太陽の子

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あらすじ 

 「太陽の子」の主人公は「ふうちゃん」である。彼女は、天真爛漫で底抜けに明るく、誰にも好かれるキャラクターとそれでいながら、大人顔負けの繊細さと物事に対する洞察力がある。そして何よりも、真のやさしさを持った少女である。物語は、彼女の母親が経営する、沖縄料理の店に集まってくる人々の、何の変哲もない日常生活の繰り返しの中で、淡々と展開して行く。そこに描かれる人々は全て温かく、人間味に溢れているが、内側では深い悲しみを持っている。心身症である父を気遣うふうちゃん。母に捨てられ暗い過去を持つキヨシ少年との、友情とも淡い初恋ともとれる関係。本当の歴史を学ぶことが必要だと言った担任の梶山先生とのふれあい。これだけではない、至るところに真のやさしさ、真の強さとは何か、人が生きるとは何かのヒントが埋め込まれている。この小説を読むことで、心が安まり、人間のやさしさや思いやりを信ずることができ、過去を乗り越える強さを知らされた。

 

 

詳しい筋


◎ 物語の冒頭は、幸せな家族のピクニックのような情景から始まる。明るく無邪気なふうちゃん(大峰芙由子、小学校6年生)が、楽しそうにはしゃぎ、母親が作った沖縄料理の重箱を開き食べる。回りは赤い曼珠沙華の花が咲いている。しかし、何かお父さんの様子がおかしい。しばらくして、楽しい雰囲気が一変する。家族のピクニックの目的は、父親の病院であった。その白い建物の門には、神経科の文字が書いてあった。

 

◎ ふうちゃんの家は、神戸のミナト町で『てだのふあ・おきなわ亭』という、琉球料理の店をやっていた。「てだ」は太陽、「ふあ」は子、だから「てだのふあ」とは太陽の子のことであった。ミナト町は下町で、大衆的な店であった。名前はオジやんがつけた。オジやんは母の遠い親戚にあたる老人で、71歳になる。ふうちゃんの両親はオジやんを頼って、沖縄から神戸に来た。ほかに血縁がないことから親子のような関係であった。そのため、ふうちゃんはオジやんのことを、おじいちゃんと呼んでいた。オジやんは、店の近くのアパートに一人で暮らしていて、母が一緒に暮らそうと言っても、うんと言わなかった。けじめを付けているのだった。

 

◎ てだのふあ・おきなわ亭は、夜になると沖縄出身者のたまり場になり、そこには、ギッチョンチョン(ふうちゃんと口げんか友達。集団就職で沖縄から来た21歳の青年で、町の鋳物工場で働いている。)昭吉(ギッチョンチョンと同じ職場の先輩)ゴロちゃん(父の親友で、同い年の45歳。沖縄ではずっと一緒で、戦時中は苦労を共にした。クレーンの運転手をしている。)ギンちゃん(独りもんのお人好しである。沖縄の人ではないが、沖縄料理については詳しい。)などの常連が集まり、泡盛を飲みながら夜遅くまでおしゃべりしていた。

 

◎ そこで出される琉球料理には、ミミガーサシミ(豚の耳の酢のもの)アシティビチ(豚の脚を骨ごとぶつ切りにして、昆布と一緒にに煮込んだもの)ラフティー(材料は豚肉で、口の中に入れるととろけてしまう)イラブーシンジ(イラブーとは、ウミヘビのことで、イラブーの薫製と昆布を長時間煮込んだスープのこと)マーミナ・チャンプルー(マーミナとは、もやしのことで、豆腐と一緒にラードでいためたもの)などがあり、沖縄での家庭料理が中心であった。

 

◎ お父さんは最近何もしなくなったので、ふうちゃんは、必ず散歩に連れ出すようにしている。そして、いろいろと話しかける。しかし、半年前までは立場が逆で、父がよく沖縄の話をしてくれた。父も母も沖縄のことを話す時、ほんとうにうっとりした表情になる。このことから、ふうちゃんは沖縄の人ほど、生まれた所を大切にする人達はいないと思うようになった。

 

◎ 半年で、お父さんはすっかり変わった。自分から話すこともなく、笑うことも忘れてしまった。部屋の隅で長いこと考え事をしているかと思うと、急に店に降りてきて煮炊きを手伝い、砂糖と塩を間違えてしまう。

 

◎ 母は、何にも悪いことをしないで、苦労ばかりしてきた父が不憫だと、一度だけ泣いた。しかし、泣いてもお父さんは良くならないとわかると、二度と泣かなかった。

 

◎ 突然、父が「いかん」と言った。そして、ふうちゃんが殺されると言いながら、イラブーを引きちぎった。発作の前兆を感じた母は、オジやんを呼んでくるように、ふうちゃんに頼んだ。ふうちゃんは、初めて父を怖いと思った。翌日発作は治まったが、ふうちゃんは遅刻して学校に行った。授業中もお父さんの病気のことを考えて、ボーとしていたので、担任の梶山先生が心配して、早退をさせてくれた。その夜、心配して梶山先生がおきなわ亭に来てくれた。梶山先生は24歳だった。

 

◎ その時、店は10人ほどのお客がいたが、みんな兄弟のように、梶山先生を暖かく迎えた。梶山先生は泡盛を勧められ、沖縄の民謡を聞いた。店はいつになく盛り上がった。しかし、その夜ふうちゃんが寝てから、お父さんが風呂場に誰かいると言って、発作を起こし、母は看病のためほとんど寝られなかった。

 

◎ 梶山先生は、店が気に入ると同時に、沖縄が大好きになった。そこで、家に帰って沖縄に関する本を探していたら、沖縄の草花遊びの本が見つかった。次の日学校で、昨日のお礼とともに、それを、ふうちゃんにくれた。ふうちゃんは、お父さんを喜ばそうと思い、ふるさとの八重山の草花遊びを作り、店に飾ろうとする。その手伝いをギッチョンチョンに頼んだ。

 

◎ ギンちゃんとギッチョンチョンがけんかをした。沖縄人は、戦いを好まない。空手も身を守ることから始まったし、台風がくると庭の草花を根っこから抜いて、風がおさまるとまた元に戻してやる。そんなやさしい、沖縄人のギッチョンチョンが先に手を出した。

 

