ホテル ニューハンプシャー

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ホテル ニューハンプシャー  
   《1984 米》  THE HOTEL NEW HAMPSHIRE

平成12年7月13日ビデオ

監督:トニー・リチャードソン    原作:ジョン・アーヴィング

 

 

あらすじ

 原作は、ジョン・アービングの長編小説『ホテル ニューハンプシャー』である。彼は、レイプされた女性が立ち直る姿を描くためにこの物語を書いたそうである。

 父の夢であるホテル経営を家族全員で切り盛りする中で、次から次へと想像を超える不幸、事故、出来事が起こり、それでも明るく、前向きに生きる家族の物語である。ベリー一家は、夢想家でホテル経営に情熱を燃やす父、やさしい母、長女のフラニー(ジョディ・フォスター)長男はゲイのフランク、次男は姉に恋する主人公ジョン(ロブ・ロウ)。次女は小人症のリリー、三男は難聴のエッグ、心臓病の祖父のアイオワである。この個性的な家族に、熊使いのフロイト、熊のぬいぐるみを着たスージー、テロリストの革命的ポルノ作家や、ミス流産などが絡み、物語が展開する。

 あるホテルで、ボーイとメイドをしていた父と母はそこで出会い、恋に落ち結婚した。戦争によってホテルがつぶれたので、父はしばらく学校の教師をしていたが、5人の子供にも恵まれた幸せな家庭生活を送っていた。しかし、彼にはホテル経営を家族全員でしたいという夢があった。それを実現するために、家族を説得し、リスクを背負いながら、教師を辞めホテル経営に踏み出した。

 家族の協力のおかげで少しづつホテル経営が軌道に乗ってきた。ゲイのフランクは、鈍くさい物腰のため、クラスメイトからいじめの対象になっていた、それをフラニーとジョンがことあるごとに助けていた。明るく元気な美人であるフラニーは学園の人気の的であり、彼女をねらっている男子生徒は一杯いた。その中に、フランクをいじめるグループのリーダーにダブがいた。容姿の整ったスポーツマンの彼に、密かな恋心を感じていたフラニーであるが、度重なるフランクへの執拗ないじめに腹を立てた彼女は、ジョンと一緒に復讐をする。(これが、レイプ事件の布石となる。)

 ハロウィンの夜、フラニーとジョンはホテル中の電気を一斉につけるといういたずらを思いついた。しかし、その結果は思わぬ方向に発展し、たまたま付近をパトロール中であったパトカーがそのあまりのまばゆさにホテルに追突し大惨事になった。当然ホテルは停電になり、あわてたフラニーとジョンがそれを通報しようとして暗い小道を走った。しかし、運悪くそこでいじめグループに出くわしてしまう。彼らは復讐のため、フラニーをレイプする。このグループの中の正義感に燃えた黒人の青年(フラニーの恋人となり最後は結婚する)の機転でレイプ中の彼女は何とか救われたが、彼女及び家族のショックは大きかった。

 この事件以後、フラニーは黒人の恋人や家族によって少しずつ癒されていく。ジョンは祖父と一緒になって、体を鍛えフラニーを守るためボディビルを始めた。家族の一員ともいうべき犬のソローが死に家族は悲しんだ。特に祖父の悲しみが激しいため、それを慰めるため、フランクが犬の剥製を作った。それを、クリスマスのプレゼントに祖父に渡そうとしたが、そのショックで心臓麻痺を起こし、祖父が死ぬ。

 心機一転、父はウィーンに渡って、ホテル経営をすることを決断する。それは、親友のフロイトから一緒にホテルをやらないかとの誘いがあったからである。早速、現在のホテルを処分し、二手に分かれてウィーンに行くことになった。このことが家族の不幸になった。後から行った、妻とエッグ(末子)が飛行機事故で死んでしまった。思わぬ事故で大きなショックを受けた家族であったが、前向きに、二人のためにも新天地で頑張ろうと決意する。

 ウィーンのホテルでは、年老いて目の見えなくなったフロイトと、心の傷(おそらくレイプであろう)を隠すために、人前では熊のぬいぐるみを着ているスージー(ナターシャ・キンスキー)が出迎えた。すべてお膳立てが出来、すぐにもホテルの経営が出来ると考えていた家族であったが、その期待は見事に裏切られた。そのホテルは瀕死の重傷であった。それは、テロリストと売春婦がホテルを占拠して出ていかなかったからである。そのため、ホテルの評判が悪く泊まる客が少なかった。この問題の解決こそホテルの経営を軌道に乗せる第一歩であった。

