天の瞳

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 天の瞳の中で気に入った文章です。

 

 「倫太郎ちゃんだけじゃなくて、どの子もそうだけど、このやり方がその子にとって一番良いんだと思った時は、もうその時がその子を理解する終点になってしまっていると思うのね。……」園子の言葉

 

 「……教えたるとか、こうせいとかああせいという奴にろくなのおらんという信念みたいなもんがオレにあんねん。人に指図するような人間になったらあかん。オレはセンコを反面教師にして生きてきた」……あんちゃんの言葉

 

 「台風には眼があって、その眼が大きくてきれいなほど台風のエネルギーはすごいのでしょう。子どもにはどの子にもそんな天の眼があって、生命の成長を暗示している気がするわ……。」……天の瞳の意味

 

 「夫婦は風々(フーフー)で、風みたいな感情でつながっとるんや。風が吹かへんいうて、誰がさびしいなんていうの。あほか。」芽衣と宗次郎夫婦の会話

 

 「……人は誰しも、もうどうなとされせと開き直ることもあるし、面倒なことは横へ置いて遊びほうけることもある。そやなかったら人間やっとられへん。もたへんやないか。」……宗次郎の言葉

 

 「……人はどんな境遇でも、しあわせばっかりあるわけじゃないし、不幸ばっかりあるわけでもないでしょって。仮に子どもが今、つらいところで生きていたとしても、その順番のひとつが来て、親子ともども勉強中と思って、……」……芽衣の言葉

 

 「……専門家は知識があるばっかりに、子どものそのすばらしい部分をつい見落としてしまうんじゃないのかしら。子どもと一緒にいても、こどもを教育しようと思っていると、そういう考えが先行すると、という意味だけれど、子どもといっしょにいることにならないのじゃないか。……」……園子先生

 

 「心の目は、人の心をみるのが、いちばんの仕事やな」

 「あの人は今、顔で笑っているけれど、ほんとうはつらい悲しいことがあって、泣きたいような気持ちでいるなと見破るのは心の目の仕事じゃな。怒っているようなふりをしているが、本当はうれしくて仕方がないというのを見破るのも心の目や」

 「……。少し人と話すときでも、ちょっとのやりとりでも、おまえの方は、おまえの心を全部、心の目をみんなその人に向けんとならん。少しのことなら、少しの心を向けるとよいなどとかんがえてはならん。」……おじいちゃん

 

「知識を説く職人にろくな仕事師はいないんだって。知識をぐるぐる回して、知識を知恵に変えた職人が本当の仕事師だって」……宗次郎が語る。親父の言葉。

 

 「人に好き嫌いがあるのは仕方ないが、出合ったものは、それが人でも、ものでも、かけがえのない大事なものじゃ。おまえがさっき、はじめは、ないといっておった草の実をよく見ると、ひげがあった。出会いを大切にすると、見えなかったものが見えてきた。分かるかな」

 「好き嫌いが激しいと、これは嫌い、これも嫌いとせっかくの出会いを遠ざけてしまうから、見えるものまでみえなくなってしまう」

 

 「……人間の子は、まだ歩くことがでけんその一年のあいだに、母さんのお乳から、母さんの肌や声から、愛情という力をもらっとる。そこが馬と違うところや。人間が馬と勝とうと思えば、その力を使うしかない。」……倫太郎とおじいちゃんの会話

 

 じいちゃんはノートに、4+5=9とかいて「4と5と9は、しごくや」といいました。「しごととしごくはえらいちがいや」といって、じいちゃんはノートに4+5+1=10とかきました。「4+5を10にするためにはあそびという1をたさんとあかん。あそびごころはものをたのしむこころのことや」

 

 (幼年編U)

 宗次郎と芽衣との会話

 「嫉妬心は、自信のなさと、向上心の欠落やろ?」「男でも女でも、やきもちをやくようになったら、そいつは、もう進歩は止まったとおもうたらええ。すでに守りの姿勢に入っとるわけやな。オレはオレで、いてこましたるぜ、という向上心がなかったら人間魅力がない。」

 

