、犯人の少年の顔写真を載せたフォーカス(新潮社)は少年法違反である。ただ、現行の少年法には罰則規定がないから、何も罰せられないだけだ。現在の少年法は欠点が多々あり、それを改正するのはいいが、今回の改正は、矛盾点や欠点をそのままにして、刑罰のみ重くしたもので改悪といえる。

 最近は少年犯罪の凶悪化が目立ち、マスコミは急に少年犯罪が増加しているように取り上げている。しかし、それは間違いで現行の少年法ができてから、少年犯罪は年々減少している。それは、現行の少年法が更正の精神を基本としているからである。

 犯罪は社会とのつながりがある。子どもの悲劇を食い物にする、マスコミを筆頭とするあくどい商業主義が悪い。そのために、犯人の兄弟は道も歩けない。これらの商業主義から、子供達を守らなければならない。

 

  「智を伝えるのに情を持ってする。」この言葉のように、子供の感受性を大切にしたい。子供達のおしゃべりは彼らの魂の躍動であり、そのため魂の躍動がないとおしゃべりができない。

 子供を管理したら子供のエネルギーは少なくなる。子供のエネルギーを何かに集中させる、それが教育である。だからといって、子供に自由を与え、そのままに放置しておいてはだめであり、そこから生まれたエネルギーを何かに集中させることが必要だ。子供は誰でも大きな可能性を持っている。しかし、それを引き出す人がいなければそのままであり、それをどう引き出すかが大人(教師)の責任である。

 現在沖縄の渡嘉敷島に住んでいる。そこは、珊瑚礁が世界一きれいなことと、沖縄戦で集団自決があったことで有名である。景色が綺麗なのは、そこに住んでいる人々が日々努力しているからである。言葉を換えれば、島が美しいのはそこに住んでいる人の心がきれいだからである。

 教育環境が良い所とは、@学校 A家庭 B地域の3つの条件が満たされている所のことである。この島は自給自足で、一次産業のみであり、常に子供は働く親の姿を見て、そこから学んでいる。

 地域の祭りを伝えることで、地域の教育がある。そこでは、『けがれ』のある者は祭りに参加できない。『けがれ』とは人の道に背く行為をした者である。いわゆる犯罪者であるが、この島では、障害者は神の子と考えられ、これをいじめるとけがれた者とされ、祭りに参加できなかった。

 その後氏は、「学校が、家庭と地域の教育を体系化する。」「綺麗な景色は命の集合体である。」「愛汗教育、愛汗まつり、食べ物は人間の知恵と労働によってあがなえる。」などを話された。

 そして、最後に、『かじまやのお祝い』これは「風車の祝い」とも言われ、97歳の長寿の祝いである。風車の飾られた御輿に乗せれらた長寿者が村中の人々の所へ訪れ、「あなたも私にあやかりなさい」と自分の幸せを分けてあげる儀式である。

 

 

 

私の感じたこと

 

 講演から私の感じたこと

◎ 氏の「経済発展して人権ぼろぼろ」という言葉、非常に重く、今でも心に残っている。発展途上国に対して、先進国が経済援助という名の下に、豊かな自然と人心を荒廃させ、一部の金持ちと多くの食えない人間を生んだという指摘は、鋭いものがある。

 ストリートチルドレンや働く子供達の状況を聞くに付け、今の経済援助のやり方は、その国の人々にとって、本当によいことなのか?疑問になった。氏は講演の中である国のボランティア活動のやり方を批判し、「援助とはその国の人が自立できる道を助けることだ」と述べている。確かに、従来の援助がお金や建物などのハード面に偏っていたきらいがあり、今後はより細やかなソフト面(その国の貧しい人々の自立を助ける)での援助が必要だ。