 家族の協力と努力のため、少しずつ問題が解決され、平穏な日々が戻って来た。しかし、ホテルに住むテロリスト達が、オペラ座を爆破する計画を立てたことで、それも打ち破られた。彼らは、オペラ座の爆破だけでなく、この家族を人質に取る計画であった。それは、彼らがアメリカ人であるためマスコミ受けができると考えたからである。

 この計画を、ジョンに密かなあこがれを感じている、ミス流産(何故彼女が仲間からそのような呼ばれ方をするのかわからない。原作で確認します)が教える。しかし、彼女は、その直後仲間から銃殺される。このことを家族に知らせるためにホテルに向かったジョンだが、時すでに遅し、家族はテロリストの人質になっていた。

 そこで、父親が娘のフラニーと関係を持った、革命的ポルノ作家の考え方に激怒して彼をバットで殺してしまう。それをきっかけに、計画を阻止しようと家族は犯人達ともみあった。そして、フロイトが死に、ホテルは爆破された上に、父親は失明をしてしまう。

 しかし結果的には、オペラ座を爆破から守り、テロリストを逮捕したことで、勲章を受ける。これをきっかけに、再度やり直しのため家族はアメリカへ戻る。そこで末娘のリリーが書いた自叙伝がアメリカでベストセラーになり、長兄のフランクがそのマネージャー、フラニーがその作品で女優としてデビューする。

 そのお金で豪華なホテル暮らしをしていたが、父親は再度、夢であったホテル経営をする。ジョンは以前から慕っていたフラニーと念願の関係をもつ。近親相姦は善悪を論ずる以前の問題であるが、この場面を見る限り、悪いことをしているという感じではなかった。二人が思いを遂げた後は、フラニーは黒人の恋人とジョンはスージーと結婚する。しかし、そんな中に、作品に行き詰まったリリーが、窓から飛び降り自殺する。その死に方はまるで、劇中で語られる『ピエロの死』のようであった。

 

 

詳しい筋と感想

◎ 原作者のジョン・アーヴィングの生まれは、ニューハンプシャー州エクスタである。その関係でホテルの名前が、『ニューハンプシャー』になったんだろう。それにしてもわからないことがいっぱいある。それには、原作を読んで見るしかないと思っている。その上で、疑問点の解答や間違っている点を、再度ここに訂正し、掲載したい。

◎ 物語は、主人公(語り手である次男のジョン)を中心にした家族の物語、それ以外ではフロイトとスージーが大きな役割を担っている。

◎ 夢想家でホテル経営に情熱を燃やす父、やさしい母、長女のフラニー、長男はゲイのフランク、次男は主人公ジョン、次女は小人症のリリー、三男は難聴のエッグ、ボディビルで体を鍛えるが心臓麻痺であっけなく死ぬ祖父のアイオワ

◎ ジョン・アービングの小説には、至るところに熊が登場する。何か象徴的な意味があると思うが、もう少し彼のことを研究してみないと何ともいえない。

◎ この映画の最初に、ホテルに勤めるボーイとメイド(主人公の父と母)の出会いのシーンがある。そこへ、父親の親友であるフロイトが連れてきた熊(メイン州と呼ばれていた)が、オートバイに後ろ足で乗って、ドタバタ活劇さながらに大暴れするシーンがある。

◎ また、父親がホテルのボーイを辞めて、戦争から帰還して、母親と一緒に以前勤めていたホテル(戦争で荒れ果て廃墟となっていた)を訪れているとき、一緒に連れて来た熊を近所の子供が間違って殺してしまうシーンがある。その熊は、二人が結婚の時、フロイトから買ったものであった。……ということは、家に熊を飼っていたことになる?何ともおおらかな環境であることか。

◎ 父親は、熊とフロイトという人物に強く惹かれているのは、画面を通じて強く感じる。父親は子供達全員に寝る前よく話をしていたが、熊は『……後ろ足で立つ熊がいた。そして、その熊は後ろ足しかなかった』というような、話の落ちに使われていた。

◎ 原作者のジョンアーヴィングは、レイプされた女性が、心を癒し立ち直る姿を描くための療養所をイメージして、この作品を書き始めたそうだ。映画では、ホテルのままであったが(原作では?)、場合によったら、ホテルが「ガープの世界」の母親が作ったような療養所に変わっていったかもしれない。

◎ 日本のホテルとは違って、向こうでは長期滞在をする人などがいて、一つの家庭(いろいろな種類の人間が集まる)のような場所になっているのだろう。(原作で確認)