 宗次郎と芽衣との会話

「世間でよく男の浮気っていうけど、宗ちゃんの場合でもそうだったと思うけど、わたし、男と女のことに浮気ってないと思うわ。ある時間に限れば、男女のことは、いつも本気よ。」

 

 「恋をして荒れる女がいるでしょう。男が悪かったとか、男運が悪かったとかいう。あれも嘘ね。学ばなかっただけなのに」

 

 「夫婦って他人というけど、あれもおかしいのよね。よくない言葉かもしれないのだけど、体の隅々まで知っている関係って、他人といえる?他人なら居住まいを正すけど、他人じゃないから、そういう緊張感もない。夫婦って、恋人時代のような性的な情熱はまずないよね。人間とか人生とかを一緒に考えようとしない限り、夫婦の存在ってないと思うの」

 

 潤子(フランケンの母)と芽衣の会話

 「親の愛って、この成長と、人のつながりをしっかり考えたとき、生まれてくるものよね。溺愛は親の愛とは言わないと思うわ。親の愛に守られて、すくすく育っちゃいけないんで、親の愛に守られて、あれこれ悩んで、育って欲しいと、わたしなら思う。」

 

 「子どもに何かをしてあげる愛は分かりやすいけれど、ときには、なにかをしてあげないことも親の愛だというのを理解する人は少ないわね。」

 

 じいちゃんと倫太郎との会話

 「じいちゃんがお寺を建てたとする。それがいい仕事だと、お寺にお参りに来る人は、その普請を見て、結構なものを見せていただいて心が安らぎます。とお礼をいう。仕事が深ければ深いほど、いい仕事であればあるほど、人の心に満足と豊かさを与える。人を愛するのと同じことじゃ。ひとりの人間が愛する相手は限りがあるが、仕事を通して人を愛すると、その愛は無限に広がる。そうして生きてはじめて、人は、神さまからもろうた命を、生き切った、といえるのじゃ」

 

 「仕事をしない人間は、我欲ばかりつよくなる。こせこせとちっぽけなことに気がいって、小理屈が多くなる。他人のことをあれこれ言う。本当に大事なものが見えないから流行を追いかける。自分を見失うので執着がふくらみ、つよくなる。そんなふうに生きてしまうと、神さまからもらった命を生かし切ったことにならない。未練ばかりが残ってしまうのじゃ」

 

 少年編T

 

 「潤子さんは自分の行動を、やむにやまれぬ気持ちというか、理屈通りにいかない気持ちと照らし合わせて考えているでしょ。どうしたらいいかな……、分かる範囲で自分をとらえている人は、つまらないと思うわ。割り切ろうとしても割り切れないなにかが、ほんとうにその人を動かしていて、そして、そのなにか、をいつも考えている人は魅力のある人だと思うわ」

 

 「潤子さんは気持ちを遠くまで他人に届けることのできる人なのよ。思いやりといってしまえばそれまでだけど、他人の気持ちを自分流に解釈しないで、節度っていうのかしら、相手の気持ちに添うことで、相手を理解しようとしているのだと思う」

……潤子に対して芽衣がいった言葉

 

 「……定年で、企業から離れた男の大部分は、だらしない生き方しかできないもの。自立していなかったから、そんなふうになるんだ。一人の人間に戻ったとき、どう生きていいかわからない」

 「女は、いいも悪いも、いつか自分から出発して、ものごとを考えるでしょう」「それがたとえ、小さな場所だったとしても、いつも自分という一人の人間からものごとを考えてきた強みというものが、女性にはあって、それが、いざというときに役立って、男なんかより、はるかに強く生きられる部分があると思うわ」

 ……芽衣に対して潤子が言った言葉

 

「わたしは、自分でダメな親だと思うけど、手をかけた子は役に立たないという言葉は、わたしにとっては、励ましだわ。それを自分に都合よく受け取ってはいけないけど、手をかけることと、手をかけないことの両方を考えるという意味で大切だと思う」……芽衣に潤子が言った言葉

 

