兎の眼

あらすじ 詳しい筋 私の感じたこと 読書の目次へ 

 

兎の眼
灰谷健次郎著 角川文庫
934年、兵庫県神戸市に生まれる。大阪学芸大学卒、17年間の教師生活の後、沖縄・アジアを放浪。その後作家活動に専念し、1974年に「兎の眼」を発表、多くの読者の共感を得る。1979年、路傍の石文学賞受賞。「太陽の子」「天の瞳」等著書多数。

 

あらすじ

 
  小谷先生は、新任で初めて受け持った学級には、自閉症児の鉄三がいた。鉄三は問題児でその行動には理解できないことが多く、時には暴力的で、小谷先生を徹底的にてこづらせた。そのため、ノイローゼになった小谷先生は、学校を辞めようと真剣に考えた。

 鉄三には両親がなく、小学校の近くにある塵芥処理場に勤める、祖父のバクじいさんと二人で暮らしていた。友達もなく、はえが唯一の友達であった。そのため、はえを愛し、はえに関する知識は『はえ博士』と言われる程、すごいものがあった。鉄三は授業中は一切勉強をしなかったので、小谷先生は、はえのことをきっかけに、鉄三を変えようとした。そこで、毎日学校が終わると、鉄三の家に行き、はえのことを教材に漢字を教えたり、絵を描かせた。この努力が実り、鉄三は少しずつ変わっていった。

 小谷学級に伊藤みな子が入ってきた。彼女は養護学校に行く精白児であるが、わけがあって、1ヶ月だけ小谷先生が預かることになった。彼女はじっとしていることができず、授業中でも勝手に外に出ていってしまうし、オシッコもほとんど漏らしてしまった。クラスでは『みな子当番』を作り、子供達が彼女を世話して、小谷先生を助けた。クラスの保護者からは、授業どころではないと強烈な批判をされたが、小谷先生は負けなかった。そして、クラスはみな子によっていい方向に変わっていった。

 そんなとき、塵芥処理場の移転が急に決まった。移転そのものは、全ての人の利益につながり問題はなかったが、塵芥処理場に住む子供達の、転居先から学校までの通学路が、危険である所に大きな問題があった。この子供達を守るため、小谷先生達は立ち上がり、ビラ配りなどをしながら、地域の人々を啓蒙するために奮闘するのだった。

 

 

詳しい筋


 ◎ 小谷芙美(ふみ)先生、新任で初めて受け持った学級には、自閉症の鉄三がいた。鉄三は学校のすぐ裏の塵芥処理場に住んでいた。友達がいなかったので、はえを飼って気を紛らせていた。鉄三は問題児でその行動は理解できないことが多かった。教室の中で、蛙を足でつぶしたり、アリの観察用のビンを持ち上げた小谷先生や文治を、突然襲ってけがをさせたりした。この手痛い洗礼に、小谷先生はノイローゼとなり、学校を辞めたいと思った。もともと、小谷先生はごく平凡な医者の一人娘で、両親から大切に育てられてきた。

◎ 小谷先生はバクじいさん(鉄三の祖父)から、鉄三が暴れた理由を聞かされた。文治は、鉄三が可愛がっていたはえが入っていたビンを、黙って処理場から持ってきて、そのビンを、アリの観察用に使っていたのだった。

◎ この小学校は、H工業地帯の中にあり、すぐ隣に塵芥処理場があった。古いゴミ処理場は、付近に白い灰をまき散らし、有形無形の被害を与えていた。そのため、他の場所に移転する計画が常にあがっていたが、しばらくすると立ち消えになり、なかなか実行されなかった。この処理場から少し離れた所に、処理場で働く人たちの住まいがあった。そこには、処理場に臨時で雇われている人たち、つまり現場でゴミを分別したり、燃やしたりしている作業員の家族が住んでいた。

◎ その学校には変な先生がいた。足立先生である。彼は、髪を長く伸ばし、服装はだらしなく、私生活も乱れていたが、なぜか他の職員から一目おかれていた。それから、父兄の評判も良かった。彼に言わせると「鉄三」はタカラモノが一杯詰まっているそうだ。

