灰谷健次郎 ◎ 子供の命を土足で踏みにじるような行為が、教育という営みの中で行われた場合、それは、大きな犯罪であるのに、罪を犯した教師は罰せられることがない。あの悪名高い日本の医師ですら、誤診によって人命に損害を与えた場合、さまざまな形でその償いをしなくてはならないのに、教師にはそれがない。そこから教師の傲慢が生まれる。
ノート 5年 嶋田攻
ノートをあけたら 赤ペンがぜんぜんついていなかった。 読んでみると 「よごしたくなかったのです」 という言葉が書いてあった。 ぼくはその時半泣きになった。 よごすもよごさんも このノートは 先生のノートでもあるんやで!
※ 素敵な詩ですね。こういう子供とのふれあいがあれば、教師という仕事は楽しくてやめられないと思います。先生のやさしい心遣いが感じられます。
◎ 子供たちは想像もできないような深いところで生きている。 人が生きる。命が生きるということは、容赦のない世界であること、人の苦しみは無限であること、だからこそ人間には優しさや思いやりが必要であること。子供たちがそう教えてくれる。
※ <命が生きるということは、容赦のない世界であること>障害を持った子供たちおことを特に指していると思う。
自分の子供時代を考えると、結構辛いことがあり、のんきに生きてきたわけではない。子供は子供なりの悩み(大人から見ると何んでそんなことを悩むの……)があり、それを深刻に考えて、苦しんでいた。周りのことが見えないための苦しさ(未熟なゆえの)や人の気持ちが分からない辛さであった。
<人間には優しさや思いやりが必要>人に優しくするとき、私は余裕が必要だと思う。自分で精一杯でなく、その余力で人に優しくできる。だから、強い人でなければやさしくない。自分の生き方に余裕が欲しい。それには、自分を強くする必要がある。
◎ 子供というものは、時には信じられないような力を示すことある。私たちはそれを子供の可能性と呼んでいるけど、子供の可能性が引き出される時は、子供と教師の容赦のないぶつかり合いが必ずある。
<チューインガム一つ>の詩 灰谷健次郎のエッセイを読んでいます。同じ内容、題材が何回も出てきますね。特に、このチューンガムの話しは繰り返し出てきます。繰り返されるということは、重要なわけですね。
◎ チューンガム一つ 3年 村井安子
せんせい おこらんとって せんせい おこらんとってね わたし ものすごくわるいことした
わたし おみせやさんの チューインガムとってん 一年生の子とふたりで チューインガムとってしもてん すぐ みつかってしもた きっと かみさん(神様)が おばさんにしらせたんや わたし ものもいわれへん からだが おもちゃみたいに カタカタふるえるねん わたしが一年生の子に 「とり」いうてん 一年生の子が 「あんたもとり」いうたけど わたしはみつかったらいややから いややいうた
一年生の子がとった
でも わたしがわるい その子の百ばいも千ばいもわるい わるい わるい わるい わたしがわるい おかあちゃんに みつからへんとおもったのに やっぱり すぐ みつかった あんなこわいおかあちゃんのかお 見たことない あんなかなしそうなおかあちゃんのかおみたことない しぬくらいたたかれて 「こんな子 うちの子とちがう 出ていき」 おかあちゃんはなきながら そないいうねん
わたし ひとりで出ていってん いつでもいくこうえんにいったら よその国へいったみたいなきがしたよ せんせい どこかへ、いってしまお とおもた ども なんぼあるいても どこへもいくとこあらへん なんぼ かんがえても あしばっかりふるえて なんにも かんがえられへん おそうに うちへかえって さかなみたいにおかあちゃんにあやまってん けどおかあちゃんは わたしのかおを見て ないてばかりいる わたし どうして あんなわるいことしてんやろ
もう二日もたっているのに おかあちゃんは まだ さみしそうにないている せんせい どないしょう
◎ 林先生は、絶望をくぐらない所に、ほんとうの優しさはない、ほんとうの優しさは厳しさのともなうものです、とよくおっしゃっていました。「チューインガム一つ」という万引きをして苦しむ少女の詩を、よく教師の前で読まれたという話をしましたが、林先生は、わたしとの対談の中で、次のように話されました。
安子ちゃんに己の盗みという行為から目をそむけさせないで凝視させる。その辛い仕事をさせることを抜きにしては、この場合、教師の献身はないのですね。私がよくいっているのですけども、やさしさときびしさというのは、一つだと思うのです。
私にはソクラテスから学んだ、教育は反駁から浄化だという考えがあるのですが、あの詩が生まれるプロセスの中には、その証があるように思うのです。灰谷さんの、ちょっとのごまかしも許さない、きびしく追いつめる行為で、安子ちゃんは自分ひとりでは絶対に到達できない高い峰をよじ登っていった。 灰谷さんのあのきびしさ、それがそのままやさしさのわけですが、それなしにはあの詩は生まれなかった。