◎ アーヴィングは、結末を決めてから、ストーリーを考えるタイプであると村上春樹氏が語っている。

◎ 心の傷を隠すために熊のぬいぐるみを被っていた、スージーは決してみぐるしい女性ではない。それどころか非常に魅力的な美人である。おそらく、レイプ等の深い傷のために自分が汚れているように思え、それを隠すために熊のぬいぐるみをかぶっていたのだろう。

◎ 熊の格好をするのは、熊の攻撃性を前面に出して、これ以上自分を傷つけることを拒否する。すなわち、自分を傷つけるものから自分をガードする象徴であろう。

◎ スージーとフラニーの同性愛、この後スージーが心を開きかけるが、フラニーが革命的ポルノ作家と寝たことで再び心を閉ざす。スージーの心理として、自分の心を開くためには、自分を理解して、受け入れてくれる人が必要であった。出来れば同じような体験をした人から……。その点、二人ともレイプの経験があり、フラニーはそれを見事に乗り切った。その意味で、スージーがフラニーとの信頼関係から心を開くことはよくわかる。しかし、それが同性愛まで行くとなると、私には理解出来ない世界である。さらに、その後時間が少し経過したとはいえ、フラニーの弟のジョンと結婚するのだから何ともすごい世界である。

◎ 彼の作品には、レイプを扱うことが多い。彼は、保守的(家庭や家族を守りたいという気持ちがひときわ強い)で、かつ安全に対して異常なほど神経質に気を回す。家族の安全を脅かす日常的な悲劇は多々あるが、その最大で最も許せないものがレイプであると彼は考えていた。

◎ フラニーのレイプシーンは衝撃的でリアリティがあった。事件後、彼女の部屋を訪ねたジョンの『今何かして欲しいことがあるか』との言葉に、『昨日の自分』とショックに打ちひしがれていたのに、彼女の立ち直りの速さにはびっくりさせられた。それは、彼女の前向きな考え方、前向きな行動パターンがそれを可能にしたのだろう。それにしても、彼女は明るくて、強い。

◎ 『ガープの世界』でも、エレン(レイプされ舌を切られた。その理由は、犯人が自分の名前を少女に言わせないためであった。しかし、エレンは

11歳であり、しゃべることができなくても、字が書けるので、このことは何の意味もない、その意味でも非常に残酷である。)の受けた行為に抗議をするために、自分達の舌を自ら切って抗議をしているグループが出てくる。

◎ この作品は、性を自由奔放に描いている。フラニーは、レイプされた後、黒人の恋人(彼女をレイプ犯から救出してくれた男性)や、スージーとの同性愛、ポルノ作家、はては弟のジョンとの近親相姦と、自分の気持ちに逆らわず自由に性を謳歌している。

◎ レイプそのものを、それほど深刻に受け止めず、不幸な事故や病気のように考え、その時はつらいが、治ってしまえば時間と共に忘れて行く。そのような、前向きで建設的な考え方のできる強い女性である。

◎ 確かに、彼女のやっていることは相当過激であるが、彼女の明るさや屈託のなさが、それらをごく自然なものとして描かせている。映画も不幸な事件の連続であるが、彼女を代表とするこの家族の明るさ、積極さ、前向きさ、プラス思考が、映画を見終わった時、明るく、満ち足り気分にしてくれる。

◎ 同じく弟のジョンもメイド主任との売春ともいえるセックス、姉の恋人である黒人の妹や同級生とのアバンチュール、ミス流産との秘密のセックス、姉との近親相姦、そして、スージーとの結婚と、明るく、開けっぴろげにセックスを楽しんでいる。作者は、人生においてセックスを、それ程深刻なものとは考えていない。セックスは暗くて隠すべきものではなく、人生に降りかかる不幸や出来事と同じように、自然でかつ必要なものと考えている。

◎ 映画の中程で、父親が息子達にフロイトから聞いた『ピエロの話』をする。『窓から落ちてピエロが死んだ。彼は、生きている間は、嫌われていたが、死んだらみんなに惜しまれた。』 そのネズミの王様と呼ばれていた流れ者のピエロが引く車に『人生は深刻だけど芸術は楽し』と書かれていた。父は続けて、フロイトは言う『人生を深刻でないものにするのは、至難の技である。』 

 この話の中で、『開かれた窓はみすごす』という言葉が使われた。この意味がいまいち分からない。(特にピエロの死と窓の関係、映画の重要なテーマであるので原作で確認する) 映画の中でも、エッグが『開かれた窓はみすごす』の意味がわからず、ジョンに聞くシーンがある。それに対して、ジョンが、『つまり生き続けることなんだ』『開いた窓から飛び降りないように』と答えている。

◎ この窓との関連で思いついたのは、映画のラストシーンで、ホテルの窓が開かれて、死んだ家族が顔を出し、下へ降りてくるシーンがあるが、窓は何かを象徴しているのだろうか?(例えば天国との境目)先ほどのことと考え併せると、家族の本当の価値も死んでからわかる。かな?