◎ 夜の8時頃、ギッチョンチョンが店にひとりの少年を連れてきた。少年は15,6歳で年のわりには生気がなく、すさんだ顔つきをしていた。関心を示さない少年に、ギッチョンチョンは、沖縄の言葉を教えようとしていた、それを見たギンちゃんが、言葉なんか通じればそれでいい、沖縄の方言を知って何になると言った。それに対して、ギッチョンチョンは、沖縄人は本土に来てまず言葉で苦労する。それによって自殺する人もいると反論する。それは、自殺するやつがあほだと言われ、ギッチョンチョンは切れた。激しくつかみ合う二人を、昭吉くんが止めに入った。けがをしたギンちゃんをみて、ふうちゃんは泣きながらギッチョンチョンを責めた。

 

◎ 母は、ギンちゃんの傷の手当をしながら、「私たち沖縄人は神戸の言葉を使い、神戸のことを大切にして暮らしてきた。しかし、日本の人は私たちのように、沖縄のことを考えてくれていない」そのことに腹が立ったのだ、彼の気持ちをわかって欲しいと言った。

 

◎ ふうちゃんは、けんかの罰として、二人に仕事が終わったら、オジやんのアパートにきて、アダンの葉を使って、八重山のおもちゃを作るように命じた。二人はけんかしながらも、仲良く星コロ(星の砂)や馬や船をつくった。

 

◎ ギッチョンチョンが、オキナワ亭に連れてきた少年の話をした。名前はキヨシという沖縄人で、幼いときにヤマトーに連れてこられた。親に捨てられてグレタようだが、捨てられたとは本人の誤解である。しかし、それを解くには、あいつは世間にいじめられすぎているとギッチョンチョンは言った。そして、キヨシは2日泊めてやったが、有り金全部もって逃げた。

 

◎ 八重山のおもちゃ(アダシの葉のラッパ、ワラミゴの鶴と亀、ソテツの馬)が、段ボール箱いっぱいできた。それを持ってふうちゃんは、お父ちゃんの所へ走った。少しでも早く喜ぶ顔が見たかったからだ。

 

◎ その中にアダンの葉で作った風車があった。沖縄では、風車のことをカジマヤーといい、97歳になると花の風車を作ってお祝いする。それを、『カジマヤーの祝い』と言った。97才の老人が、風車で飾られた山車に乗って、村々を回り、『私にあやかりなさい』と、長寿を授ける祝い。ふうちゃんは、それを5個も作ったのだから、お父ちゃんには、500歳まで生きてもらわんとあかんと言った。

 

◎ 作った沖縄のおもちゃは、店に飾られた。ふうちゃんが作った小さな沖縄が、店で飾られ多くの人の心を暖かくした。ろくさんに、クバの三絃をあげようと探していると、店の裏で泣いていた。ふうちゃんの作ったアダンの風車を持って、何かつぶやきながら(戦争の時なくした、自分の子供のミチコが殺されると……。)すすり泣いているのだった。

 

◎ このことを母に話し、なぜろくさんが泣いていたか、その理由を母にたずねる。戦争に関係があるとふうちゃんは思うのだが、母は何も話してくれない。ただ「誰だってつらいことは、一日も早く忘れてしまいたい」「忘れようと思っていることを、口に出すことはつらいこと」と言っただけだった。

 

◎ ふうちゃんは、沖縄のことを自分で調べようと思い、ギッチョンチョンの部屋に行った。彼は、沖縄に関する本をいっぱい持っていた。彼にお願いして、沖縄戦の写真集を見せてもらった。小学校6年生のふうちゃんは、太平洋戦争の最後の決戦になる沖縄戦のことは何も知らなかった。それを彼から少しずつ聞きながら、理解していった。日本本土を守るための捨て石にされた沖縄戦の現状が出ていた。日本軍は本気で沖縄を守る気はなかった。沖縄の人は勇敢に戦ったが、物量で勝るアメリカの敵ではなかった。彼は言う。「はじめから沖縄を守る気はなかった。沖縄は見殺しにされた。ヤマトーの奴は、いつだって沖縄を見殺しにして、自分だけ甘い汁を吸っている。昔からそうだったし、今もそうだ。」

この戦争で、沖縄住民45万人のうち16万人が死んだ。次から次へ展開する悲惨な写真、特に洞窟の中で手榴弾で自決した人々の生々しい死体を見た時、ふうちゃんは吐いてしまった。しかし、ふうちゃんは目をそむけようとはしなかった。沖縄の現実をしっかり見ようと涙を拭いた。

 

◎ 遠足の帰り道、キヨシ少年を偶然見つけた。白い割烹着を着て、料理屋の下働きをしていた。ふうちゃんは、キヨシ少年の尻を蹴り上げ、ギッチョンチョンに謝るために、きょう店に来るように命令した。キヨシは仕方なしに11時頃行くことを約束する。店にはギッチョンチョンを始め、いつものメンバーが集まり、キヨシ少年を今か今かと待っていた。しかし、その日はついに現れなかった。

 

◎ ふうちゃんは、キヨシ少年が働いている料亭「しのじま」を訪ねた。しかしキヨシ少年(知念)は昨日店をやめたところだった。知り合いが来たら呼んで欲しいと、女将から頼まれていた店員は、女将を呼んできた。女将はふうちゃんに、あんな質の悪いのと付き合ってはだめと忠告した後、半年も経たずにやめて、やっぱりオキナワモンはあかんといった。これを聞いたふうちゃんは、怒りが爆発した。オキナワモンとは何か知らないけど、自分の両親も沖縄だし、自分の回りにいる沖縄の人たちも、一生懸命頑張っている。そのみんながあかんのですか?と詰め寄る。ふうちゃんの迫力に、女将は狼狽しながら、1000円札を握らせ機嫌をとろうとする。ふうちゃんは泣きながらその場を走り去った。ふうちゃんは思った。あんなきれいな顔をして、平気で嫌なことを言う。キヨシ少年の悪口を言うとき、何とも言えない嫌な顔になった。あんな質の悪い人見たことないと思った。それに引き替え、オキナワ亭にくるお客は、みんないい顔をしていると思った。

 

