色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

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色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 h25.6完読

(1)<あらすじ>
 主人公の多崎つくるは、名古屋の豊かな家で育ちました。
名古屋の高校に通っていた時に、ボランティア活動で
4人の男女と知り合い、意気投合します。
そして、5人(男3人、女2人)グループとして、
常に行動を共にするうちに、
自分の体の一部のような、そして空気のような存在として
仲間を感じるようになります。

 つくるを除いた四人の名前には色がついています。
赤松、青海、白根(シロ)、黒埜(クロ)ですが、
そこに彼は疎外感を感じていました。
自分は色彩のない、存在感の希薄な人間だと考えていました。

 つくるは子供の頃から鉄道の駅が好きだったので、
高校卒業後は、東京の工業大学の建築科に入学するために、名古屋を離れます。
それに対して、他の4人はそのまま名古屋に残り、
名古屋の大学に通います。

 東京からつくるが名古屋に帰った時には、今までと変わらず
5人のグループで遊んでいましたが、
大学2年生の夏、突然仲間から、理由も聞かされぬままに、
絶交を言い渡されます。

 なぜ自分は絶交を言い渡されたのか?
その身に覚えのない行動故に、つくるは悩みます。
今までの完璧な世界が突然崩れ、
たった一人となったつくるは、
来る日も来る日も、死を見つめながら生きていきます。

 それでも何とか絶望の淵から立ち直って、
普通に生活ができるようになったつくるは、
大学を卒業し、駅舎を作る会社に就職します。
そして、36歳になったつくるは、
魅力的なキャリアウーマンの沙羅に恋をし、結婚を申し込みます。
それに対して、沙羅はつくるの心の闇、心に引っかかっている問題を
解決してから、結婚の申し出の結論を出したいと言います。

 つくるは、沙羅からの進言で
友達から絶交された理由を知るために、
16年ぶりに友を訪ねる旅(巡礼の旅)に出ます。

(2)<導入>

 村上春樹の本は、海辺のカフカ、1Q84、ノルウェーの森、
そして「色彩を持たない………」の順番に読みました。

 私は少々へそ曲がりな所があり、
ベストセラーの作品や売れっ子作家の本を、
敬遠していた時期がありました。
流行を追わないようにしたいとか、大衆に迎合したくないという
不遜な考え方を持っていました。

 ただ村上春樹に対してはやや見方が違っていました。
それは、私が以前アメリカの作家、
ジョンアービング(代表作に「ガープの世界」がある)に
夢中になっていた時、彼の「熊を放つ」という作品を、
村上春樹が翻訳をしたことを知っていたからです。

 村上春樹はジョン・アーヴィングを尊敬し、
彼の作品から大きな影響を受けていました。
そのため、いつか村上春樹の作品を
読んでみようと思っていました。

 それほどたくさんの本を読んだわけではないのですが、
彼の本には、摩訶不思議な人間(化け物?)や現象が描かれ、
さらに、複雑な深層心理や、哲学的で意味不明のことが多々あります。
そのため、読みにくくて、意味のよくわからない、
不思議な本という印象を持っていました。
まあ、それが「春樹ワールド」と言われるものかもしれませんが……。(*^_^*)

 それに対してこの本は、現実的でかつ身近な題材がテーマで、
摩訶不思議な出来事も少なかったので、
非常に読みやすく、わかりやすかったです。

 名古屋をテーマにしていることにも、親近感を覚え、
その肌感覚が伝わってくる作品になっていました。

 名古屋を含めた愛知の県民性は、
 豊かで、貯蓄率が高く、結婚式の派手さや嫁入り道具の豪華さで
全国に名を轟かせています。
地理的には東京と大阪の中間にあり、
独自の文化に育まれた名古屋という大都市があるため、
自己完結型で県内でほとんどの処理が可能です。
そのため、わざわざ外へ出て行く必要がないので、
内弁慶な所もあります。

 俳句的な手法とは、多くを語らずに、
解釈は読み手に任せることです。

 シロの殺人事件の真相や、つくるの結婚の行方など、
この作品もそれに近い手法をとっています。
これを物足りないものと考えるのか?
それとも、深いものと考えるかは読者次第ですが、
私的には嫌な終わり方ではなく、
フランス映画のような余韻のある終わり方で良かったです。

(3)<友達について><巡礼の旅>

 この作品は日常的で身近な題材をテーマにしています。
高校時代の親友達から、突然訳も告げられず絶交を言い渡され、
一方的に関係を遮断されてしまう主人公。

 友達関係が突然壊れてしまうことは、
程度の差こそあれ、誰でも経験することで、
容易に主人公の感情を推し量ることができます。

 友情についての考え方は人それぞれです。
人によっては、友達がなければ、自分は生きて行けないとか、
友達「命」で行動している人もいますが、どうなんでしょうか?

