サイモンバーチ

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「サイモン・バーチ」 SIMON BIRCH (1998年アメリカ)  

平成12年7月20日ビデオ

監督:マーク・スティーヴン・ジョンソン    
原作:ジョン・アーヴィング 音楽:マーク・シェイマン

 

 

あらすじ

 この作品は、「ガープの世界」「ホテル・ニューハンプシャー」「サーカスの息子」で知られる現代アメリカ文学の旗手ジョン・アービングの書いた「オーエンのために祈りを」が原作である。

60年代のアメリカ、メイン州に住む、サイモンとジョーの友情を描いた感動大作である。

 サイモン・バーチ(イアン・マイケル・スミス)はメイン州グレイブズタウン・メモリアル病院で、母親のくしゃみで生まれてしまうほどの小さな赤ん坊だった。すぐに死んでしまうだろうという医師や両親の思惑とは別に、サイモンは奇跡的に生き延びたが、モルキオ症候群という病気のため、12歳になっても身長が96センチしかない少年であった。しかし、身体は小さいが、そのことをハンディとは考えないサイモンは、野球好きで女の子にも興味を示すごく普通の少年に成長した。そして、神様が自分に小さな身体を与えたことは、何か計画があるためであり、それはいつかはっきりする日が来ることを信じていた。

 一方、サイモンと親友のジョー(ジョゼフ・マッゼロ)は、クラスメイトから私生児ということでじめられていたが、そのことには少しめげず、サイモンを自転車のサイドカーに乗せ、野山を走ったり回り、水泳をしたり、野球をして楽しんでいた。サイモンとは、心から信頼しあい、対等なつきあいをし、決してサイモンを障害者とは考えていなかった。しかし、心の片隅には自分の本当の父親を知りたいと望んでいた。

 ジョーの母親レベッカ(アシュレイ・ジャッド)は、サイモンを理解し心から愛していた。まるで本当の母親のように……。彼女は、二人を優しく見守っていたが、決してジョーの父親の名を口にはしなかった。

 レベッカは新しいボーイ・フレンドのベンを夕食に招く。ベン(オリバー・プラット)は、レベッカの魅力の虜になり、いつかは結婚しよう考えていた。ベンは、彼女と同じようにサイモンとジョーを理解し愛していた。ベンはレベッカが死んだ後もサイモンとジョーの支えとなり、重要な役割を担う。

 彼は日曜学校の女性教師(ジャン・フックス)には、厄介者として嫌われ、いつも理不尽ないじめを受けていた。また、司祭(デビッド・ストラサーン)には、教会は金儲け主義に走っているとか、人を育てるには罰を持ってするのではなく、寛容と忍耐をもって人を許すことが必要などと堂々と論議をするので、煙たい存在として嫌われていた。

 そんな日々の生活の中に突然不幸が襲う。絶対にボールに当たるはずのない、サイモンが奇跡的にホームランを打ち、それが事もあろうか、レベッカの頭に当たって、彼女はあっけなく死んでしまう。深い悲しみと、ジョーにすまないという気持ちから、サイモンは自分の最も大切な野球カードを彼に譲る。しかし、サイモンの気持ちの分かったジョーは、野球カードを彼に返すとともに彼を許す。

 再び、深い友情で結ばれた二人にとって、新しい旅立ちが待っていた。ジョーにとっては、真の父親を捜すことであり、サイモンにとっては、自分が生まれてきた意味を捜すことであった。ジョーの父親を捜す鍵は、レベッカが当たって死んだ、野球のボールである。その日、誰かが密かに持ち帰ったそのボールを探すことこそ、父親を見つけることになると考えた二人は、それらしいそぶりを見せた体育教師の職員室へ夜忍び込んでボールを探す。しかし、見つけたと思ったボールが間違いであったとわかった時、ジョーは押さえれれない衝動にかられ、あたりかまわず暴れてしまった。そのことが原因で、警察に連行された二人は、刑務所に入るかわりに、みんなが嫌う教会主催のクリスマスキャンプの手伝いをするはめになる。