◎ 桐道さんは、ある高名な画家に弟子入りしたことがある。しかし、絵を描くことより、お金をもうけたり、名を売ることに忙しい人々に嫌気がさし、そこを飛び出した。その後茶碗に惹かれ、土をこねるようになった。服を作ったり、芋を植えるのは自給自足の訓練である。今は、電気工事の肉体労働をしながら、凝り性の人生を送っている。

桐道さんは言う。「人間の暮らしに必要なもんと、そうでないもんとの区別がつかなんだ。それがわからん人間は、わやになるね。沖縄の人はえらいね。そこらがちゃんとしとるさかい、人間の中でも上等が多い」ふうちゃんの胸がこんと鳴った。

 

◎ その夜9時頃、店の裏にキヨシ少年が現れた。お金をギッチョンチョンに返して欲しいと頼んできた。自分で返したらと言うふうちゃんを後に、彼は駆けだした。それを追いかけたふうちゃんは、彼の腕をつかんだ瞬間、アキレス腱を切りその場に倒れる。キヨシ少年がそれを助け、病院に運ぶ。キヨシ少年は、その夜病院に泊まってくれた。ふうちゃんのけがと入院した責任を感じたキヨシ少年は、翌日船内荷役の日雇いをして、そのお金をふうちゃんの入院費にして欲しいと持ってきた。キヨシ少年の気持ちがうれしくて、母はキヨシ少年をやさしく抱いた。まるで、ほんとうの親子のようであった。

 

◎ ふうちゃんは、キヨシ少年にお父ちゃんを見てきて欲しいと頼む。それは、ふうちゃんが入院した日、お父ちゃんに何かあって、それを母が隠している気がしたからだ。

 

◎ キヨシ少年はオキナワ亭で働くことになった。母とギッチョンチョンが熱心に勧めたからだった。オジやんがふうちゃんと一緒に暮らし、そのアパートにキヨシ少年が住んだ。入院中で、ふうちゃんの誕生祝いができなかったが、いっぱいお祝いの品をもらった。しかし、ふうちゃんにとってどんな誕生祝いより、キヨシ少年がオキナワ亭で働くことになったのが、一番うれしかった。

 

◎ 退院はしたが、ギブスがとれるのが先になったので、キヨシ少年がふうちゃんをオブって、学校まで送り迎えした。二人は仲の良い兄妹のようだった。

 

◎ 店で、沖縄出身の若い女性が、孤独死をした新聞記事が話題になった。彼女は、大阪に集団就職で来たが、友達もなく、餓死して1ヶ月も発見されなかった。『かわいそうだ、沖縄ならこんなことはない、本土は冷たい』という声の中で、ギッチョンチョンは言う。「この女の人は、飢え死にしたんと違う。口先だけでかわいそうと言っている奴ほど、痛いともかゆいとも感じない。そういう奴に、よってたかって殺されたんだ」

 

◎ 新聞が回され、キヨシ少年の所に行った時、キヨシ少年はその新聞を投げつけた。その時の目は、オキナワ亭にくる前の、飢えたオオカミの目であった。店を飛び出したキヨシ少年の変貌に驚き、心配になったふうちゃんは、彼を追いかけた。彼は、アパートに一人いた。そこで、キヨシ少年は、生い立ちをふうちゃんに話した。母に捨てられた後、父は不発弾に触れて死んだ。そのため、姉と二人きりになり、自分は大阪の叔母さんの家に預けられた。ある日、学校で自分のコンパスだけ、ちゃんとした円が書けなかったのが悔しくて、姉に手紙を書き、コンパスを買ってもらった。その姉が、新聞の女性のように、狭い部屋で一人で死んでいた。『疲れてしまった。キヨシちゃんごめん』と遺書には書いてあった。19歳だった。

 

◎ ふうちゃんのギブスがとれた日、店は泡盛飲み放題のサービスをした。いつもの常連に混じって梶山先生も来た。梶山先生はキヨシ少年に15センチくらいの石の彫像(学生時代、シルクロードに魅せられて、3回も行った時の思い出の品)を渡した。それはふうちゃんのために、大変な思いをさせたお詫びだった。いやそれだけではなく、自分はもうシルクロードをきっぱり忘れて、本気で真の教師になるとの誓いでもあった。

 

◎ 「自分はあかん教師」と言ったことが気になり、キヨシ少年に何でかと聞いた。キヨシ少年は、「お前には良い先生でも、他の子供にとって、良い先生かどうかはわからない」「勉強ができない子は、勉強ができるようにしてくれた先生が、良い先生で、悲しいことがあって、勉強が手に着かない子にとっては、一緒に悲しいことを考えてくれる先生が、良い先生である。」

 

◎ 救急車のサイレントが鳴り響き、ふうちゃんが連れて行かれたのがショックで、お父ちゃんは発作を起こした。心配になり、ふうちゃんを捜しに、同級生で友達の若杉とき子の家に行き、異常な行動をとった。それに驚いたとき子の母が、警察に通報し精神病院の保護室に入れられた。その時、精神病院に駆けつけた、オジやんは「沖縄の島々では、心の病人はみんなで大事にした。こんな監獄みたいな所へ隔離して、邪魔者扱いしない。心を病んでいる者ほど、人の心が必要だ」と言って、出せないなら自分もここで寝起きすると、5日間もがんばった。それに根負けした病院は、1週間に一度、医師の往診を受けることを条件に退院させた。

 

◎ 次の日学校で梶山先生から、若杉とき子の手紙を渡された。この手紙には、その日のお父ちゃんの様子が詳しく書かれていた。しかし、それだけでなく、自分もふうちゃんと同じように、一生懸命がんばっている、それを認めて欲しいと、切々と訴えていた。

 

◎ 梶山先生はこの手紙を読んで、自分は教師失格だと思った。だから、あのギブスがとれた日店に来て、泡盛を飲みながら、もう一度教師をやり直しをしたいと言った。そして、シルクロードの亡霊を、キヨシ少年に渡したのだった。

 

◎ 「お前にとっていい先生でも、他の子にとってはいい先生でないかもしれない」その時、キヨシ少年は言ったが、これがズバリ的中した。やはり、どんなに優しい人間でも、つらい目にあったことがなければ、その人の気持ちは分からないものだと、ふうちゃんはしみじみ思った。

 