 最近の、広島県呉市の少女リンチ殺人事件は、
友達の数だけはいるけど、それは表面的で浅い関係です。
見得や自己中心で繋がっている関係だから、
LINEで悪口を言われたことに切れて、
集団でリンチしたあげく、殺して山中に死体を放置してしまいます。

 彼女達の世界では、友達がたくさんいる方が勝ち組なんでしょう。
だから、表面的な友達であってもどんどん繋げていき、
それに連れて、やっかいなことが一緒についてくるわけです。
友達の数が多いほど、リスクも多くなります。

 子供の頃からずっと続く友達がいて、
それが永遠に続いていくことが理想かもしれませんが、
それは珍しいことで、途中で関係が終わるのが普通だと思っています。

 それは、その人の考え方や環境が変わるためで、
それに合わなくなった友達関係が切れていくことはごく自然なことで、
無理に繋げて行こうとは私は考えていません。
自然にまかせています(*^_^*)。

(4)<色彩について><灰田について>

 この作品は登場人物を色で捕らえ、
その人物像をイメージさせるのは、見事な手法です。

 「名前と色」について、普段は意識することはありませんが、
意識するとそこに強烈なイメージが浮かんできます。
もちろんそれは色ばかりでなく、
女性の名前のように、漢字から受ける印象も同じです。

 色彩を持たないと言っていた多崎つくるも
実は無色透明ではなく、色彩のないという色彩を持っているわけで、
それが彼の個性であり、色です。
ただ、私はつくるに個性や色彩がないとは思いませんが……。

 この本の中で、不思議な世界観を感じたのは、
つくるの親友である灰田が語った、
父親のエピソードくらいでしょう。
その中に死を操れる人物緑川ができてきます。

 なぜこのエピソードが入っているのか?
きっと深い意味があるのでしょうが、
残念ながら私にはわかりません。

 多崎つくると親友灰田の関係はどのようなものでしょうか?
つくるが死を見つめ続けて、やっとそれを抜け出した時に灰田が現れます。

 この本の書評のコメントに、
次のようなことが書かれていました。

 多崎つくるは時々性夢を見ましたが、
かならず、シロとクロの二人と交わり射精をします。
シロとクロが混じって生まれるのは灰色ですから、
灰田はつくる自身のことであり、新しく生まれた
つくるを象徴すると……。

 それが作者の考えであるのかはわかりませんが、
面白い発想だと私は思いました。 
このことを考えると、灰田が実在の人物かなのか?
それとも、つくるの作った幻の人物なのかが
定かではなくなります。

 灰田はあまりにも完璧な青年で、
かつすぐるとものすごく気の合うことから、
実在の人物ではないような気も私はしていました。

 ミステリー要素もあるシロの事件の
真相はどこにあるのでしょうか?

 3人(つくるとシロとクロ)の心理的な三角関係が
この事件の根底にあります。
友達や自分の好きな人への配慮、それが行き違いとなり、
ものごとを複雑にしていきました。

 ほんとうにつくるはシロの事件に関わっていないのか?
どこまでが現実で、どこまでがフィクションであるのかわかりません。

(5)<メインテーマについて>

 「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」
この長い題名の中に、作者の言いたいこと、
主題となるテーマが込められています。

 色彩を持たないとは、破壊され街の風景で、
例えば津波の後の東北の街のようなものです。

 多崎つくるのつくるという名前は、
作る=再生に繋がります。

 <巡礼の年>とは、フランツ・リストのピアノ曲で、
つくるの大好きな曲であり、小説の要所要所に使われる、
象徴的な音楽でもあります。

 また、つくるにとっての巡礼の年とは、
自分の過去を見つめるために、友達を訪ねることであり、
それによって自分の罪を見つけ、償いをするための旅のことです。

 この作品の根底に、オーム真理教の
地下鉄サリン事件や阪神淡路大震災
さらに東北大震災や原発事故などがあると聞きました。
その破壊と喪失からの再生がテーマであると……。
 
 この小説の中の喪失とは、
つくるが友達から突然絶交を言い渡されて
絶望の淵にたたされたことです。

 また再生とは、つくるが友達から絶交された理由を
聞くために16年ぶりに旅にでて、関係の修復計ることです。

 少し前に、小説家林真理子と建築家との対談がテレビでありました。
私は偶然見たのですが、その時、林真理子が
自分の執筆の様子を語っていました。

 それによると、彼女にとって文章を書くことは
何の苦痛もなく、むしろ快感であるそうです。
そして、もし書くことを苦痛に感ずる人は
職業作家には向いていないと言っていました。
 
 また、一度机に向かって書き出すと、
自然と筆が進んで、止まらなくなり、
何かが乗り移ったように書き続け、
物語を紡いでいくそうです。

 きっと村上春樹も彼女と同じなのでしょう。
もちろん小説家になるには、これだけではなく、
膨大な知識や創造力が必要です。

 林真理子や村上春樹のような天才の頭の中が
どのようになっているのか
覗けるものなら、覗いてみたいものです(*^_^*)。

 

  

 

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