※ その子のためを思って、あえてきびしくする、それはやさしさですね。でも、その我慢がなかなかできません。特に障害を持っている子供には、親切に何でもやってあげるのがやさしさで、やってあげないのは、意地悪である。そんな意識が強いですね。でも、よく知らない障害者の子に、どこまでがその子のためになるかを判断するのは至難の技です。やはり、その子と”寄り添う”ことができない人はダメです。そういう意味でも母親は、自分の子供に”添う”ことができるから、きびしさとやさしさを両立できます。
これに関連して、天の瞳の中での、潤子さんと芽衣さんの会話が思い出されました。 「親の愛って、子の成長と、人のつながりをしっかり考えたとき、生まれてくるものよね。溺愛は親の愛とは言わないと思うわ。親の愛に守られて、すくすく育っちゃいけないんで、親の愛に守られて、あれこれ悩んで、育って欲しいと、わたしなら思う。」
「子どもに何かをしてあげる愛は分かりやすいけれど、ときには、なにかをしてあげないことも親の愛だというのを理解する人は少ないわね。」
◎ 4歳の私は永遠であった 4歳のわたしにはかげりなどなかった いつか死がくることを知らなかったから 私の生涯に限りがあることを 知らなかったから <ロシアの詩人で児童文学者のマルシャーク>
※ 大人と子どもの違いは、死に対する意識の違いだといった人がいます。例えば、私達は、そう遠くない日、この世をさるだろう、去らなくてはならないだろうという意識が強烈にある。いつも死を意識していて、それが今の生き方を律しているような所があります。でも、幼児は自分たちがいつか死ぬなどということは、決して考えないだろうなと思ってしまいます。
※ 少し、「死」の事について考えてみました。おつき合いください。私は、死を考える時、そこに神とか霊魂とか輪廻転生などの現象を抜きにして考えられません。
神は、存在するのか?それとも人間が作り出した架空のものなのか?この問題はさんざん議論され尽くしたものです。紀元前から古今の著名な哲学者が考えても、結論が出ないものですから、私ごときに分かるわけがありません。ですから、正直言って分かりません。だから、神がいるともいないとも今の段階では結論は下せないと思います。ただ、神の存在が今だに見つからないということは、これから先も見つからない。そんな気がします。
私は無宗教です。ただ、大学時代にドストエフスキーを愛読し、彼の影響から神とか死について、深刻に考えた時期がありました。今は、ほとんどその呪縛から逃れ、精神的には自由です。
私は無宗教ですが、実を言うと心のよりどころに聖書があります。キリスト教徒ではありませんし、教会に行くこともありません。これを、無教会主義のキリスト教徒と呼ぶのだそうですが、教会の権威主義に翻弄されることなく、自由に聖書の言葉を生きる糧にしています。大学時代に、ドストエフスキーに傾倒し彼の本はほとんど読破し、評論も大半のものは読みました。彼の苦悩は、絶対の神が作った現実の世界が矛盾だらけであったことです。そして、神を信じている自分が、神を裏切るような事(飲酒、女性、賭博)ばかりする。この善と悪の間で苦しんでいました。天才といえども煩悩は凡人と同じなんですね。彼の有名な言葉に「神が真理の外にあるとしても、私は真理と共にあるよりも神と共にありたい」があります。信仰とはこういうものだと確信する言葉です。
この年になる(死が近づいてくる)と、信仰なくして生きていくのが辛くなってきます。ただ、今の自分は信仰には消極的で、回りの様子をみたり、自分の中で信仰を持たないいいわけを作っている内は、信仰は持てないと思います。信仰とは、ドストエフスキーの言葉のように、疑問があってもそのまま信じる事ですからね。
人間の生まれ変わりについては、いろいろな本が出ているけど、頭では分かっても、なかなか信じることができません。輪廻転生は、仏教的な教えですが、生まれ変わりの本は、ほとんど西洋の子供の話です。それ以外でも、人間の考えの及ばない不思議なことが一杯あります。人間の目に見えないものでも、信じる勇気が欲しいですね。ただ、インチキを見破る、適正な目が必要です。だいたい、奇跡や特別な力をお金儲けのために利用するのは、ダメですね。金儲けをする宗教はダメです。
人間は何のために生まれたか?これは死んだらどうなるかに関係があると思います。これを考えると”サイモンバーチ”という映画を思い出します。主人公のサイモンは難病で、成長が止まり長く生きられない運命にあるのに、神は自分を小さく産んだのには、きっと意味があるんだと、それを信じて明るく懸命に生きている。そして、最後にそれが証明される。感動的な映画で、何度も何度も泣きました。人は生まれてきた目的、それを全うするのが人生です。だから自殺はいけません。生を全うし、自分の目的を達する。それが、その人にとって意義のある人生だと思います。