◎ エスカルゴという洋菓子屋さんのれいこさんは、ギッチョンチョンの片思いの人だった。優柔不断なギッチョンチョンにいらいらした、キヨシ少年が仲介して、ふうちゃんと4人で、フランス料理を食べに行くデートをセットした。その時、ふうちゃんは、れいこさんをオキナワ亭に招待した。フランス料理のデートでは、ギッチョンチョンは失敗だらけだったが、慣れたオキナワ亭なら、彼のほんとうの味が出て、れいこさんに見直してもらえると思ったからだ。

 

◎ 梶山先生は、社会科の先生だった。彼は、とき子から手紙をもらってから、ほんとうの教師になるためには、どうしたらいいか真剣に考えていた。ある日の社会科の授業で、生徒達に年号を覚えたり、歴史的な出来事と、それに関係のある人物を、線で結ぶだけで、ほんとうに歴史を学んだことになるか?と問いかける。これは、自分自身への問いかけでもある。テストに出るから、西暦何年に広島に原爆が落ちたとか、沖縄が日本に何年に復帰した等の、歴史年表はよく知っている。しかし、広島の原爆の被害の実態や、沖縄の復帰の実態は、ほとんど知らない。なぜ、沖縄の人は生まれた土地で働けず、本土に出てくるのか。このようなことを知り、考えるのが、真に歴史を学ぶということではないかと言った。

 

◎ ノブエ叔母さんが、キヨシ少年を店に訪ね、母親の居場所が分かったと、知らせてくれた。しかし、母に捨てられたと思っているキヨシ少年は、素直に会いに行こうとしなかった。そこで、明日ふうちゃんが付いて行くことになった。

 

◎ 母親に会うために、尼崎で降りた。キヨシ少年の子供時代に、母親が家出したのは事実だが、それには深い事情があった。また、それ以来一度も会っていないわけではなかった。しかし、キヨシ少年は、途中すしを食べようかとか、映画を見ようかとか、何とか会う時間を遅らせ、会わずに済ませようとしてきた。

 

◎ アパートの近くで、酔っぱらって帰ってきた母親に会った。二人は、のの知り合い、取っ組み合いのけんかをした。しかし、ふうちゃんはその光景を、厳粛なものを見るように見つめていた。二人の関係を軽々しい言葉で、表現してはいけないと思った。ただ、お互いに愛していることだけは確かだった。母親はキヨシ少年を捨てたりしていないと、ふうちゃんは確信した。

 

◎ 梶山先生が言った、真の歴史を勉強することを、ふうちゃんは実行する事にした。両親や自分の身近な人々のことを知り、そこから沖縄のことを知ろうと考えた。しかし、その人のことを知ろうとすると、その人の触れて欲しくない部分まで知らなければならない。ふうちゃんは悩んだ。そこで、梶山先生に手紙を書いて、どうしたらいいか相談した。

 

◎ 梶山先生から心のこもった返事が来た。「知らなくてはならないことを、知らないで過ごしてしまうような、勇気のない人間になりたくない。」このふうちゃんの言葉を引用して、自分の教師としての未熟さを反省し、ふうちゃんと共に悩み、歩んで行きましょうと、はげましてくれた。ふうちゃんの手紙が、梶山先生を勇気づけたように、ふうちゃんも力づけられた。

 

◎ ふうちゃんは、沖縄のことを知るために、ギッチョンチョンの所へ行き、先生の手紙を見せながらお願いする。しかし、彼は沖縄を知りたいという彼女の気持ちはうれしかったけど、12歳の少女が知るには、沖縄の事実はあまりにも悲惨であった。以前彼女が、あまりの衝撃に吐いた、集団自決のことでも、詳しく知れば知るほど悲しくなる。12歳の少女には、徐々に、その真実を知らせるべきではないかと考えていた。しかし、ふうちゃんは真剣であった。決意が感じられた彼は、彼女と一緒に勉強することを約束する。そして、最初に、沖縄の自然や遊びなどから始め、徐々に核心に触れるように勉強をすすめた。

 

◎ ふうちゃんは、沖縄の勉強をキヨシ少年にも勧めた。それは、沖縄のことを知ることで、彼が母の立場を理解し、二人がうまくいくかもしれないと考えたからだった。そして、キヨシ少年もふうちゃんの熱意に負けて、一緒に歩んで行くことを約束する。

 

◎ ふうちゃんが沖縄の勉強をしている間も、お父ちゃんの病気は進行していた。黙って家を抜け出して外出することも多く、ある時は、家から遠く離れた線路沿いを歩いている所を、店に来る人に見られたことがある。心配した母親は、ゴロちゃんとふうちゃん、キヨシ少年の四人で、その場所に行ってみた。そこは、沖縄の風景にそっくりの場所で、沖縄戦の時、お父ちゃんとゴロちゃんのお父さんが逃げ回った所だった。やはり、お父ちゃんの病気は沖縄戦と関係がある。ふうちゃんはその考えをいっそう強くした。お父ちゃんの頭の中には今も戦争があって、必死でふうちゃんを守ろうとしているのだった。

 

◎ 戦争から30年が経っているのに、いまだに戦争は終わっていない。オキナワ亭は暗く沈んだ。特に、キヨシ少年は落ち込みが激しく、深く考え込んでいるようだった。しばらくして、キヨシ少年が尼崎の母に会いに行きたいから、ふうちゃん一緒に行って欲しいと言って来た。今度会った母親は、以前とは別人のような、きれいな人だった。特に、眼のきれいな人で、ふうちゃんはやさしい人だと感じた。3人でお寿司屋で楽しく食事をした。しかし、キヨシ少年が母親に会いに来たのは、別の意味があった。

 

◎ 夜は部屋に帰って、手料理でごちそうしてくれた。楽しい会話が続く中に、キヨシ少年が「なぜ、ねいちゃんは死んだ」と聞く。母親は青ざめた。キヨシ少年は長い間、ねいちゃんは世間にいじめられ、それに耐えられなくて死んだと思っていた。しかし、ふうちゃんのお父ちゃんの病気の原因が、沖縄戦にあることを知り、自分もねいちゃんのほんとうの、死んだ原因を知りたいと思った。そこで、ねいちゃんの知り合いを訪ね、聞こうとするが、みんな話したがらず、原因が分からなかった。それから、『母ちゃんはなぜ、俺とねいちゃんを捨てて、家を出たのか?』母親は激しく泣いて、答えられる状態ではなかった。このキヨシ少年の真剣な問いかけに、後日母親は、手紙を書いて説明してくれた。