◎ 夏休み、小谷先生はつらい4ヶ月を忘れるかのように、遊び惚けていた。夫とけんかするぐらい……。しかし、何か物足りないものがあった。

◎ 足立先生のクラスの春川きみが、近所の子供に勉強を教えて、20円貰っているという話があり、小谷先生は足立先生と一緒に、きみの家に行った。きみには父親しかおらず、その父親も家に500円だけおいて、帰ってこない日もあるそうだ。足立先生の言葉に、きみは、素直にお金を貰うことをやめると言った。しかし、それは、悪いと改心したわけではなかった。大好きな先生から、やめとけといわれて、やめとこと思っただけだった。小谷先生は、足立先生をすごいと思った。

◎ 鉄三がなぜ、はえをかわいがるのか、その理由を聞くために、バクじいさんを訪ねた。鉄三には両親がなく、どこにもつれて行ってもらえなかった。友達もなく、はえが唯一の話し相手である。じいさんも最初は衛生的でないと、きつく叱ったが、何度叱っても彼はやめなかった。

◎ 三年生の瀬沼浩二(処理場の子)に給食当番をやらせるべきかどうかで、職員会議がもたれた。彼は、食事の前の手洗いをしないし、消毒液をつけることをしなかった。お風呂が嫌いで、あかだらけだったので、親に注意をしたが少しも変わらなかった。クラスの中で、この子に給食当番をさせるくらいなら、給食を食べないという子供が出てきた。職員の意見は、当番をさせるべきでないという意見と、平等にさせるべきだとの意見に別れた。

◎ そのうち、はえを飼っている鉄三に話題が移った。小谷先生は、彼には、手を洗わせて当番をさせている、はえは非衛生的であると今後も指導していきたいと答えた。会議後、はえを飼うのを何とかやめさせようと、鉄三を訪ね、はえはばい菌を運ぶ悪い虫だから、殺さなければだめだと言ったところ、鉄三に思いっきり突き飛ばされた。

◎ 小谷先生は、家に帰ると夫に愚痴を言うことが多くなった。夫は、小谷先生の話を聞いて、「いいかげんにしとくことやな」「だれが大事なんかよく考えろ。家の生活もきちんとできない者に、人の子の教育ができてたまるか」「おまえが一人で暮らしているんなら、どうしようと勝手だ。僕だって会社で嫌なこともあればつらいこともある。それをいちいちもちこんでいたらどうなるんだ。なんのために共同生活をしているのか、よく考えろ」と言った。小谷先生は、『いいかげんにできないから苦しんでるじゃないの』と、心の中でつぶやいた。

◎ 小谷先生は、図書館に行きはえに関する本を借り、はえの勉強をした。はえは、親に産み落とされた後、家族も仲間もなく生涯一人で暮らす。そのごくつつましい生活とあいまって、まるで、鉄三のようだった。小谷先生は、はえの勉強をしたいから、弟子にしてくれと鉄三に言った時、初めて鉄三が話してくれた。本当にうれしかった。

◎ 日曜日、夫が日曜出勤だったので一人で、大好きな奈良の西大寺に行った。西大寺の土塀は白壁の落ちている所もあるが、ちょうど柿の色に似ていて、気に入っていた。西大寺は、夏でもひんやりとして気持ちよく、本堂の左手に善財童子(ぜんざいどうじ)という彫像がある。今まで何回となく訪れたが、相変わらず美しい眼をしていた。それは、人の眼というよりも兎の眼だった。それは祈りを込めたように、静かな光をたたえて美しかった。今日は来て良かったと思った。善財童子を見ながら、高校時代の恩師の言葉が急に思い出された。「人間は抵抗、つまりレジスタンスが大切ですよ。みなさん、人間が美しくあるために抵抗の精神を忘れてはなりません。」ふと、鉄三や処理場の子供、足立先生を思いだした。

