あふれた愛

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あふれた愛(4つの短編集)
平成1212月完読
作者 天童荒太  出版社 集英社

 

作品目次

T とりあえず、愛 T あらすじ T 詳しい筋 T 私の感じたこと
U うつろな恋人 U あらすじ U 詳しい筋 U 私の感じたこと
V やすらぎの香り V あらすじ V 詳しい筋 V 私の感じたこと
W 喪われゆく君に W あらすじ W 詳しい筋 W 私の感じたこと

 

T とりあえず、愛

 

T あらすじ

 夫の磯崎武史は一流の広告代理店に勤めていたが、激務とストレスのため、腎盂炎を起こし、今の小さな下町の合紙会社に転職した。広告代理店時代知り合った妻の莎織は、それでもついてきてくれた。そして、病気持ちという両親の反対を根気よく説得して結婚した。彼は、一人娘のなつみを溺愛していた。娘は、アトピー2ヶ月前に歩けるようになったばかりであるが、財布の中に娘の写真を入れ、時々見て幸福な気分に浸っていた。

 ある日、帰宅すると妻が、『さっきなつみを風呂に入れている時、殺しそうになった』と言う。呆然と佇む妻の姿を見て、背筋の凍るような恐怖を武史は感じた。これは一時的な育児疲れからだと考えた武史は、その疲れから解放しようと、妻と子供を妻の実家へ行かせようとするが、妻はいろいろな言い訳をつけて、家に帰ってきてしまう。なつみの体に不自然についた痣を見つけた時、かかりつけの医師に相談すると、愛する人は、誰でも子供を殺してしまうかもしれないという恐怖感を持つ。そんな時、夫はやさしく妻に、安心感を与えてほしいと言われる。

 彼女が自分から精神科へ行きたいと相談してきた時、即座に困ると言った。その理由は、自分の妻が精神科へ行っていることが人に知られることがいやだったからだ。その直後、彼女が実家で左手首を切り、病院に運び込まれた。お盆の間、莎織は病院にいた。退院後は彼女の希望でマンションに帰り、平穏な日々を取り戻した。と安心していた矢先、突然に彼女から離婚届けの用紙を渡された。あなたは私が支えて欲しかった時に、逆に私を追い込む人だった。その時の私のつらさが、あなたにわかる?

 彼女は、なつみを連れて、実家に帰る。それから5日後、武史が工場で倒れた。莎織は2日に一度見舞いに来て、身の回りの世話をしてくれたが、会話はなかった。入院の間、武史は自分の彼女にしてきた身勝手さを後悔していた。そして莎織も武史を許し、やり直していく決意をしていた。しかし、急ぐつもりはなかった。徐々に、『とりあえず愛』を確認しあいながら……。

 

T 詳しい筋

◎ 夫の磯崎武史と妻の莎織は、広告代理店に勤めていた時に知り合った。武史が激務とストレスのため、腎盂炎を起こし長期入院をしたとき、彼女が献身的に見舞ってくれた。退院後会社にいずらくなり、退社し現在の小さな下町の合紙会社に転職したが、彼女はついて来た。彼女の両親は、病気持ちということで大反対であったが彼女が根気よく説得して結婚した。しかし、今でも武史にとっては、結婚に反対されていたので、妻の両親は苦手で実家の敷居は高かった。

◎ 妻の父は以前は運輸省に勤め、今は運送会社の役員をし、また、母親も地元の婦人会の役員をしている。実家はマンションから2時間ぐらいの千葉県の習志野市にあった。

◎ 一人娘のなつみは、アトピー2ヶ月前に歩けるようになったばかりである。彼は、娘を目の中に入れても痛くないほど可愛がっている。財布の中に娘の写真を入れ、それを時々見て幸福な気分に浸っているという親ばかぶりである。今は、早く家に帰り、娘を風呂に入れることを一番の楽しみにしている。

◎ ある日、大きな契約を取り、その祝いのために帰宅が遅くなった。その時、妻が「なつみを殺しちゃう」と告白してきた。驚いた武史が詳しいことを問いただすと、「さっき殺しそうになったの。お風呂に入れてて、このまま、この子の顔を、お湯につけたままにしたら、どうなるかしらと考えて……」そう言って呆然としていた。その妻の姿をみて、背筋の凍るような恐怖を武史は感じた。この一言から順調であったすべてが狂い出す。