 

◎ ある日、ふうちゃんとキヨシ少年が公園で話している所へ、キヨシ少年が昔付き合っていた、不良連中があらわれた。彼らはキヨシ少年を、再び悪の道へ誘おうと必死になるが、キヨシ少年は相手にならない。執拗な挑発にも、無抵抗のまま一方的に殴られていた。しかし、「根性ないな、オキナワは」の言葉を聞いて、キヨシ少年は切れた。近くにある石をつかんで、グループのリーダーの眼を殴った。眼から血が出た。近所の人の通報で警官が来るまで、けんかが続き、二人は重傷を負い病院に入院した。

 

◎ キヨシ少年は、脳内出血の疑いがあると緊急の手術をした。幸い手術は成功し、命に別状はなかったが、ふうちゃんは、命の縮む思いをした。病院に泊まり、学校へ行けなかったお詫びに、梶山先生に手紙を書いた。ふうちゃんは言う。『今まで、偉い人とは、政治家や芸術家などだと思っていたが、そうではない。人の命の大切さや重さを、口先だけで唱えているような先生は、ほんとうの意味を知らない。どんなに苦しいときでも、本気で人を愛することができる人が偉い人である』と……。この言葉は、キヨシ少年が手術をする前、『けんか相手を許してやってくれ、あいつは悪い奴ではなく、いろいろあったからと……。』この言葉から出たものであった。

 

◎ お父ちゃんやキヨシ少年、キヨシ少年の母のように、死ぬほどの怖い思いをしている人ほど、人に優しくできる。これがほんとうの優しさであり、偉い人である。ふうちゃんは、苦しく虐げられた歴史に耐えたから、オキナワの人が優しく、オキナワ亭に来る人も優しいことがわかった。

 

◎ キヨシ少年の病状が快復すると、刑事が事情聴取をするために、病室にきた。刑事の質問に、キヨシ少年は一切答えない。反抗的な態度に業を煮やした刑事は、警察病院に身柄を移してもいいんだと脅す。今回のけんかで、一人は眼球を傷つけられ、一人は肋骨を3本折った。また、これまでにも傷害事件を多く起こしていた。刑事は、沖縄人だから調べるのではなく、被害者のことも考えて平等に調べると言った。その時、ロクさんがキヨシ少年を調べるなら、なぜ彼がこんなふうになったのかも調べて欲しいと言った。

 

◎ キヨシ少年(知念)が、最初に、警察にやっかいになったのは8歳の時だった。沖縄から神戸の叔母の家に預けられたが、その家を逃げ出して、野宿をしていた。空腹を満たすために、猫を飼っている家を覚えておいて、猫の餌を食って飢えをしのいでいた。ある日、その家の子供が、猫の餌を食っているキヨシ少年に、頭から水をかけた。その仕返しに、キヨシ少年は、その家のガラスを石で割り、警察に通報された。キヨシ少年は、オキナワ亭に来た時は荒れていた。しかし、沖縄の人間(オキナワ亭の人達)は、彼を温かく迎え、立派に更正させた。

 

◎ これに対して、『法の前に沖縄もくそもない。みな平等だ。』と刑事が言うと、ロクさんはほんとに平等かと言って、シャツを脱いだ。そこには手が一本しかなかった。左手は根本からなかったが、それは手榴弾でやられたものだった。沖縄を守りに来た日本の兵隊から、天皇陛下のため、名誉のために死ねと渡された。言われたように我々はかたまって、手榴弾を爆発させ、自分を残して他の人は全て死んだ。

 

◎ さらに、自分は失った左手で、生まれたばかりの自分の子供を殺したと言う。子供が泣くと敵に見つかり、全滅するからだった。この手が、今でも自分を打つと、ロクさんは声を震わせた。

 

◎ 法の前に平等というが、失業率全国一、高校進学率全国最低、キヨシ少年の中に沖縄の不公平がいっぱい詰まっている。あんたの人生がかけがえのないように、キヨシ少年の人生もかけがえのないものだ。人を知ることは人を愛することだ。ロクさんは、思いの丈を精一杯ぶちまけた。この言葉に刑事も、服を着てくださいと言い残し、黙って出て行った。

 

◎ その夜、ふうちゃんは、ミチコさん(ロクさんの娘)の顔が浮かんで寝付かれなかった。その時お母さんは、「生きている人だけの世の中じゃないよ。生きている人の中に死んだ人も一緒に生きているから、人間はやさしい気持ちをもつことができるのよ、ふうちゃん」「お父さんが病気になったのは、お父さんの中に死んだ人がたくさん生きているからだよ。お父さんは地球の上に住んでいる人の中で一番やさしい人……」と話してくれた。

 

◎ 母は、お父さんの話をしてくれた。父は、子供の頃マラリアがはやって、多くの人の死を見てきた。さらに、大きくなって首里に行き、沖縄戦を経験して、されに多くの地獄を見てきたのだった。

 

◎ 次の日病院に行くと、キヨシ少年がふうちゃんに宛てた手紙を書いていた。その中で、昨日のロクさんの勇気ある行動から、真の勇気を知ったこと。沖縄人に生まれて良かったこと、それから、母親の秘密も書いてあった。さらに、沖縄の不幸の上に、今の日本の繁栄がある。しかし、いつか沖縄の心を知って日本も変わるだろう。そうならなければ日本は死ぬ。姉の死んだ原因を探るのをやめて、姉の分まで生きていきたいと書いてあった。

 

◎ ふうちゃんは、ロクさん、お父ちゃん、キヨシ少年の母の秘密を聞き、その衝撃的な事実に打ちのめされた。平和に暮らしている自分が嘘のようで、自分の生は、どれだけの多くの人の悲しみの果てにあるのかと思うと、気が遠くなる思いだった。

 

◎ お父ちゃんの食欲は極端になくなった。頬もげっそりし見る影もなかった。何か変わったものを食べさせようとふぐ鍋をするが、それも一口だけしか口をつけなかった。考えあぐねて母は、オジやんに相談し、沖縄のお父ちゃんのふるさとへ、一家そろって帰ることにした。これを聞いてふうちゃんは、夢にまで見た八重山の美しい景色に会えると、大喜びだった。