 「お小遣いの一部を、気の毒な人に差し出すというのは、誰でもできる簡単な方に入るかも知れないけど、人間としての欲望を一切捨てて人のために尽くせ、といわれたら、宗教心のある人は別として、わたしたち凡人には、とてもできることじゃないわ」「つまり簡単にできるkとじゃなくて、しょせんできないことなのよ」「しょせんできないことをしようとすると、自分をごまかすか、自分と、とことん向き合うか、そのどちらかしかないと、わたしは思うの」

 

 「おのれの欲も満たし、その上、人の役にも立つなんてことあると思う?」

 「わたしは、それはないと思う。いや、ないと思わなければいけないとのよ」

 「両方あると思うから、偽善に陥りやすいのだわ」

 「…… 直接、人の役に立つ仕事というのもわりとおおいでしょう。公務員とか学校の先生、お医者さんや看護婦さん、あげてきりがないほどだし、それに、どんな仕事も、社会や人々のためになっているともいえるわけよね。だから働いている人の誰にも、この問題は降りかかってくると思う」

 

 「わたしは思うのね。自分はなになのか。自分は他人に対して、どうなのか、と考えることで、人は少しづつ、欲や利己心を削ぎ落としていって、やがて他人の喜びを、自分の喜びにする境地にたどりつく。今は、みな、その道を歩いている途中だと思いたいの」

……芽衣に潤子が言った言葉

 

「今の社会、みな、勝手気ままに生きているように見えても、それは、お釈迦様の掌の上で孫悟空が暴れているようなものなのよ。自分の意志で道を切り開いていく自立心なんかじゃなくて、既成社会の枠内の行動を、自由だとか、自分の力だとか思い込んでいるだけだと思うわ。今ある社会をそのままにしておいて、自由なんてあるわけないじゃない。過激かしら、わたしって」 ……芽衣に潤子が言った言葉

 

成長編T

 

 「自由によって与えられたエネルギーを、こんどは何かに向けて集中させるというのが、教育のいちばん大事なところだ」

 「その何かは、なんでもいい。その何かを勉学というと教師に都合のよい話になってしまうが、もちろん勉学でもいいし、スポーツでも、読書でも、音楽でも、その対象はなんでもいいんだ。熱中する。夢中になる、集中するということは素晴らしいことだろう。

 子ども、生徒に自由を与えても、与え放しではダメで、教師は生徒をその次元まで導かなくてはならない責務を負わされているとおもう」

 

 「私たち倫叡保育園は、世間からは一応、自由保育をやっているところだというふうに見られているのね。だけど、この自由保育というのが曲者なの。ある園の園だよりを読んでいると、私たちの園では、保母が子どもたちにあれこれ指図したり、子どもの行動を規制するようなことはしません。

 これを自由保育といいますが、このような自由を子どもに与えると、子どもは伸び伸びとたくましく育つようになります。と書いてあるのね。あきれてしまった。

 ふつうだったら、そこからが教育なのだから、そこから園と保母たちのやっていること、これから、やろうとしていることを、園だよりに書いて、親の協力というか、共に歩みましょうと語りかけるべきだと思うのに。」……園子先生。

 

 「ある保母が、私たちの仕事のしぶりは生ぬるいと自分でも思う、でも怠けようと思ってそうしているわけじゃない、気持ちは一生懸命なんだ、」と、そういったのね。その時しのぶ先生は、こんなふうに言われた。「この園の人たちは誰も、一生懸命に違いない。その気持ちは大事だけど、それだけじゃダメなじゃないか、と……」「子どもに添う仕事にたずさわる者は、努力しているとか、一生懸命やっているなんて、ことを口に出したら、もうそれだけで自分を甘やかしていることになるんだって言ったのよね」

 

 「子どもという者を前にすると、努力しても努力しても、いたらない自分が見えてくる。そういう気持ちを持つ人が、あたり前の人だと、わたしは思うのね。」

 「子どもにすまないと思う気持ちですね。」

 「……自分のいたらなさを、子どもにすまないと思う先生方が、今は少なくなっているのでしょうね」

 

成長編U

 