◎ これはきっと一時的な育児疲れからだと考えた武史は、その疲れから解放しようと、妻と子供を、妻の実家へ行かせようとするが、妻は実家に寄らずに勝手に帰ってきてしまう。そこで、妻が妊娠している時からのかかりつけの医者に、子供を殺しそうになったことを話し、どうすればいいか相談してくるように言っても、言葉を濁して医者にも行かない。妻は、大丈夫だと繰り返すがその言葉を聞けば聞くほど、武史は心配になっていく。夫の気持ちが分かるのか、妻はほっておいてほしいというが、武史は、おまえ一人のことではないからほっておけないと言う。

◎ 莎織が恐ろしいことを口に出した時から、初めての休日になる土曜日、莎織の実家へ行き、妻を預かってもらおうとするが、夫の食事(腎臓病のため食事制限をしている)や家のことが心配であるとの理由をつけて、すぐに帰ってきてしまう。

◎ 武史はなつみを風呂に入れようとして服を脱がすと、右腕の付け根に、濃い桃色の痣らしきものを見つける。彼女は実家で転んだからと言う。武史は疑心暗鬼になり、彼女が傷つけたのかもしれないと考える。

◎ 不安は増大し、武史は莎織のことが心配でならない。そこで、武史は莎織となつみを連れて、かかりつけの女性医師を訪ね、彼女の最近の様子を話し相談した。「誰でも、子殺しの考えを抱く瞬間があるんですよ。意識的にしろ、無意識的にしろね。」と言われる。医師の言い方によれば、愛情が深いほどそのように考えると言われ、自分がそのような考えを持ったことがないことが、自分の愛情不足を指摘されたみたいで気分が悪かった。それで、また彼女と喧嘩した。

◎ 彼女が「精神科へ行った方がいいのでは」と相談してきた時、彼は即座にそれは困ると言った。その理由は、自分の妻が精神科へ行っていることが、人に知られることがいやだったからだ。つまり、彼女の体よりも世間体、自分の立場のことを考えていたのだ。そんな矢先、彼女が実家で左手首を切り、病院に運び込まれた。

◎ 心療内科の医師は、莎織のうつ病的な傾向の原因を、幼い頃から感情を十分に表現することができなかった成育歴と、まじめすぎる性格に加え、夫と子供の病気を同時に見ながら良い母、良い妻であろうと頑張り過ぎ、精神的に疲れがたまったためだろうと語った。

◎ お盆の間、莎織は病院にいた。退院後は彼女の希望でマンションに帰り、平穏な日々を取り戻し、莎織は順調に快復していった。この分なら大丈夫と安心していた矢先、突然に彼女から離婚届けの用紙を渡された。訳が分からず戸惑う武史に向かって彼女は、「あなたは、私が病気だったとき、支えずに責めてばかりいた。」「精神科に見てもらうことも反対したのは、世間体や自分の都合である」「私が一番頼りにしたいときに、一番ひどい人だったあなたは、私の何だったの」と言う。あなたは私が支えて欲しかった時に、逆に私を追い込む人だった。その時の私のつらさが、あなたにわかる?

◎ 彼女は、なつみを連れて、実家に帰る。それから5日後、武史が工場で倒れた。離婚のショックで慢性の腎臓病が悪化したためである。病院で2週間意識がなかった。莎織は実家で暮らしながら2日に一度見舞いに来た。汚れ物や着替えの世話はしてくれたが会話はほとんどなかった。また、なつみは病気が感染する恐れがあるので連れてこなかった。入院の間、武史は自分の彼女にしてきた身勝手さを後悔していた。

◎ 散歩が許されるようになった武史は、中庭に出られるようになった。なつみに会いたいと思っていた武史は、なつみを連れてこない莎織の冷たさを感じていた。そんなある日、中庭の遠くになつみを抱いた莎織が目に入った。

◎ この時莎織は武史を許し、やり直していく決意をしていたのだろう。しかし、一気でなく、徐々に、とりあえず二人の愛を確認しあいながら……。

 

T 私の感じたこと

◎ 女性医師の言葉(本文より抜粋)