 

◎ キヨシ少年の退院祝いと、ふうちゃん一家の里帰りをかねて、祝宴が催された。店の常連はほとんど、梶山先生もれい子さんも来てくれた。そこへ、ふうちゃんの友達が外へ来ていると、梶山先生が教えてくれた。誰かと思って行くと、ときちゃんだった。ときちゃんは黙って花束をふうちゃんに渡した。目がいっぱい話しかけていた。

 

◎ 沖縄に帰ると決まったときから、お父ちゃんが元気になったような気がした。そこで、おみやげを買いにデパートに行ったり、高級な沖縄料理を食べに言った。そこでは、ふうちゃんの料理まで、食べたほどの食欲があった。

 

◎ しかし、その夜お父ちゃんは、首吊り自殺をして死んでしまった。多くの人が弔問に来て泣いたが、ふうちゃんは泣かなかった。ふうちゃんが声を出して泣いたのは、通夜の席だった。ふうちゃんは思った。お父ちゃんが死んだとは、どうしても思えない。もし、死んだとしても、ちょっとかくれんぼしているだけだ。私は結婚して赤ちゃんを産む。それがお父ちゃんやと……。

 

◎ ラストのシーンは、物語の始まりのシーンと同じ、赤い曼珠沙華が咲き誇る、丘のピクニックである。しかし、今回はふうちゃんとキヨシ少年の二人である。「キヨシ君、うち結婚したら子ども二人生むねん」「……」「ひとりはおとうちゃん。もうひとりはキヨシ君のお姉ちゃん」キヨシ少年はちょっと赤い顔をした。

 

 

私の感じたこと

◎ 梶山先生に宛てた、ふうちゃんの友達、若杉とき子の手紙は重要である。教師は、よく出来る生徒と、極端に出来ない子、問題行動や問題のある生徒に、多くの神経を使って、普通の子(手の掛からない子)には、ほとんど神経を使わない。というより、使う時間も余裕もない。普通の子がそれに対して、どのように感じているかの証拠である。次に、本文から抜粋(***〜***以下同様)したものを掲載する。

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 『……。梶山先生はやさしいし、おもしろいと、たいていの子はいいます。となりのクラスの子なんか、梶山先生に受けもってもろて得やなあと、うらやましそうにいいます。先生は生徒に人気があるのです。先生が、だれにもやさしいことは、わたしも認めます。大峯さんにもわたしにもやさしいことはやさしい。けれど、大峯さんにやさしくするときは、真剣で、わたしのときはそうでもないみたい。だから、わたしは先生はうそつきの人だと思います。……。わたしも大峯さんも同じ人間です。そう思うと、わたしは先生に対して強情になってしまうのです。……。わたしにじょうだんをいうときは、ついで、みたいです。うんと勉強ができなければ、先生は本気になってくれる。だから、わたしもうんと勉強のできない子になってやろうかと思ったこともありました。……。わたしは病気のおとうさんもありません。先生は無神経です。父の日におとうさんの作文をかかせましたね。……。わたしは小さな妹と母と三人で、がんばって生きています。先生が大峯はけなげやというとき、大峯さんもがんばっているけど、わたしもがんばっていると、自分にいいきかせています。……。今、心から大峯さんにあやまることができる日まで、あやまるのを待ってください。こんな手紙をかいて、先生はわたしを憎みますか。この手紙を読んで、先生はわたしをきらうかも知れませんね。先生にきらわれても、わたしは自分が正直である方を選びます。先生にきらわれたら、わたしは先生をあてにしないで生きていきます。‥‥

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◎ 梶山先生はこの手紙で衝撃を受け、本気で教師になろうと決意する。そのため、シルクロードで買った、自分にとっては宝物である、石の彫像をキヨシ少年に譲ったのだった。梶山先生の真摯な姿が浮かんでくるが、どんなことからも刺激を受け、自分を反省し、向上させていこうという姿は好感が持てる。また、その時のキヨシ少年がふうちゃんに言った『お前には、いい先生でも他の子供にはいい先生ではない……』も、鋭く教師の在り方の真理をついた言葉だと思う。物事の両面性というものを意識し、他の生徒はどう感じているかを、常に意識した行動が求められる。

 

◎ 桐道さん(オキナワ亭の常連の一人)の言葉、「人間の暮らしに必要なもんと、そうでないものとの区別がつかなんだ。それがわからん人間は、わやになるね。沖縄の人はえらいね。そこらがちゃんとしとるさかい、人間の中でも上等が多い」このことは、沖縄の人だけでなく、昔の日本人や、貧しい国の人々は今でも持っている。現在の日本人がなくした、大切な何かである。

 

◎ これは、いろいろな言葉に置き換えられる。例えば、必要なものとは、人のやさしさ、必要でないものとは、いさかいや不信である。また、物質的な豊かさと精神的な豊かさに置き換えることもできる。もっと端的な言葉で言えば、「足ることを知る」である。

 

◎ 私の好きな言葉に、『神よ、変えざるものを受け入れる平静さと、変えうるものを変える勇気と、その違いを見分ける知恵を与えたまえ』がある。沖縄の人が、悲しい現実に直面しても、たくましく生きてきたのは、宿命に逆らわず、それを受け入れることができたからかも知れない。

 

◎ 変えられないものを認め、受け入れる。それで、悩みの大半は解決する。例えば、人の死、病気、失業など、起きてしまったことの事実を認める(そのことでくよくよしない)所から、全てが始まる。一つのことに執着をしない。執着は苦の源である。

 

◎ 人が、幸せに生きるには心を満たす事が必要だ。それではその方法は何か?難しい問題だが、物質的な豊かさだけではなさそうだ。人に優しくする。人に善を施す。人から愛されていると感じる。そうすると、なぜか幸せな気分になる。このように、自分にではなく、人をどうにかすることで、人間は幸せを感じるようだ。

 