◎ この頃小谷先生はすぐには家に帰らない。必ず、子供の家を2、3軒回って、そして、鉄三の家に寄って帰るようにした。家に帰るのが遅くなるので夫の機嫌が悪い。なぜそこまで頑張る必要があるのかとの夫の問いに、『必要があるからやっているのではなく、おもしろからやっている』と答えると、夫はおかしな顔をした。

◎ 鉄三の家に寄るのは、はえを教材にして、鉄三に文字や絵を描くなどの個別学習をさせているためである。鉄三は教室では、教科書も開かず、ノートも取らなかったし、話しもほとんどしなかった。それを何とか興味を持たせるための学習であった。努力が報われ、鉄三が、はえをきっかけに字を覚えだし、はえの絵を精密に描きだした。その絵を見て、小谷先生は、鉄三の中に、タカラモノが隠れていることを確信した。

◎ 鉄三のおじいさんは、臼井漠という変わった名前のため、バクじいさんと呼ばれていた。そのバクじいさんから夕食を、鉄三のために、一緒に食べてくれないかと頼まれる。彼は、長い間船に乗っていたので、料理はお手の物で、すばらしい料理が食卓に並んだ。そして彼は、若い頃の話を始めた。彼の親友は金龍生という朝鮮人だった。その頃朝鮮は日本の植民地であり、反日運動には非常に敏感であった。そのため、金は、自国の歴史を勉強していただけだったのに、牢屋に入れられ、バクじいさんも、金の友達ということで捕らえられた。過酷な拷問が続けられたが、金と一緒に勉強していた者の名前は、バクじいさんも金も言わなかった。しかし、金の母親から金の命を救うために、口を割ってくれと頼まれた。金の命のためと白状したが、金は死んで家に帰ってきた。

◎ 親友を亡くして、学問をやる気がなくなったので、朝鮮に渡り朝鮮人のためになる仕事をしようと決意する。しかし、皮肉なことにその仕事は、字の読めない朝鮮人をだまして、土地を取り上げるものであった。それでも、朝鮮人のためにと頑張ってきたが、自分の思いとは逆の結果になり、ショックを受ける。仕事を辞めようとも思ったが、少しでも自分の力で被害が少なくなるようにと、気を取り直して勤めていた。が、その関係で朝鮮独立運動に関係のある人物と知りあったことから憲兵隊に捕まり、執拗な拷問をうけた。やがて、我慢できずに口を割るが、そのことで事件に関係した14、5人はすべて惨殺された。その後、おきまりの酒と女におぼれ、流れ者の船乗りになった。

◎ それでも、時が心を癒し、神様の思し召しで改心した。小豆島で結婚し、女の子が産まれた。その子が結婚し、産んだ子が鉄三である。その当時、神戸に石を運ぶ仕事をしていた。ある日、子供を隣に預け、一家4人で船に乗り、仕事をしていたがしけにあい、遭難して自分だけ助かった。このような人生は、自分の責任であり、自業自得である。しかし、金の母から許して上げるから、息子の分まで生きてほしいと言われ、その言葉を胸に秘め、歯を食いしばって生きていると言った。

◎ 小谷学級に、10月になって伊藤みな子が入ってきた。彼女は、じっとしていることができず、うれしいにつけ悲しいにつけ、常に走り回っていた。また、言葉はほとんどしゃべらなかったが、「オシッコジャー」だけわかった。が、その時はすでに遅く、トイレに行く前にお漏らしをしてしまった。しかし、小谷先生は怒らなかった。

 それは、おおげさに言えば、小谷先生は自分の人生を変えるつもりで、みな子を預かった。だから、少々のことでは音を上げることができなかった。

◎ 給食は、箸やスプーンが使えないので、手づかみで食べたり、自分と人の区別が付かないから、隣の子供のものを平気で食べる。それから、授業中は平気で外へ出ていく、それを、追いかける小谷先生は大変だった。