◎ 氏の講演を聞いてから、インターネットからスモーキー・マウンテンやストリートチルドレンについての情報を探してみたが、その情報の多さと現状の厳しさに驚いた。情報が多いことはそれだけ関心のある人が多いことであり、何か心が救われるような気がした。さらに、具体的に行動している方々も多く、その行動力をうらやましく思った。また、現状の厳しさでは、ストリートチルドレンの数の多さと、その悲惨さ、そして数は今後さらに増えていくということなどは想像をはるかに超えるものであった。今の日本の、過剰ともいえる豊かさで暮らす子供達と、ストリートチルドレンとの落差はあまりに大きく、何もできない自分が歯がゆく感じられた。しかし、今はできないが、この事実を知り、問題意識を持ったことは大きな前進であり、意義深いことであると思う。

◎ 今までの自分の半生を振り返ってみる。

1950年という団塊の世代の終わりに生まれ、少年期の貧しさをバネに、ひたすら豊かさを求めて、経済成長の波に乗り、脇目も振らずに走ってきた。それは、自分だけではなく、日本中がそうであった。勉強でも、仕事でも、つらいことがあると、頑張っていけば豊かになる、幸せになれると思って我慢してきた。でもその結果、物質的な豊かさは得たものの、期待していた幸せは感じられない。それどころか、先の見えない不安と、夢のない虚無感に包まれている。これはどこか違うんではないか?そんなことを感じていた矢先、氏の講演はこのことをより深く考えるきっかけを与えてくれた。

◎ 物質的な豊かさはそれのみでは幸せにつながらない。精神的な豊かさこそ必要である。そして、精神的な豊かさとは何か? そんなことを考えている時に、黒沢明監督の遺作である「雨上がる」をビデオで見た。その主人公の浪人三沢伊兵衛の生き方や、山田洋二監督の「学校W」に出てくる『引きこもり』の少年、登が書いた浪人の詩など(詳しくは私のホームページで)に触れて、『人生は自分の道を自分の歩幅で歩いていくものだ』と考えるようになった。今までの、少しでも早く目的地に着こうという特急列車の旅ではなく、回りの景色や人々とのふれあいを楽しみながらの、普通列車の旅をしていこうと思っている。とにかく、もっとゆっくりと豊かに生きていきたいと思う。

 

◎ フィリピンのスモーキー・マウンテンのこと

 「スモーキー・マウンテン」は、フィリピンのマニラ市の北に位置する、フィリピン最大のスラム街の名前である。

1995年の暮れに撤去されて40年の歴史を終わった。現在そこは、政府の手でビジネス街に再開発されている。

 スモーキー・マウンテンの名の由来は、ゴミの山が自然発火して、いつも煙を上げていることから来ている。そこに住む人々は、ここに捨てられたゴミから、まだ使えるものを探し出し、それを換金して日々生きている。

◎ ストリートチルドレンのこと

 発展途上国の子供達の多くが路上で暮らし、働いている。その内の3/4の子供達は、何らかの形で家族とのつながりをもっていて、物乞い、売り子、靴磨き、車洗いをしたりして家族の生計を助けている。彼らのほとんどが教育を全く受けていない。

 残りの1/4の子供達は親元を離れて、他の子供達とグル−プをつくって、路上に暮らしている。彼らは空きビルや橋の下、建物の出入口や公園で眠る。彼らは生きのびるために盗みや売春をし、現実から逃避させ、空腹を忘れさせてくれる接着剤を常用している。

 子供達が家族のもとを去る一番の理由は両親(多くは義理の親)による肉体的・精神的・性的虐待である。

◎ ベトナムのフェの小山さんのこと

 小山先生は、7年前の夏休みにベトナムを訪問した。その時、街の公園や橋の下で生活する子ども達(ストリートチルドレン)と出会ったことが、先生の人生を大きく変えた。翌年の9月、23年間勤めた東京都板橋区の小学校を退職し、ベトナム中部の古都フェ市に単身で渡り、ストリートチルドレンの救済活動を始めた。

 先生の活動は、フェ市にいるといわれている約150人のストリートチルドレンを一人ひとり探し、両親や本人の同意を得ながら、「子供の家」に子ども達を入所させ、学校に通わせることである。なお、「子供の家」は、日本のODA(政府開発援助)やNGO(民間の海外支援団体)の支援で作ったもので、この6年間で、120人以上の子ども達が入所し、現在70人の子ども達が生活を共にしている。

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