◎ 梶山先生が、真の歴史の勉強とは、年表を記憶する表面的なものではないと言った。そのことを契機に、沖縄のことを知ろうと勉強を始めたふうちゃんは、お父ちゃんや身近な人のことを知ることから、沖縄の事を知ろうとした。しかし、そのためには、人に知られたくない思いや、触れて欲しくない過去をあばく必要があった。その時、ふうちゃんは悩み、梶山先生に手紙を書いた。その手紙の中で述べられた、ふうちゃんの勇気に感動した。自分の、嫌な事から逃げる姿勢を反省させられた。この手紙の抜粋を、以下に掲載する。

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 「……。わたしは今、すごく知りたいのです。おとうさんのこと、おかあさんのこと、おじいちゃんのこと、キヨシ少年君のこと、ろくさんのおじさんのこと、ゴロちゃんのおじさんのこと、ギッチョンチョンや昭吉くんのこと。みんなは、わたしをとてもかわいがってくれます。わたしをかわいがってくれる人を、わたしがよく知らないとしたら、わたしはただ、人に甘えているだけの人間になります。……。知らなくてはならないことを、知らないで過ごしてしまうような勇気のない人間に、わたしはなりたくありません。そんなひきょうな人間になりたくありません。……。」それに対して、梶山先生の返事は、「知らなくてはならないことを、知らないで過ごしてしまうような勇気のない人間になりたくない』 − なんとすばらしいことばだろうと、ぼくは胸が熱くなりました。……。−けれど、ふうちゃん。あなたの手紙は恐い手紙でもありました。教師はなにをすべきかということを、あなたの手紙が衝いているからです。知らなくてはならないことを、知らないで過ごしていたのは、あなたでなく、このぼくです。キヨシ君に、ろくさんというおじさんに、きこうとしてきけないあなたのやさしさと苦しみを理解することのできなかったぼくは、教師失格ではなく人間失格です。そんな教師が、どうして血の通った日本の歴史をあなたに教えることができるでしょう。……。

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◎ 梶山先生の、ふうちゃんと共に悩み、歩んでいこうという姿勢がすばらしい。12歳の子供に触発され、自分の至らなさを反省できる。すばらしい感受性をもった先生である。

 

◎ キヨシ少年の行動を通して、真のやさしさとは何かを知ったふうちゃんが、梶山先生に手紙を出します。この手紙を抜粋して以下に掲載します。

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 「……。キヨシ君はおねえさんをなくしています。ろくさんのおじさんは、ミチコさんという子どもさんをなくしています。おとうさんは − おとうさんは戦争でわたしが殺されるのではないかと、毎日思いながら暮らしているわけです。わたしはほんとに、あっと思いました。先生、人間っていったいなんですか。おとうさんもろくさんのおじさんもキヨシ少年君もとてもやさしい人です。気の遠くなるほど恐いめにあってきている人が、とてもやさしいだなんて。わたしもきのう体験したばかりだから、はっきりいえますけど、あんなに恐いめにあったら、もう外のことはどうでもいい、人のことなんかどうでもいい、なんでもいいから助けてくれえといいたくなります。人をうらみたくもなります。……。先生、キヨシ君はね。一回日の手術のとき、まだ元気なときだったんだけど、わたしにどんなことをいったと思いますか。ショウヘイのこと、あんまり悪うおもたんなや、あいつらもおれといっしょで、いろいろあるやつやさかいな − そういうんです。ショウヘイというのはあのチンビラのたいしょうです。あんなにひどいめにあわされているのにキヨシ君は、チンピラをかばっているのです。先生、わたしは今まで、おとうさんやおかあさんをふくめて、わたしのまわりにいる人たちをやさしい人だとは思っていましたが、えらい人だとは思っていませんでした。えらい人というのは、えらい政治家や、すぐれた仕事をした芸術家や学者や、名の残るような実業家というような人たちを思っていました。今わたしは人間がえらいということはそんなことではないと思いはじめています。とても大きな問題なのでうまくいえませんけど、どんなにつらい時でも、どんなに絶望的なときでも、本気で人を愛することのできる人がえらい人なのだと思うのです。……。学校でよく、人の命は地球より重いとか、人一人の命はなにものにもかえがたいとかお説教をする先生がいますが、そんなことを子どもの前で口先だけで話しているような先生は、ほんとうにそのことばの意味を知らないんだと思います。人の命がほんとうに重いということを知っているのは、キヨシ君のような生き方をした人にだけにわかることなのでしょう。……。沖縄の人がすべての命を大切にするのは、これまでにたくさんのかなしい別れをしてきたからなのですね。ずっとむかしは人頭税というとてもひどい税のために、マラリアという伝染病のために、そして沖縄の戦争のために、たくさんの命が消えていったり離ればなれになったりしたのでしょ。沖縄の人にはそんなつらいかなしい思いがあるのですね。つらいかなしいめにあってきた人ほど、そうしてはならないという思いも人一倍つよいはずですね先生。そんなふうに考えると、沖縄の人がなぜやさしいのか、てだのふあ・おきなわ亭にくる人びとがなぜやさしいのか、少しわたしにわかるような気がしたのです。

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◎ 真のやさしさは、自分が大変な状況の時、たとえば病気とか、失意のどん底にいる時に、相手にやさしくできることである。やさしさは、人間的な強さの裏づけがないと出来ない。つまり、やさしさとは強さである。キヨシ少年が、けがをして手術をする前に、自分を殴った男を、あいつもいろいろあったからと、許してやって欲しいと、ふうちゃんに話すシーンがあるが、まさしくこれが、キヨシ少年の真のやさしさである。

 

◎ 今の人間が生き、幸福であるのは、それを支える先人の涙や、苦労があったからだ。それを、我々は忘れやすい。また、何かの機会がなければ考えることもしない。

 

◎ 退院したキヨシ少年が、そのお礼を込めてふうちゃんに宛てた手紙。これを本文より抜粋して掲載する。

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 「……。勇気いうたらなんやということを、ろくさんのおっちゃんにおしえてもろた。勇気いうたら警察で暴れたりさかろうたりすることやない。けんかして勝つことでもない。勇気いうたらしずかなもんや。勇気いうたらやさしいもんや。勇気いうたらきびしいもんや。……。おれは今まで自分が不幸やとおもとったけど、今はそうおもわへん。幸福いうたらおおかたは不幸をふみ台にしてあるもんやとおもたら、なんやあほくさなって笑えてきた。まえに、ギッチョンチョンが山之口貘とかいう沖縄の詩人の詩をおしえてくれたことがあったやろ。おれ、ちゃんとおぼえてるぞ。