◎ クラスの父兄が、みな子の苦情の件で校長室に集まった。みな子は11月には養護学級に入るが、それまでの1ヶ月間を小谷先生が、自分の趣味で、無理に頼んで預かったように言われる。小谷先生は、「みな子をひきとったのは、それによってクラスが良くなると考えてやった」と答えた。しかし、父兄からは「みな子がクラスに来たことで授業どころではない、他のこどもたちの迷惑を考えてほしい」さらに、先生はえこひいきしている、自分達の家庭訪問の時には、お茶も飲まないのに、ある所では食事までしたと……。

◎ クラスの生徒は、みな子について話し合いをして、二人一組で『みな子当番』をつくった。それは、みな子が教室を出ていくと、当番がそれについて行き、みな子の世話をするのだった。おしっこも先生に頼らず、自分達で世話をした。みな子当番の一日目は大変だったので、それを無事終えた時、みんなから拍手があがった。

◎ 鉄三が当番の時、みんなと違うやり方で、うまくみな子の世話をしていたが、最後にトラブルが起こった。授業で簡易サッカーをやっていた場所にみな子が入り、それを怒った山内先生に、鉄三が飛びかかったのだった。これがもとで、太田先生が山内先生と口論になってしまった。みな子を守ろうとした、鉄三の優しい気持ちがうれしくて、いとしくて小谷先生は泣いた。

◎ 太田先生は、酒を飲みながら、今まで我慢してきた山内先生のことを愚痴る。山内先生から、学級文集をつくると嫌みを言われ、文集を作りたくても作れない先生のことを、考えてやれと言われた。また、家庭訪問をすれば人気とりをするなと言われていた。

◎ みな子の問題について職員会議が開かれた。議論は、養護施設のように、専門の設備と職員のいる所で、障害教育はやるべきだという意見と、普通の子と同じクラスに入れ、一緒に生活する中で、お互いが刺激しあい、学習する方がいいという意見に別れた。しかし、議論の結果、後者の意見が認められ、みな子は小谷学級で継続して預かることになった。

◎ みな子がきてから、この学級は何となく活気がでてきた。しかし、残酷にも別れの時がきた。両親は小谷先生に心からのお礼を言った。クラスのみんなが泣いていた。

◎ 鉄三のはえの研究は本格的に進んでいた。もちろん小谷先生の指導のたまものであったが、鉄三の興味と努力の成果でもあった。はえの産卵の研究や、はえの好む食べ物の研究などは、実験を繰り返し、はっきり形に見える成果があがってきた。そんな折、学校に精肉会社から、清潔に細心の注意をしているハム工場に、なぜかはえがたかって困っている。何とかならないかとの相談があった。小谷先生は、鉄三を連れてハム工場に出かけたが、彼は、すぐその原因を見つけてしまった。喜んだ精肉会社から学校にハムが送られ、その日の特別メニューとして、給食で配られた。そして、その間の事情が、校内放送で流されて、鉄三はすっかり有名になった。

◎ 鉄三の飼っている犬のキチが、保健所の野犬狩りの車に捕まった。それをなんとか助けようと、処理場の子供達が協力をして奮闘するが、そのために檻を壊してしまった。その修理代に6万円かかるという。そのお金を捻出するために、廃品回収をすることになり、小谷先生は、足立先生達や処理場の子供達と協力して、懸命に家々を回った。中には、「若いのにくだらない仕事をしている、他にやることはないのか」と嫌みをいわれたこともある。くずを集めるだけだが、恥ずかしく、なさけなく感じた。仕事とはどんな仕事でもたいへんなものだ。くず屋を馬鹿にする者には、くず屋をやらせればいい。そうすればくず屋の大変さがわかる。そんなふうに小谷先生は思った。

◎ そんな矢先、激しい住民運動が実り、処理場の移転が急に決まった。処理場の移転に問題はなかったが、子供達に問題があった。それは、新しい処理場からこの学校に来るのに、片道50分はかかるからだ。そのため転校することになるが、転校先へは20分の道のりだが、ダンプカー銀座といわれる道がいくつもあり、安全に問題があった。処理場に住んでいる人の住居を、移転した跡地に造ればいいが、県の考え方は移転した処理場の近くの場所に、プレハブで立てる予定があり、それが最も経済的であった。