◎ この家族に次から次へ起こる波乱の出来事、まさしく『人生を深刻にしないことは、至難のわざである。』の証明である。それを列挙すると次のようになる。

◎ やっとホテル経営が軌道に乗ってきた矢先に長女のレイプ事件があったこと。心機一転フロイトの待つウイーンへ行き、家族全員でホテルの経営をするつもりであったのに、そのために乗った飛行機事故で、母親とエッグ(末子)を亡くしたこと。家族の夢を託したウイーンのホテルは、問題ある居住者達(テロリストと売春婦)達に占拠されていたこと。(その時は、以前のホテルを処分しているので、帰ることもできなかったこと。)

◎ ホテルの住人である、テロリスト達は共産主義革命のため、オペラ座の爆破を計画し、この家族がアメリカ人であり、マスコミ受けするという理由で家族を人質にとったこと。その計画をジョンに知らせ、この家族を救おうとしたテロリストの一員であり、彼らから『ミス流産』と呼ばれていた女性が、裏切り者として仲間に殺されたこと。

◎ テロリストに人質になった家族、そこで、父親が娘のフラニーと関係を持った、革命的ポルノ作家が、娘と寝た目的が、単なる革命の一つの段階であると聞き、激怒して彼をバットで殺してしまうこと。さらに、逃げようと犯人達ともみ合う内に、フロイトが死に、ホテルが爆破された上に父親が失明をしてしまうこと。

◎ しかし結果的には、オペラ座を爆破から守り、テロリストを逮捕したことで、勲章を受けたこと。これをきっかけに、再度やり直しのため家族はアメリカへ戻り、そこで末娘のリリーが書いた自叙伝がアメリカでベストセラーになり、長兄のフランクがそのマネージャー、フラニーがその作品で女優としてデビューしたこと。そのお金で家族は裕福になり豪華なホテル暮らしをしていたが、それで満足しない、父親は夢であったホテル経営をあれ程痛い目に遭い、自分は失明しているのにかかわらず始めたこと。そんな折り、偶然に町であった高校時代のレイプ犯のリーダー(ダグ)に、家族全員で仕返しをしたこと。(フラニーは途中でその空しさに気が付きやめさせた)

◎ ジョンはかねてから恋いこがれていたフラニーと関係を持ったこと。(その兄弟の近親相姦が非常に明るく、コミカルに描かれている。それは、フラニーの性に対する考え方、「セックスは、日常のありふれた出来事の一つで、それほど深刻に考えるべき問題ではない」のためだろう。近親相姦は善悪を論ずる以前の問題であるが、この場面を見る限り、悪いことをしているという感じではなかった)。二人が思いを遂げた後は、それはそれと割り切り、フラニーは黒人の恋人とジョンはスージーと結婚したこと。

◎ デビュー作はベストセラーであったが、次作は酷評を受けた。自信をなくし、作品に行き詰まったリリーが、窓から飛び降り自殺したこと。(その死に方はまるで、『ピエロの死』のようであった。映画では、彼女の存在はほとんど表現されていない、大きくなれないことを悩んでいる女の子がいる程度しか、彼女の死こそ、死んだピエロのたとえ話そのものである。遺書に大きくなれなくてごめんと書いてあった。)

◎ 映画の始めの方で、フラニーとジョンが兄弟喧嘩(フラニーとフランクは仲が悪く些細なことでよく大喧嘩をしていた)の後、2人だけで話をするシーンがあり、そこで、フラニーが『兄弟でも好きなものと嫌いなものがいる』と言いきっているシーンがある。これは、近親相姦の布石である。

◎ セックスが明るく描かれている。例えばジョンの初体験。淡い憧れを抱いていたホテルのメイド主任に『雨の日になったら部屋に来て』といわれ、心待ちにしていたジョン。そして、待ちに待った雨の日、部屋で寝ているジョンの所へ、フラニーとフランクが来て、ジョンを起こしながら、万が一のためにお金を渡すシーンがある。さらに、ジョンと彼女とのことを、フラニーとフランクは盗み聞きをしている。この3人、セックスを金で買うことにそれ程の罪悪感はない。

◎ 冷静に考えてみると、ジョンがメイド主任とのことを、逐一兄弟に話していたことになる。これにはちょっと唖然、普通の兄弟はこんなこと話さないと思う。また、お金を渡すことは売春であり、それを自分のホテルで、それも従業員がやるのを認めている。何ともおおらかな家族であることか。