 土の上にゆかがある。ゆかの上にはたたみがある。たたみの上にあるのが座ぷとんで、その上にあるのが楽という。楽の上にはなんにもないのであろうか?どうぞおしきなさいとすすめられて、楽にすわったさびしさよ。土の世界をはるかにみおろしているように、住みなれぬ世界がさびしいよ。

 『座ぶとん』という題やったやろ。……。ひとの不幸をふみ台にして幸福になったってしょうがないやないか。そんなもん幸福といわへん。けど、おれは今までそのことがわからへんかったんやなあ。……。人間いうたら自分ひとりのことしか考えてえへんときは不幸なもんや。そのことがこんど、ようわかった。おれ、ショウヘイになぐられているとき、ずっとかあちゃんのことを考えとったんや。かあちゃんが受けてきた苦しみを、おれは今、少しやけど味わっているんやとおもたら、おれ、ふしぎにしあわせな気分やった。……。 おれのかあちゃんはな。アメリカの兵隊に乱暴されて、そいつの赤ん坊を生んでしもたんや。おれのとうちゃんにすまんというて生んだ赤ん坊やったけど、生まれるとすぐ死んでしもうたそうやから、かあちゃんの決心はなんにもならへんかった。ふうちゃん、おれの生まれた家は、今、アメリカの基地の飛行場の下やて。とうちゃんの人生もかあちゃんの人生も基地のためにめちゃめちゃにされてしもた。アメリカの基地は日本を守るためにあるのやそうやから、おれの家の不幸をふみ台にして日本人は幸福に暮らしとるわけや。ええ気なもんや。そんな幸福はどこかまちごうとる。そうおもわへんか、ふうちゃん。

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◎ キヨシ少年が入院し、刑事が取り調べに来たとき、ロクさんはシャツを脱ぎ、なくした左手を見せた。それは日本兵に死ぬように渡された手榴弾で、なくしたものだ。その左手で、彼は自分の子供を殺した。

 

◎ 声を潜め、敵に自分達の居場所が分からないようにしているのに、自分の子供が泣き出した。自分の子供を殺すか、敵に見つかって全員殺されるかという選択を迫られる、極限状態に置かれた親の心情はどんなものだろうか?そして、普通の親なら、自分の子を泣きやませるために殺さなくてはならない。親としてこれ以上の悲劇はない。

 

◎ 沖縄の人が死んで、日本兵が残った。小説の中で語られるような日本兵ばかりではなかったと思うが、中にはそういう人もいたのだろう。また、命令に忠実に従っただけの兵隊もたくさんいただろう。命令が自分の意志や考え方と違っても、それをやらなければならないことはつらいことである。自分がそういう立場だったら、違った行動がとれたか?それは自信がない。そして、命令に従っただけという人達に罪はあるのだろうか?

 

◎ 先人の苦労のおかげで、今の自分があり幸せに暮らしている。これは、死んだ人だけでなく、回りの人がいて自分がある。こういう気持ちを忘れずに、今を生きていく。そうすれば、間違った道に行くことはない。死んだ人に見守られていることを感じ、恥ずかしくない生き方をしたい。

 

◎ 今の日本の繁栄の影に、沖縄がある。沖縄の心を知らなければ日本はだめになる。このキヨシの言葉は重い。日本と満州、日本と朝鮮、日本とアジア、豊かさの影に貧困がある。つまり、『多くの人の犠牲の上に今の豊かさがある。』そのことを認識することが大切である。

 

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◎ 灰谷健次郎氏の、『太陽の子』初版本の「あとがき」を読むと、『太陽の子』を氏がどのような考えのもとに書いたのかがわかる。以下に、そこより抜粋したものを掲載する。 「……。日本の国はますます隆盛に見えます。人々は過ぎ去った日々を忘れ、きょうの日のことのみを追って、せわしく生きています。 一つの『生』のことを考える日本人は極端に少なくなりました。今ある『生』がどれほどたくさんの『死』や『悲しみ』の果てにあるかということを教える教師も少なくなりました。それは日本人全体の堕落です。」

 「太陽の子を書く決心をしたのは、今から五年前でした。……。ひとりの人間の死を個人的なものとしてかたづけてきた人々が『生』を受けている国、それが日本です。退廃のみなもとはそこにあります。そのことに目をそらしてはならないと思いました。……。『太陽の子』を書くのでもない。兄の死を通して、『生』の根源的な意味を考えるために『太陽の子』を書くのだと、ぼくは思いました。『てだのふあ』の意味は、太陽の子です。……。あなた達は太陽の子です。あなたたちの中にあるあらゆる可能性は、人間の存在の意味を確実に問いつづけるでしょう。このことのみが唯一、日本の国を再生させる力になり得るのです。ぼくはそれを信じて、この物語りを書きました。……。」

 「私たちのこの生者中心の眼差しに真っ向から対峙しているのが、『太陽の子』 のふうちゃんとふうちゃんに連なる人々の眼差しなのである。《おきなわ亭》のお母さんは、ある夜、しみじみとふうちゃんに語っていた。「生きている人だけの世の中じゃないよ。生きている人のなかに死んだ人もいっしょに生きているから、人間はやさしい気持ちを持つことができるのよ、ふうちゃん」そして、沖縄の戦争と、その戦争で死んだ人と、その戦争を戦後もその生身で生きつづけている人々のこころを、深く知ったふうちゃんは思うのだった。「ふうちゃんは今、生きている自分を思った。自分はおとうさんとおかあさんのあいだに生まれてきた大峰芙由子というひとりの人間だと思っていたけれど、自分の生は、どれほどたくさんのひとのかなしみの果てにあるのかと思うと、気が遠くなる思いであった……。戦後ひたすらに繁栄への道を突き進んできた日本、その日本のいわゆる本土の人間たちは、果たして自らの繁栄が、どれほどの数の死者の涙によって養われてきているかを考えたことがあるだろうか。沖縄の涙を見てみぬ振りをして追求されてきた繁栄は、いわゆる本土の人々の犠牲者と、その死者を見つめる眼をも閉ざして求められた繁栄にほかならない。それが戦後日本の繁栄の内実ではなかったか」

 

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