 クリスマスの日は、教会で信者を前に子どもたちの、聖書をもとにした劇が行われていた。配役をどうするかは、日曜学校の女教師と子どもたちの間で考え方大きく違ったが、何とか決まった。サイモンは、体の小さいのを利用し、キリストの幼少時代の役をやることになった。それは、自分の好きな少女(ボインの子)がマリヤ役をやるからであった。

このことが、クリスマス当日の劇を大混乱に陥れる原因となった。劇の大失態をサイモンのせいだと判断した司祭は、クリスマスキャンプの手伝いをジョーだけに頼むことと、サイモンの野球カードを取り上げ反省を促した。

 教会のキャンプに参加できなくなったサイモンは、野球カードを取り戻すために教会に侵入し、そこで偶然、野球のボールを見つけ、司祭がジョーの父親であることを発見する。そして、それを知らせるためにキャンプ地へと急ぐ。その頃、キャンプ地では司祭が思いあまったあげく、ジョーに自分が父親だと名のる。ジョーはかけつけたサイモンに、こんな事なら、知らない方が良かったと告白する。

 キャンプの帰り道、突然道に鹿が現れ、運転手がハンドルを切り損ねた。凍てつく道路を制御を失ったバスが暴走し、水を満々と溜めた湖に落ちる。冷たい水がバスに進入する中、サイモンは勇気を奮って、子供たちを無事に助ける。この時、彼の小さく生まれた意味、神の計画がわかった。ベンが湖に飛び込み、サイモンを助けるが瀕死の重傷を負う。病院に運び込まれたサイモンを見舞うために、ジョーとベン、司祭が来る。ここで、ショーは司祭ではなく、ベンを選ぶ。病室には、サイモンの好きであった女の子(ボインの子)が立ち、彼は英雄だったという。サイモンは眠っているが、彼の願いが叶えれた一瞬であった。最後に、ジョーにお別れを言い、静かに息を引き取った。

 

 

詳しい筋と感想

◎ 

BGMの音楽がすばらしい、交響曲のように、ドラマに進行に合わせて感動を盛り上げる効果を発揮している。また、ドラマの途中で時々流れてくるポップス。いつかどこかで聴いたような懐かしい印象を与える音楽、それが、ドラマの時代である60年代をうまく表現していた。

◎ 映像の美しさに感激した。自然の美をそのままの優しさで表現している。そのため、違和感がなく、自然の中に引き込まれていくような映像の世界。自然や風景の美しさを利用(川の流れ、葉の色の変化)し、季節や時間の移ろいを表現している。筋のわかりやすさ、映像の美しさの自然さ、音楽の効果によって、最初からスクリーンに釘付けになり、眠くならならず、そして疲れない。

◎ ジョーが成人した主人公(ジムキャリー)として登場し、昔の親友サイモンを懐かしむ所から物語は始まる。予想しないジムキャリーの出現と彼のナレーションで、これから始まる映画がすばらしいものであるとの予感を感じさせる。ここですでに、母親の死とそれにサイモンが関係することを暗示させ、読者に想像力を働かせる。

◎ ラストシーンで再び、ジョー(ジムキャリー)が現れ、自分の息子にサイモンと呼びかけるシーンがある。感動のシーンである。このことで、母の死を許し、いかにサイモンを愛していたかが、痛いほど伝わってくる。そして、サッカーをやっている息子に向かってジョーク、『昨年は少年リーグでやっていたが、今年からはリトルリーグでやる。これを続けて言うと、小便チビッタに聞こえるね?』(日本語の吹き替え版で聞いたが、英語版ではどのように表現してのか?興味がある。)これは、サイモンが彼によく言っていたジョークである。もちろん息子にはなんの事か分からない。

◎ 冒頭の病院でのサイモンの出生のシーン。医者や看護婦の興奮に比べて、母親の不機嫌な様子、ほとんど出産する喜びが感じさせない無表情から、サイモンが両親に愛されていないことを暗示している。この母親、サイモンが正常な子供として生まれても、はたして喜んだのだろうか?