 「つまりね、子どもを愛しているということの裏返しなんですよ。愛情が強いほど、失うことの恐れも大きくなるの。もしも愛する我が子を失ったらどうしようと考えて、不安になる。その不安を内側にため込むうちに、知らぬ間にふくれ上がって、負の幻想に呑まれてしまうの。たとえば、入浴中に手がすべり、溺れさせてしまったらどうしようと考え、怖くなる。恐怖に耐えきれなくなって、殺しそうになったと、口に出す。不安や恐れを表にあらわすことで、少しだけれどガス抜きの効果になる。このとき旦那さんに、大丈夫だよと、笑って受け流してもらえれば、もっと心は晴れるでしょう。また、ご実家やご友人、近所のお母さん方のグループに話を聞いてもらってね、誰しもそれに似た想いを抱くことはあるんだと、経験談をお聞きになれば、そんなものかと、さらに安心されるはずです。だけど、最近は核家族化が進み、ご近所づきあいも減りましたからね。若い御夫婦が、すべて自分たちのあいだで処理なさろうとすると、互いを追い込んでしまうことが、ままあります。なつみちゃんのお母さんは、アトピーのことをふくめて、子育てに神経質になり過ぎないことです。子ども自身の生命力を信じて、少し離れて見守るくらいの余裕を持ってください。旦那さんも、彼女が不安にかられて発する言葉を、すべて真に受けないこと。なによりもまず、彼女を信頼してあげることが大事ですよ。いいですね」

◎ 二人の間の疑心暗鬼。自分の本当の気持ちを言葉にして相手にうまく伝えられたら、人間関係はほとんどうまくいく。こんなことは口に出さなくてもわかっているはずだと考え、口に出さないと、相手はほとんど何もわかっていない。会話がなければ心は離れ、ますます相手を疑り、溝ができていく。夫婦でも親子でも言葉が重要である。言葉でうまく自分の気持ちが伝える勉強が必要だ。

 

 

 

U うつろな恋人

 

U あらすじ

 塩瀬彰二は、40才で建設機器メーカーの設計部に勤め、管理職を兼ねていた。離婚をして2年目になるが、その原因は働き過ぎで、全く妻のことを返り見なかったことである。妻から別れる時、家には自分一人しかいない。声も姿も見えなかったと言われた。その後も相変わらず多忙な日々が続き体調を崩した。医者から不安神経症と診断され、ストレス・ケアセンターに入院をした。色や臭いの感覚がなく、性に関する興味も全くなくなっていたが、少しずつ快復し、外の世界に対する興味もわいてきた。そんなある日、病院の前のレストランで、アルバイトの少女(桐島智子)に会った。彰二は、彼女の明るい人柄と、きびきびと働く姿に好感をもった。

 彰二は病院の談話室で「O嬢の物語」を読んでいたが、そこへ智子が現れた。彼女は病院の友達に会いに来ていたのだった。偶然の再会に驚きながらも楽しい会話をしていたが、ちょっとの隙に智子はいなくなった。そこには、性を描写したどぎつい詩集が残されていた。それは、智子の恋人である詩人の緒方哲郎(24才)が、智子のことを書いたものであった。「O嬢の物語」を読むくらいの人なら、性についての真の意義や崇高さがわかってくれると思い、感想を聞くために、彼女がわざと置いてきたのだった。智子に少しづつ惹かれて行く彰二は、その性の詩集を読んで悶々とする。智子の友人(山根美由紀)からあの詩集はフランスの詩人ヴェルレーヌの作品であること、さらに、智子の恋人は架空の人物であることを告げられる。医者や美由紀からは、智子を時間を掛けてゆっくり治療をしたいから、そっとしておいてほしいと頼まれるが、彰二は、真実を教え、幻想の世界から救ってやるべきだと考えていた。それを実行すべく、智子と幻の恋人とのデートを尾行し、ビデオに撮った。そればかりでなく、我慢できなくなり智子と関係を結んでしまう。彰二は、これによって幻の恋人を追い出し、自分がその位置を占めたと思った。しかし、それもつかのま、彼女は自殺を図った。

 退院して一年が経過し、匂いや色の感覚は戻ったが、意欲は全くなかった。ただひたすら智子に会えるのを楽しみに生きていた。ある日、美由紀から手紙をもらい多摩湖畔まで行く。美由紀から、智子の回復のために、これを最後にという約束で会わせてもらう。智子は入院後回復し、美由紀と散歩できるところまで回復していた。回復したのは、彼女の中で二人の男をひとりにすることができたからだった。智子は両親が浮気をして離婚し家庭が崩れていく中で、神経症にかかった。そのため、同時に自分が二人の男を愛することを嫌悪し、それを罰するために自殺をしたのだった。突然、智子が美由紀に近づいてきて、恋人が詩を書いたので見てほしいと言う。しかし、すぐそばにいる彰二には全く気が付かない。彼女は恋人の名を彰二と呼んだ。彼女は、二人の男をミックスし、むりやり一人にしたのだった。つまり、外見と中身は従来の詩人で、名前だけ彰二とつけた。

 