 庵心籐子 フィリピンのボランティアについて話していること。

 考え方がしっかりしとって、勉強させてもらうことが多いのやけど、中途半端なやつはさっぱりや。金や物をだすことがボランティアの仕事やと思うとる。そのくせ自分の都合得、今までやっていたことを、ころっと変えよるもんやさかい、変えられて当事者はたまったもんやない。自ら生きることを忘れて、夢ばっかり追いかけるどうしようもない人間にさせられてしもとるというわけよ。かわいそうな子をすくうなんていうといて、おまえがかわいそうな子を作っとるんやないか。困っているもんを助けるのは大事なことやけど、困ってるもんを、どうして助けるかというのは、ものすごくむつかしいことや。

 

 やっていることが正しければ正しいほど、その関わり方がむつかしいのに、つまり、そこでしっかり苦しんで考えなあかんのに、自分のやっていることに有頂天になってるバカがいるやろ。自分の生活や仕事をほったらかしてただ夢中になっている連中を見ると、おまえの楽しみのためにこのことがあるのとちゃうわい、と、つい、いいたくもなる。

 

 庵心籐子 アジアの子どもを語る。

 せこいガキがじつは親思いで、将来、社長になりたいというから、どうしてそんなもんになりたいのやとたずねると、親にもっと金をやりたいのやという。

 お金だけでは人間、しあわせにならへんと、少し逆ろうてみると、はな、なにが、人をしあわせにする?と本気できいてきよる。十やそこいらの歳の子がやで。

 幸せが、人を幸せにするのや。おまえが幸せになったら、それが、おまえの父ちゃん母ちゃんにとって、いちばんの幸せや、というてやると、ふーんと真剣に考えとるんや。

 

 ゴミを拾って生計を立てている少女が、学校だけはきちんと休まないで通う。医者になるのやという。

 わたしは、この少女の気持ちがよく分かる。ゴミ処理場で生まれる赤ん坊の中には、わずかばかりの金がないために、薬も買えずにあっけなく死んでいく子が少なからずいる。少女はそのきびしい現実をずっと見て育ってきたのや。医者になる。それが彼女の決意や。人間になる決意や。

 

 庵心籐子がみつるに言う言葉。

 本だけ読んでいても、人間はかしこくなるわけのもんでもない。そうかというて考えることもせんで、人と交わっていても、深いものも、人を思いやる心も生まれてくるわけがない。あんたたちは本を読むことで、あれこれ考える力を身につけて、そしていろいろな人と交わって、その人から教わったことや見つけたことを、さらに、考えてみるという、そういう学校をいくつも持っていたということや。 

 

 今日読んだ中で、特に気に入った所を書きます。アヤという不登校の生徒(中学一年で、中学には1ヶ月しか行っていない)が、こういうことを言っています。(孝子)

 

「勉強ができないと、落ちこぼれというレッテルをはって、意図的ではないにしろ、勉強ができないと生きていけないような気持ちに、知らず知らずのうちにさせてしまうようなところが、学校にはあると思わない?」

 

「中学校は数学や英語だけを教えてくれればいいと、私は思わないよ。私たちよりも長く生きている先生に教えてほしいことは、人間として大切なことは何かっていうこと。私たちはまだ若いから、これから何度も壁にぶつかって、ときには粉々に砕けてしまうかもしれないけど、そういう時に、ゼロに戻っても、また壁に向かって生きていけるような力をつけてほしい。そんなことを教えてほしいの」

 

※ これは、教師だけでなく親にも当てはまる言葉です。子ども達は、一人前の理屈を言い、大人のように何もかも分かったような行動をとりますが、挫折した時の立ち直り方を知りません。これこそ、長く生きて来た我々が彼らに教えるべきことです。長く生きるとは、壁にぶつから粉々に砕けた自分をどうたちなおしたかの歴史といっても良いからです。

 

 「学校は、先生は、成績の良い子を基準にするのではなく、そうでない子を基準にするべきです。授業についていけない。授業が分からないというのは、どんなに苦痛なことか先生方は考えてみたことがありますか。落ちこぼれだった人が先生になったとは思われませんから、先生には、落ちこぼれた子の苦しみが分からないのです。分からないことが分かったときのうれしさ、よろこびは誰も経験していることでしょう。先生はそれを思い起こしてください。」

  

 

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