◎ 処理場の子供達が全員学校を休んだので、事情を足立先生が聞きに行った。それによると、処理場の移転の説明があった時、役所の対応が悪く、処理場の住人が怒ってしまった。自分達がストライキをすると住民に迷惑がかかるので、その代わり子供達にストライキをさせたのだった。特に、処理場の住人が腹を立てたのは、子供達の転校先の学校への通学について、「きょうび犬でも車をよける」と役所の若造が言った言葉だった。

◎ ストライキが始まって3日後、新聞に、はえ博士の鉄三が、ハム工場の危機を救ったことと、処理場の移転に反対して、登校拒否をしている子供達のことが載った。この2つの記事が同じ小学校であることを気づいた人は少なかった。新聞に載った直後、役所から課長が来て、処理場の人に説明をした。その時、前回の失言をわびたが、それは心からのものでなく、処理場の住人を納得させるものではなかった。

◎ 事件はだんだん大きくなって行った。教育委員会から調査団がきたり、教員組合も介入した。PTA総会も頻繁に開かれ、学校でも職員会議が開かれた。職員の大勢は、処理場の子供達に同情を示しながら、同盟休校は行き過ぎだというものであった。それは、PTAも同様だった。

◎ 小谷先生は、自分は何もしないで、口先だけで正しいとか正しくないとか言っている先生や親たちに絶望した。

◎ 小谷先生は、足立先生に相談し、駅前でビラを配ることにした。処理場の子供達も協力してくれた。そのビラの中には、処理場の移転は賛成であるが、跡地に住宅を建設し処理場の人を優先的に入れてほしいと書いてあった。

◎ 同盟休校が始まってちょうど一週間経ったとき、PTA総会が開かれた。学校のPTAとして、処理場の移転について、どういう態度をとるか決めるためだった。会議の冒頭に移転には、いろいろ問題が起こっているので、少し先に延びるかもしれないという話がでた。これに対して、移転は生活権を脅かすもので、早急に撤去してほしいという意見が大勢をしめた。しかし、移転後の子供達の通学の問題については、なかなか進展がなかった。

◎ その時、小谷学級の淳一の母が立って、線の細い自分の子供が、クラスに入ったみな子によって成長したことを話す。そして、一部の子供のために、みんなが迷惑をこうむるという考え方は、間違いである。弱いもの、力のないものを疎外したら、疎外したものが人間としてだめになる。処理場の子供の問題は、私たちの問題として、戦っていかなければならないと発言した。しかし、採決の結果、移転を強く要求するとの決議文は採択されたが、処理場の現業員の戦いを、全面的に支援するとの決議文は、約3対1の割合で否決された。

◎ その夜、小谷先生の家では、両方の両親が集まって、もう一つの会議が開かれていた。それは、二人の夫婦仲の悪さを、何とかしようという話し合いだった。彼女は、夫とは生き方が違うと思っていた。夫は接待の関係で、夜が遅い。『接待は楽じゃない、世の中厳しいと言いながら、結構楽しんでいるじゃない』と言えば、夫は怒って、お前はきつい、俺はそんな女は嫌いだと言う。『生き方の違う人間が、ひとつ屋根に住むこと、そのことの大変さを考え抜いて、私は生きるだけ』と、小谷先生は密かに心の中でつぶやいた。

◎ 役所は、移転先への転居を承知すれば、職員に正式に採用して、班長にしてやると、切り崩しにかかってきた。瀬沼浩二の父が、それを受け処理場から引っ越しをしていった。浩二は、目に一杯涙を溜めて、無理矢理連れていかれた。その翌日から足立先生がハンストを始めた。

◎ 足立先生のハンストは、いろいろな方面に反響を与えた。子供が登校を拒否することは前例がないわけではないが、それを応援するために、先生がハンストするのは例がなかった。そこへ、足立先生を励ましに小谷先生が来て、「処理所の子供達を支援する親の会」の名で、署名が予想以上に増え、過半数を超えれば、決議文をひっくり返すことができると報告した。