◎ 父親と母親の夫婦関係。この二人には愛情があるのか?映像ではほとんど表現されていない。そういう家庭になぜ、よりによって彼が生まれて来たのか?

 父親の職業は石屋である。そのせいか、石のように冷たい父親。どうせ、すぐ死ぬ子である。(医者からはそう宣告された)だから、期待をしては行けない。死んだときの悲しみを大きくしないために……

◎ いつもいつもジョーといるわけにはいかない。家庭でのサイモンはどんな生活をしていたのだろうか?ご飯はちゃんとたべていたのか?家庭での親子の話は、しつけは、楽しみは?映画では、彼が屋根裏部屋にいるところが描かれていたが、それが唯一、サイモンの家庭の様子を描いていた。原作を読んで、もう少し詳しくサイモンと両親の関係を見てみたい。

◎ 教会に行かない両親。サイモンは日曜ごとにいくのに、両親はなぜいかないのか?信仰をもっていないのか、あるいは、貧しさのためか?

◎ ジョーとサイモンの友情。これは単なる、障害者と健常者とのつきあいではなく、対等なものであった。それは、自分を劣ったものとは考えていない、サイモンの考え方のゆえであろう。それと、ジョーの持っている人間的なやさしさのためである。それは、彼の母親の影響が大きい。彼女は身をもってサイモンを対等な人間。愛すべき人間として認めていた。

◎ 二人が遊ぶとき、一緒に走ったり泳ぐ時、妙な気の使い方がない。泳ぐために冷たい湖に入って、男性の玉が寒さで縮むことを、ジョーが『ビー玉みたいになった』と言えば、サイモンは『ビービー弾のようだ』と言い返す。彼のジョークに救われる。

◎ 悲劇のホームランを打った時、バッターボックスに入った彼がちっともバットを振らないので、監督が振るようにさんざん指示すると、『ボールを選んでいるんだ』という。

◎ 二人が湖で潜水をしていると、同級生の二人の女の子がボートで彼らの近くまで来る。そこでの二人の会話『お金を出したらボインをさわれせてくれるかな?』異性への興味をストレートに表現する。自分に引け目を感じていたら絶対に言えない言葉。

 サイモンは、どうもボインの女の子が好きみたいで、彼女の関心が自分なのかジョーなのか知りたくて仕方がない。これも、この年頃の少年であれば最も自然なことである。これが、クリスマスの劇につながる付箋である。

◎ アービングの世界では、不幸は突然にそれも予想もしないことが次から次へと起こる。サイモンにとっての不幸は、モルキオ症候群という病気のため、異常に小さく生まれ、

12歳で96pにしか成長しないということである。(しかし、彼はそれを不幸だとは考えていない。神が何かの目的のために自分を小さくしたと考えている。小さいことを有利に働かせるよう積極的に考えていた。)さらに、愛情を全く注がない両親、自分の打ったボールが最愛の女性である、ジョーの母親を死にいたらしめたこと。

◎ ジョーにとっての不幸は、まず出生の秘密がある。母親が

18歳の時、その町の司祭(その時は、司祭の試験を受けに来た青年であった)と出会い、たちまち恋に落ち妊娠し、産まれた子がジョーである。

◎ ジョーの母親レベッカ(アシュレイ・ジャッド)が最高に美しく素敵である。この映画の魅力の一つであり、彼女はできるだけ長く生きていて、サイモンに愛を注いで欲しいと思っていたのに、ドラマの中頃にサイモンの打ったボールに当たって、突然死んでしまう。それも、ずいぶん呆気ない死に方で……。あれほどサイモンに愛情を注いだ彼女(本当の母親、又はそれ以上)が、何でサイモンが原因で死ななければ行けないのか?運命のいたずらか? サイモンの気持ちを考えれば、これ以上の悲劇はなく、涙が自然とこみ上げてくる。親友のジョーに申し訳ない、合わせる顔がない。