◎ 最後は、フラニーと黒人の恋人、ジョンとスージーの結婚で、何かハッピーエンドに終わったような気もするが、よく考えたらフラニーとジョンの関係は解決されたわけではない。それとも、セックスを丸一日ぶっ通しでやったことで、思い残すことはなく、ジョンのフラニーに対する思いは解消されたのだろうか? この2組の夫婦には、今後波瀾万丈の出来事が待っているだろう。でも、きっと今までやってきたように、何とか切り抜けて生きていくだろう。

◎ 近親相姦といえば、サイダー・ハウス・ルールの黒人親子を思い出すが、あちらは随分重く、暗く描いたいたが(本来はそれが普通だと思う)この作品では、明るくさわやかに表現されている。この二人は、後ろめたい気持ちや良心の呵責に苦しむことがない。この2つの作品の扱い方の違いは何か?

◎ この問題を自分なりに大胆に予測すると、作者は、自分の意志でするセックスは認める。しかし、自分の意志に沿わないセックス(一番極端なのがレイプ)は認めない。そういう立場をとっている。『ガープの世界』のガープは、原作者のアービングとイコールではないが、ガープはウィーンで街娼を何人も買ったり、結婚してからも、ベビーシッターの二人と関係を持ったりしている。

 『ガープの世界』の中で、彼の母が街娼に向かって『自分の意志で体を売ることは悪いことではない』と言う場面があるが、これは、アービングの気持ちでもあると思う。

◎ 映画のラストシーン、ジョンとフラニーが、それぞれの相手と登場し、これでお互いに完全に自由になったと言う。ジョンにとっては、恋いこがれたフラニーからの自由であり、フラニーにとってはレイプの傷からの自由である。

 そして、自殺したリリー(彼女の夢であった身長が伸びていた)が現れ、『人生はおとぎ話』と言う。それを合図に、今までの登場人物が全てホテルの庭に集まり、楽しく遊ぶ。最後にナレターが、『人生は夢の中で作られていく』『でも夢ははかなく逃げてしまう。』『それでも、なんとか生き続けるしかないんだ』

 

 

この映画のテーマを考える

 この映画は原作者が言っていうように、レイプで傷ついた女性が立ち直っていく物語である。この映画には二人のレイプ犠牲者が出てくるが、その扱い方は全く正反対である。

 まず、フラニーであるが、レイプの傷を時間と共に癒し、今や完全(?)に立ち直っている。少なくとも彼女のその後の行動を見る限り、レイプを引きずっているようには見えない。彼女の前向きで積極的な人生観が、レイプを交通事故や病気のように考え、それが治れば忘れてしまう。いつまでも過去のことでくよくよしている暇はないという、考え方に導くのだろう。また、彼女のセックスに対する考え方、セックスは暗く、隠すものではなく、自分の気持ちに正直に謳歌するもの、自然で人生に必要なものであるに影響されている。彼女の精神的な強さを随所に感じる。

 一方、スージーは、自分の心の傷を隠すため、人前では熊のぬいぐるみを来ている。スージーがレイプされたかどうか映画でははっきりしないが(?)おそらく、原因はレイプであると思う。彼女は、フラニーと逆に、傷をいつまでも引きずって今だに立ち直っていない。熊のぬいぐるみは、熊の凶暴性、攻撃性を利用して、外敵から自分を守ろうとしていると同時に心を閉ざしている象徴である。彼女の傷は時間と共には解消しない。彼女を理解し、認めてくれる存在が必要である。この二人が、同性愛で結ばれるシーンがあり、一時的に彼女がぬいぐるみを脱ぐことがあったが、それは、同じ経験をしたものからの、理解と肯定があったからであろう。最終的にはジョンと結婚することになったが、ジョンが彼女を理解し、彼女のすべてを愛することが出来るかどうかが、彼女が完全に心を開けるかどうかの鍵を握っている。

 『人生を深刻にしないことは、至難のわざである。』映画の中に出てくるこの言葉は、この映画を理解するための鍵の一つである。アービングの描く人の人生は、次から次へ災難というか事件が起きる。生まれつきの障害者であったり、事故で死んだり、失明したり、自殺者、レイプと……。いかに、平凡に何事もなく暮らすことが難しいかを教えている。

 しかし、この波乱の人生、時には理不尽と思えるようなことがあっても、主人公達は明るく、積極的に人生を生きている。この姿こそ、見る者をして、さわやかな充実感で包む。

 

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