◎ 浩二は引っ越した先の学校ではなく、長い時間掛けて今までの学校に通っていた。それは、浩二の意地であった。その浩二を新しい家に送るために、処理場の子供の全員が付いて行った。その姿を見た両親は、役所の申し出を断り、再度元の処理場へ戻ってきた。

◎ 署名が過半数を超えた。これは校区の半分以上の家庭が、処理場の子供達の味方になったことだった。


 

 

私の感じたこと


◎ 兎の眼を読んで、『どこまで教師は、自分の生活を犠牲にすべきか』を考えてみた。もっとも、子供が好きで、子供のために全力投球をしている教師は、そんなことは考えない。やらない人間ほど議論好きで、いろいろと理屈や、自分勝手な論法を述べるが、それはやらない人間の特質である。やる人間は、議論をしないで行動に移す。小説の中でも、ただ口ばかりで、何もしない教師の話が出てくるが、それと同じように、こういうことを考える教師(私もそうである)は、すでに結論を出している。それは、ここまでの犠牲はすべきでないと……。このことは、私が真の教育者ではない証拠かもしれない。

◎ 生徒(子供)を良くするためであれば、自分の時間など忘れて、何としてでもやってやる。それは、生徒(子供)が好きで仕方がないからだ。きっと、良い教師の第一条件は、子供が好きなことであろう。自分の影響で子供が良い方向に変わっていくのは、教育の醍醐味であり、教師になって良かったと感じる時である。(私も、時々喜びを感じることもあるが、残念ながらそれ以上に、教育の大変さを痛感している。)

◎ 新任で新婚の小谷先生は、教育に全身全霊を打ち込み、子供を変え、自分も教育者として成長していくけど、自分の時間を取られ、夫との生活を犠牲にしていく。教育者という視点から見ると、彼女が正しく、夫はわがままで自分勝手な男と写る。しかし、逆に夫の視点からみれば、彼女こそ家庭をないがしろにする悪い妻ということになる。

◎ この小説を読んだ人が、小谷先生みたいな先生が、ほんとうの先生で、あそこまでやらない先生はだめな先生、手を抜いている先生だというイメージを持つことを心配する。私は、小谷先生は例外だと思うが、それでも、形は違っても教育に情熱を持って、日々取り組んでいる先生方が大半である。

◎ 足立先生は、組織人間としてはだめだが、子供や父兄に人気があり、教師としての魅力は十分にある。しかし、小説の世界ではヒーローでいいのだが、現実の教育現場では、許されるのか?今の教育現場、子供のことばかりしていればいいわけではない。それ以外の仕事、裏方の仕事が相当ある。そして、それも子供の教育にとって大切な仕事である。この仕事を嫌がる人もいるが、誰かがやらなければならない。現実の現場で足立先生みたいな先生が一人でもいると、全体の士気に影響し、他の人に迷惑がかかる。

◎ 専門知識を持った教師が、それぞれの専門を活かし組織的に動くことが、学校教育だと思う。だから、教師は良き組織人であるべきだ。(子供に集団での在り方を教えることも含めて)学校という組織の中で、教師の間で不協和音があると、それに神経を使い、よけいなストレスになる。それが結果的には、子供の教育に悪い影響を与える。

◎ この夫婦、近い内に離婚をすると思う。彼女に言わせると『価値観が違う男とは、一緒にいられない』ことになるが、それではなぜ、結婚する前にそのことが分からなかったのか?きっと、恋愛期間もあり、冷静に判断する時間はあったはずである。いくら、子供に学び成長したからと言っても、その素質のない者が、急に立派な教師になれるわけがない。この夫は、普通の男であり、それ以上でもそれ以下でもない。彼女が専業主婦か、普通の教師(家庭と仕事のバランスがとれる)であれば、夫婦関係はうまくいっていたと思う。

◎ この夫婦、新婚間近で、子供がいないのが幸いであった。子供がいれば、離婚による最大の犠牲者は、子供である。教師である前に、人間であり、妻であり、母であるべきである。家庭を壊して、身近な人を不幸にして、何の教育者か?