◎ 自分の一番大切なもの、野球カード(私も子供の頃良く集めてものである。なかなか、自分の好きな選手のカードが集まらなくて、イライラしたことを覚えているし、それをもらうために、駄菓子屋でガムだか、お菓子を随分無駄に買ったものだ)のセットをジョーにあげる。あたかも、自分の一番大切なもの(ジョーにとっては母親)を交換するかのように……。ここにも、サイモンの優しさが出ている。しかし、ジョーはそれを受け取らず、サイモンの家に返しにいく、母親が出てくるが無愛想な対応。サイモンに絶対に渡してくれるように頼んで彼は帰るが、母親はその紙袋入った野球カードを足で扱う、母親には何の意味かはほとんど理解できない世界だろう。

◎ 事故とはいえ、自分が原因で、自分を最も理解し愛してくれていた人を殺し、それが、自分の無二の親友の母(彼には母しかいない)である。そのサイモンの痛み、悩みをサイモンの母親は、ほとんど感じていない。ひょっとしたら、サイモンとジョーの母親との関係は知らないのかもしれない。まして、野球カード(サイモンの宝)を返しに来たジョンの気持ち、複雑だけど、サイモンを許そうとする気持ちは絶対理解できないだろう。

◎ あの無感動で、愛のない夫婦から、どうしてあのようなすばらしいサイモンバーチが生まれ、育っていったのか?これこそ奇跡である。普通に考えれば絶対にああいう家庭では、彼のような人間は育たないはずである。(原作で確認したい)

◎ サイモンは、神によって作られた人間かもしれない。自分の障害をプラスの思考に変え、小さいからできないのでなく、小さいからできること、を積み重ねていく。神が自分を小さく作ったのは、何か意味がある。何か計画があるからだ。

◎ ジョンアービングは、結末から作品をイメージするそうだが、サイモンとジョーが湖で潜水をするシーンが何回か出てくるが、その潜水が一番最後に役に立つ、彼の作品の随所にでてくる、次のシーンのための付箋である。同じく、潜水をしているとき、同年の彼女(バストが素敵でそれをからかうシーンがある。)が、クリスマスの劇のドタバタにつながり、それによって、サイモンはクリスマスキャンプに行けなくなる。一つの出来事が次の出来事につながり、錯綜し微妙な綾を織る。

◎ サイモンが、奇跡的にも打ったボールがジョーの母親の頭に当たり死ぬ。そのボールをだれが持っているかが、父親捜しのキーになっている。結局、最も父親ではないと思われていた、司祭が父親であったという、ミステリー小説を彷彿とさせる展開がある。

◎ 映画の後半は、ジョーの父親捜しとサイモンの生きている意味を探す旅が中心となる。父親捜しは、野球のボールを見つけることがキーワードであり、体育の教師の思わせぶりの態度から、職員室に夜間に忍び込むはめになる。そこでは苦労の末、やっとボールを見つけ、父親がわかったとほっとするのもつかの間、このボールが他のものであることがわかり、ショックのあまり、あたりかまわず壊してしまう。このことによって、二人は警察につれていかれ事情聴取を受ける。その中で、留置所に入るか、教会主催のクリスマスキャンプの世話係が良いかの選択を迫られる。結局、クリスマスキャンプへいくことになる。これが、クリスマスの劇のシーンへとつながる。

◎ 神を信じない司祭、子供を愛せない(子供が大嫌い)な日曜学校の女教師。彼らの理不尽なサイモンへのいじめがジョーの母親の愛と対照的である。それは、その人(サイモン)を認め、愛すべきものとみるか。それとも、その人を認めないかの違いである。これは、サイモンの両親も同じである。

◎ 最も神に遠い存在(司祭)とサイモンの神を信じる心、教会を金儲けの道具と批判するサイモン。慈悲の心を聖書の言葉を借りて、司祭と議論をするサイモン。神を信じない司祭には、サイモンのすばらしさは絶対に理解できない。全ての人間は何らかの計画があるために生まれてきた。サイモンをいじめるのに彼が最も大切にしている野球カードを取り上げ、それを材料にする。