人間は、夢(思い出)を食って生きていくと思います。特に年を取ってくるとそれを感じます。昔自分がもてたこと(もてたと錯覚していること)を思い出しては、ひとりにやついています。年を取ってからの楽しい人生はそういう思い出(恋ばかりでなく、いろいろな体験)が一杯ある人が幸福ではないかと思います。
◎ 子供たちは生きたがっている。死にたがっている子供たちほど、生きたがっている。そのことを立証する方法は、私がどう生きるかという問題と深くかかわっているし、もう一つは、いま生きている子供の苦しみを共に背負って歩くということ以外ないであろう。
◎ 子供は自分の幸福を主体的に選ぶ権利を持つ。 なんだかんだといっても、今の社会は競争社会だから大学を出て、そこそこの会社に入っておかなければ、結局泣きを見るのはお前だよ。ということが、彼の幸福につながるとは私には思えないし、そういうお説教は彼にとって、よけいなお世話以外のなにものでもない。人に与えられた幸福よりは、自分で選んだ不幸の方をとるというのが私の信条だから、私は、甥の決心に同士的なものを感じた。
※ 娘のことを思います。
びょうき、ぼくにくれ 2年 にしもと こうぞう
先生、しんどいか しんどかったら いつでも、びょうきぼくにくれ ぼくはしんどかってもよい 先生がげんきになったら ぼくはそれで むねがすーとする
たった8歳の子供が、私たち人間がどう生きるべきかということを示唆してくれている。掛け声だけかけるのではなく、ともに苦しもうと8歳の子供がいっているのである。
◎ けしょう 5年 男
パタ パタ ポン ポン シュー 母のけしょうがはじまった。 ひどい土台にクリームぬって 口べにぬって おしろいつけて スプレーかけて けしょうしてる。 「けしょうするのは、ハエが一番で、ネコが二番で、女が三番っていうけど、ほんとやな」 と、ぼくがいった。 すると、母は、「ハエやネコにまけられるかいな」 と、パタパタやりだした。 ぼくは、あきれて二階にあがった。
◎ けっこん 一年 せきぐち ひでひこ
おとうさんとおかあさんと れんあいけっこんしたそうや おとうさんはまじめで、 いままでげっきゅうぶくろも いっかいもふうをあけずに もってかえってくれるねんて
おかあさんがおとうさんをすきになったのは おとうさんから ぼくはあなたのじんせいこうろのとうだいや というてがみがきました それでけっこんしたそうな だからぼくはとうだいのこどもです
◎ 親と子の関係が対等であることの意味は、ともに学ぶということである。
◎ 一つの生命は、他の無数の生命に支えられてあるという自明のことが忘れられた社会は、人間の感情喪失と祖国喪失を生む。 沖縄の文化が、究極には人間の優しさによって支えられた文化であり、生命の対等観という調和の世界にあるものだということを知ったとき、わたしは自分の立っている場所が、ふいに虚空であるかのような恐怖におそわれた。 あらゆる人間の行動が、競争原理と功利主義によって営まれた結果、私たちは自然との対話を失ったばかりか、生命の孤立化というまことに憂慮すべき事態を招いてしまった。
◎ 弱い動物ほど人間に親しいのは、人間もまた弱い動物であるからでしょう。 しかし動物を、強い動物弱い動物、あるいは優しい動物というふうに分けるのは、人間の傲慢さではないかと私は思います。 どの動物も生きるということにかけては容赦のない強さをもっているものであり、だきょうがありません。
◎ 平穏な生活の中では自分という人間を語ることができても、ひとたび苦難の海に放り出されれば、自己の存在の焦点さえ定まらぬということがある。 どうにもならぬ思いで人を憎み、どうにもならぬ思いで人を恨む。そうして、そんな自分に絶望している。人間がほんとうの優しさを持とうとすれば、かならず、そういう絶望をくぐらなければならぬものだろうか。
◎ おとうさん 一年 やなぎ ますみ
おとうさんのかえりが おそかったので おかあさんはおこって いえじゅうのかぎを ぜんぶ しめてしまいました それやのに あさになったら おとうさんはねていました
◎ 子供たちの発言の中には、ときに鋭いものがあった。 「テストをじっくり見ながら『何でこんなことができないの?』それがわかれば、わたしも苦労しないわ」(小四・女) 「人にはいろいろ偉そうなことをいうのよね。でけど、そのわりには全然しっかりしていないじゃない。要するにいいかげんなのよね」(小六・女) これを、こましゃくれととるかどうかは、とる人の自由だけど、いったいに、子供の親見くびりというのは少なくて、親の子みくびりという方が多い。そこを子どもにつかれる。 子どもの人生も大人の人生もかけがえのないという意味で対等であり、共に学ぶという姿勢は親や教師の方に欠けているのではないか。
|