U 詳しい筋

◎ 塩瀬彰二は、神奈川にある建設機器メーカーの工場で、設計の部署に勤め、管理職を兼ねていた。そのため、普段から休みが取れず、一ヶ月の実働が300時間を超えることがたびたびあった。結婚はしていたが、2年前に別れた。33で結婚し5年目のことであった。離婚の原因は仕事、結婚後管理職になったので、家にまともに帰れず、夫婦の会話もなくなった。別れる前、妻から「あなたがいない、家には自分一人しかいない。声が聞こえなくなっただけでなく、姿まで見えなくなった。」と言われた。

◎ 多忙の日々の中体調不良が続き、ついに駅でおかしくなる。かかりつけの内科医から東京の東大和市のストレス・ケアセンターを紹介された。働き過ぎから来る不安神経症と診断された。会社は休職届けを出して入院した。初めは休むことじたいが苦痛であったが、快復するにつれて、しだいに外の世界に対する興味もわいてきた。ある日、散歩に出て何の気なしに、病院の前にある地中海レストランの「チィーカ」に入った。そこで、明るく、溌剌としたアルバイトの少女に会った。なぜか、きびきびと働く彼女の姿に好感を覚えた。そこでコーヒーとケーキを頼んだが、財布を忘れてきたことに気がついた。そこで、ストレス・ケアセンターの人間だと名のり、次の時に払うことを約束して帰る。

◎ 彰二は病院の談話室で「O嬢の物語」を読んでいた。彼はいまだ性への関心が戻らなかった。といって、ヌード写真やエロ漫画では嫌悪を覚えるので、ひょとして活字であればと思いこの本を選んだ。そこでチィーカの少女に再会する。彼女は桐島智子と名乗った。彼は、偶然を驚きながらも彼女との再会を喜び、楽しく会話を続けていたが、彼女に昨日の料金を払おうと病室に戻った隙に彼女はいなくなった。「O嬢の物語」の文庫本が消え、そこには、彼女のノートが残されていた。そのノートの中には、性を描写したどぎつい詩集があった。部屋に戻った彼は、動揺せずにはそれを読むことができなかった。そして、なぜそのような詩集が置かれていたのか考え込んだ。

◎ 次の日、チィーカにいったが彼女はいなかった。仕方なしに、最寄りの駅まで歩いていると、偶然彼女が走り寄ってきた。そこで、彼女が病院にきたのは、お金をとりにいったのでなく、友達がいるから会いに来ていたことがわかった。彼女は詩集を読んでくれたか聞いた。「O嬢の物語」を読んでいるくらいの人だから、性についての真の意義や崇高さがわかってくれると思い、あの詩集を置いてきたのだという。その詩集は彼女の恋人である、24歳の詩人緒方哲郎が書いたものである。彼女の魅力に徐々に惹かれていく彼は、彼女の恋人が彼女のことを書いたという、性の詩集を読んで悶々とする。その疑念をはらすために、彼女と会うたびに、恋人のことを聞き出した。

◎ 彼女のことをカウンセラーの医師に話したら、少し心が乱れているから、彼女としばらく会わないようにと忠告される。しかし、忠告は無視し、彼女に会うためにチィーカに行く。そこで、彼女の友人山根美由紀と知り合う。彼女は病院の事務員であり、彼女の良き相談相手だった。そして、彼女から詩集がフランスの詩人ヴェルレーヌの作品であること、さらに、智子の恋人は架空の人物であることを告げられる。彼女からはそのことを堅く口止めされるが、彼は智子に真実を教えるべきだと考えていた。

◎ 智子と恋人とのデートは毎金曜日であったので、次の金曜日のデートの時、密かに彼女の後をつける。彼女は電車に乗り、目的地が近くなると、それまでの明るい表情から、人物が変わったように物憂げな印象に変わってしまった。下車した後、恋人とデートするように本屋に入ったり、ウインドウショッピングをしていた。そして、アパートに入り、横になって静かに目を閉じた。しかし、そこには彼女の恋人はいなかった。

◎ 彼女の行動をカウンセリングの時、担当医に話した。すると、担当医からは桐島智子を暖かく見守ってほしいと依頼される。彼女はゆっくり時間を掛けて治療していきたいから……。 しかし、その考えに彼は賛成できなかった。彼女の幻覚をさまして現実を知らせるべきだと考えていた。

◎ 次の金曜日のデートの時、彼はビデオで彼女の行動を撮影した。そればかりでなく、アパートで彼女が寝ている横に行き、彼女に話しかけた。彼女は最初は恋人の哲郎と勘違いするが、しばらくすると、彰二だと気がつく。しかし、彼は我慢できなくなり彼女と関係を結んでしまう。彼は、これによって彼女にとって特別な所へ、つまり恋人の哲郎を追い出し、自分がその位置を占めることができたと思った。しかし、それもつかのま、彼女は発作的にガス台に手をかざして自殺を図った。