◎ クリスマスの劇の配役を決めるときの子供達の反応がたのしい、いかにこの劇がいやであるか、強制されたものであるかがよくわかる。女教師のできるだけ自分のイメージの配役にしたいという強い願いと、それに反し、できるだけせりふがなく、何もしないでいい役を最高のものと考える子供達とのギャップ。大人と子供の見方・考え方の違いが見えて楽しかった。

◎ サイモンは、子供の頃のイエス役を嫌がっていたが、自分の好きな女の子(例のボインの女の子)がマリヤの役をやるからことから引き受ける。これが、劇中で彼女のオッパイをさわろうとして、劇が壊れていく展開につながる。それが原因で、司祭からサイモンはクリスマスキャンプへ行くことを禁止される。

◎ ボインの彼女がサイモンの事を好きかどうかをジョーと2人で話し合っていたが、サイモンは自分は人形と同じようなかわいさから彼女の興味を得ているにすぎないと考えていた。しかし、最後の病院のシーンでわざわざ見舞いに来た彼女が、あなたは英雄だという。彼は意識がないが、彼女がサイモンを好きであることを告白したことは確かであり、彼の思いはそれで十分に遂げられた。

◎ ジョーの母親役の女性、とても笑顔が素敵である。さわやかで色気のあるアメリカの女性らしい女性。あれほど賢く賢明な女性が、

18歳の時何の魔が差したのか、あんな司祭の子供を身ごもるなんて?あの司祭の若い頃(12年位前)は純真で魅力があったのか?なかなかの二枚目であるが、彼女がその容貌に惚れたとも思えない。もちろん彼女も成長しているから、その時はその程度の女だったのかしれない。しかし、なぜ妊娠の相手を隠し、援助をことわってきたのか?彼女の母親には家も財産もあるから経済的には自立ができる。

 しかし、恋人の心変わりというか、自分の考えていた男でないことがわかって、こんな男なら自分一人で育てた方がましだと思ったのかもしれない。そのように感じられる程度にしか司祭は扱われていない。

◎ 彼女の新しいボーイ・フレンドのベン(オリバー・プラット)は、実にすばらしい男性である。ふつうなら、彼女が死んだ所からあの家族との接触はなくなるはずだが、彼女がいなくなっても、ジョーの大きな支えになっている。(この当たりが原作ではどのように扱われているか調べたい)

 彼は、自己を犠牲にしてまで、人のために尽くすことができる数少ない人間なんだろう。最終的には、ジョーが彼の養子になるが、司祭ではなくベンを選ぶところがおもしろい。ドラマ的には、司祭を父と認める事でエンディングを迎えることも考えられるが、真の父親はやはり彼だろう、そういう意味では誰でも納得できるエンディングである。

◎ 映画の中では、始めの方で彼女と司祭の接触があるが、彼がジョーの父親であるそぶりは一斉なかった。それどころか、最も父親にふさわしくない人間として扱われていた。サイモンにつらくあたる(厄介者扱い、彼の両親と同じ)態度は、彼女と全く逆の態度である。サイモンを理解できない事は彼女を理解できない、彼女と相容れない人間である。それが、最終的にジョーに父親であることを告げることになるが、告げたこと自体は意味があるとしても、彼の人間性は何も代わっていない。ジョーには今のままでは認めれれない存在である。ジョーがサイモンに言った言葉、『最悪の人間だ、こんな事なら知らない方が良かった。』

◎ 父親捜しの旅、青い鳥のように本当の父親(司祭ではなくベン)は身近にいた。

◎ サイモンにとっての人生の目的を探す旅。神が考えた自分を使った計画とは、川に落ちがバスの中から子供達全員を救い出すことであったのか?(この場面は、なかなかスリルがあって、手に汗握るの表現がぴったりである。)なのか?それとも、ジョーの父親を捜し出すことを手伝うことなのか?それともジョーとの変わらぬ友情を築くことなのか?