◎ 最近、夫の働き過ぎが原因で、家庭崩壊へとつながっていく話をよく聞く。夫の家庭での役割(小さなことのようだが、一緒に食事をするなどの家族団らん)が重要視されている。従来の、仕事人間は仕事をセイブしてでも、良き家庭人となり、家庭の平和を守らなければならない。そして、仕事だけの人生のつまらなさ、味気なさを感じ、自分の幸福の源は、家族であるとの認識が大切である。今は仕事のみで、家庭を顧みない人が賞賛される時代ではない。そういう意味で、良き教育者の条件に良き家庭人も入るはずだ。家庭も守れない人間に、教育ができるわけがない。そして、教育に集中するためにも、家庭がしっかりし、心の安定が必要だ。家に心配事があれば良い教育はできない。

◎ 今の自分は小谷先生のように、教育(仕事)に没頭できない。ただ、自分の与えられた役割だけは全力投球をしたいし、そこで手を抜くことはいやだ。それぞれの人が、その人の立場で、その人なりに精一杯頑張っていけば、それなりにいい教育はできるものだ。教師が仕事以外に自分の時間を持ち、それを有効に使い、自己を刺激し、成長していく。このことが、子供の教育のためになる。教師に時間的余裕を与えてほしい。

◎ 新任の時の新鮮さ、それを、定年まで持続させることが必要。自分も新任からしばらくの間は夢中になって教育に取り組んだ時がある。教育三昧、仕事にどっぷり浸かっていた。そして、精神的にも肉体的にもおかしくなった時期がある。それを何とか克服できたのは、バランス感覚を身につけたからだ。これは、悪い言葉で言うと、要領よくなったことだが……。

◎ 小谷先生と夫の関係を見ていて感じたことがある。今は、男女共生の時代であり、妻がフルタイムで働くということは、めずらしいことではない。また、妻の仕事が社会的に重要な仕事である場合もある。社会に参加することで、女性は魅力的になる。その時大切なことは、女だから家事をしなければならないのではなく、男と女の特性を活かした、協力とか分担を考えるべきだ。

◎ そして、何よりも相手の気持ちを思いやる事である。小谷先生であれば、夫に対して、クラスの子供達と同じ神経を使うべきだった。夫であれは、小谷先生に、女は家にいるべきだという古い考え方を、押しつけるのではなく、相手の気持ちになった、やさしい心遣いが必要だった。夫婦が仲良く暮らすためには、譲り合いの精神がいる。他人以上に、細やかな神経と会話が必要である。

◎ お互いの仕事を理解するための、会話と努力が必要である。特に男は身勝手で、自分が働いて喰わせてやるから、いやならいつでも専業主婦になれという、おごった気持ちは捨てるべきだ。二人が結婚する時、妻が教師として働くことに同意したのだから、協力していく姿勢が必要だった。仕事の愚痴を言う、帰りが遅い、食事に手を抜く、そういうわがままは抑えるべきだった。最初から、普通の夫婦生活より大変であるという覚悟がほしかった。

◎ 学校教育に、ある程度の管理は必要であると思う。たとえば、テストをなくす。これは格好良く、マスコミ受けするが、果たして子供達はそれで、勉強するだろうか?勉強とは本来楽しいものであり、自分から進んでやるべきものだ。強制されるものではない。子供は知的興味を持ち、本来学ぶことが好きだという性善説を信じるとしても、大半の子供達は、テストがあり、落第があるから勉強をする。大事なことは勉強することである。特に、基礎的な学力は、ある程度強制してでも身に付けさせるべきだ。

◎ 養護学校へ行くまでの間、伊藤みな子を小谷学級で預かる話しがあった。障害のある子供を専門の養護学校に入れるべきか、普通の学校で預かるべきかの職員会議の議論は、どちらも一理ある。そして、普通の学校に入れる場合で大切なことは、指導者がしっかりしているかどうかである。この小説では、小谷先生の情熱と信念が勝った。自分を変えるぐらいの覚悟がクラスを変えた。


 

 

上に戻る