◎ 父親がいない事でいじめられるジョー、障害を持ち両親に愛されないサイモン、この2人には強い友情がなければ生きていけない。お互いを支え合う人間が必要であり、ジョーにとってはサイモン、サイモンにとってジョーは神が与えた計画なのかもしれない。サイモンが死んだのは、ジョーには、真の父親が見つかり(ベンの養子になる)今後父親が彼の支えとなるからである。

◎ ジョーがサイモンの親に言った言葉、『彼はあなた達にはもったいない。』

◎ ドラマのラスト、バスの中で最後のひとりを助けるために潜水をし、必死に子供を支えているサイモン。そして、間一髪その子供は助かるがバスが流れされていく。……ここでサイモンが死んだと思った。死ぬ前にサイモンをほめてやりたいと思っていたら、願いが叶い、病院のベット脇に彼の好きな女の子が立ち、『あなたは英雄』と言われ、少年の念願が叶った。彼が目覚めていたら天にも昇る気持ちだっただろう。

 さらに、ジョーとも別れの言葉を交わすことができた。最後の言葉は、『僕もう行くよ。使命を終わって神の元に返る、召されたのだ』自分の使命を果たし、眠るように息を引き取るサイモン、本当にがんばったね。ご苦労さん。そんな言葉を心の中で掛け、さわやかな充実感を味わうことができた。ここで終るかと思ったが、さらに感動は続く、さざ波のように。

◎ サイモンが何回も言う言葉、『僕が小さいからみんな言うことを聞くんだよ。』川に落ちたバスの中で、みんなを助け出す時、怖がる子供達にサイモンはバスの前に行き、自分の指示に従わせる。

◎ ラスト、ひとりのジョーが、いつもサイモンと一緒にいった川で泳ぎながら、鹿を見つけ見るめるシーンがある。この鹿は何の意味か?神か?それともサイモンの生まれ変わりか?きっとジョーには、そう見えたのだろう。そういえば、バスが運転を誤り川に落ちると時も、鹿が急にバスの前に出てきたからであった。何か意味があるのだろう。

◎ サイモンが小さい体を活かしている場面がいくつか出てくる。野球のピンチヒッターとして活躍すること。(ストライクゾーンが狭すぎてストライクが入らない)深夜職員室の鍵を開けるために、郵便受けから手を入れて内側からドアの鍵を開けたこと。バスの狭い窓から救出されたこと。

◎ 教会を代表とする社会的な権威(教会、司祭、日曜学校の教師)とそれに対抗する心の信仰(サイモン、ジョーの母親)。社会的な権威の失墜、司祭以上に信仰の厚いサイモン(子供)、全てをお金儲けと結びつける教会の行事。サイモンの教会批判、別室でお茶を飲むことが神と関係あるのか?それは、金と関係あるのでは?クリスマスの劇が大混乱で失敗する。それがショックで助教師は母親の元へ帰り、しばらく休みになる。

◎ 司祭こそ、神に仕え、神を信じ、全ての人間を愛するべきである。寛容と忍耐をもって人を許し、愛によって人を導かなければならない。サイモン指摘こそ、司祭としての罪のみでなく、ジョーの父親としての罪の告発でもある。

 聖書を使ってのサイモンの逆襲、これに答えられない、本来は司祭がこの立場をとる必要があるのに、それがとれないもどかしさ、よけいにサイモンが憎たらしく、邪魔になる。サイモンの言うことが正しいだけに……

◎ ベン(ジョンの母親の恋人)は魅力的な男性である。ユーモアのセンスもあり、教養もある。映画の中の一番の魅力的な人物は、ジョーの母親であるが、その彼女が選んだだけに、さすがというべきか。最初のプレゼントにアルマジロの剥製をもってきたり、(男の子の興味を良く知っている)、2人が警察に連行され、引き取り手がないとき、ベンがその役割を担い、帰りぎわ『9時になったからおなかがすいた、ピザでも食べようか?』でもサイモンが、何だがご褒美みたいだから遠慮するといえば、あきらめて車に乗るが、『それなら、アイスはどうか?』このあたりの会話が子供の心をつかむ。それも、夜中の湖で食べるなんて。心憎い。

◎ ドラマの筋とは違うが、ジョーの母とベンが結婚し、サイモンが養子にもらわれたらすばらしい家庭ができたことだろう。

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