◎ 彼は、復職後、管理職を解かれ、修理・研究部門に異動となった。そして、いつしか重要な仕事からも遠ざけられた。それは、彼が、どんなに重要な仕事の途中でも退社時間になるとすぐに帰ってしまうからであった。

◎ ストレス・ケア・センターを退院して一年が経っていた。匂いや色の感覚は戻ったが、意欲は全くなく、無為にその日を過ごしていた。唯一の楽しみは、美由紀に書いた手紙の返事であった。ある日、待ちかねた美由紀からの手紙で多摩湖畔までいった。そこで、美由紀からもう2度と手紙をださないでほしいといわれる。その理由は、智子の快復の障害になるからということだった。智子は自殺を図ってから、再度ストレス・ケア・センターへ入院し、今では美由紀と一緒に散歩できる程度に快復していた。しかし、何としても一目会いたい彰二は懇願する。それに負けた美由紀は、今回だけ智子を遠くから見ることを許した。

◎ 智子の頭の中には2人の男がいた。緒方哲郎と塩瀬彰二である。この二人の間で彼女は苦しんだ。あの金曜日を境に彼女の中では、二人が同じ大きさになり、二人の恋人が存在した。二人の人間を同時に愛することは、自分の両親と同じ過ちを犯すことであり、これは絶対に許されるべきことではない。自分では二人の人間を一人にすることができない智子は、両親のようになりたくないと思い、自分を罰するために、自分の存在を消してしまった。これが自殺の原因である。

◎ その後再度入院し、彼女が快復したのは、彼女の大事な場所にいた二人の男を一人にすることができたからである。この苦しい戦いは、彼女がまともに生きていくためにどうしてもやらなければならないものであった。彰二は期待したが、美由紀はそれは、塩瀬彰二ではないとはっきり否定する。

◎ 突然、智子が美由紀に近づいてくる。しかし、美由紀の傍らにいる彰二には全く気がつかない。彼女は美由紀に恋人が詩を書いたから見てくれという。そして、この恋人の名を彰二と言った。彼女は二人の男をミックスして、むりやり一人にした。つまり、外見と中身は従来の詩人で、名前だけ彰二とつけた。

 

U 私の感じたこと

◎ 彼女にとって、一番大事な人は一人でなければならなかった。それは、彼女のトラウマである。両親は不倫、浮気が原因で不仲になり離婚した。そして、家庭的な不幸が訪れ、彼女の精神的なバランスがくずれた。全ての不幸の原因が、二人の人を同時に愛することであった。また、再婚した母の夫婦生活を偶然見て、セックスとは汚いものとの罪悪感が強く芽生えた。

◎ 彰二と同室の岩崎は、自分がほんとうに存在するのか確信が持てなかった。そこで、彰二に何度も何度も、ビデオで自分を撮ってもらい、それによって自分の存在を確認するのだった。これは、この小説のテーマに深く関係する。幻覚でも(智子にとって幻の恋人哲郎)その本人がいると思えば、それが現実である。逆に、現実でも自分がないと思えば幻覚である。

◎ 架空の恋人を作るまではいかなくても、恋愛では、自分の恋人を頭の中で理想の恋人に仕上げていくことはよくあることである。

 遠く離れ、なかなか会えないと、その間に、頭の中で自分の都合のいい、理想の恋人にしてしまう。そのため、ひさしぶりに会うと、その現実と幻の間のギャップにびっくりする。

◎ 彰二という中年男の焦りが悲劇を起こした。彼女を失いたくない、彼女の唯一の男になりたいという、恋愛感情が根底にあるから、医者や友人の忠告が耳に入らない。結局、彼女のことをほんとに思っているわけではなく、自分の都合のいい方にもっていこうとする、男の身勝手さが強く感じられる。このエゴが彼女の精神の世界で起こっているデリケートなことを、急激に変化させようとして失敗をした。

◎ 智子の両親は離婚した。父親が浮気をして、よそに子供を作ったからである。離婚が決まるまで家庭が嵐みたいでたまらなくいやだったと智子は言っている。離婚後母に引き取られたが、母は智子に相談なく再婚し、すぐに2人の子供が産まれた。それによって家庭の中で、自分の居場所がなくなったと感じた彼女は、高校を中退し、アパートで一人暮らしをしながら、栄養士の学校へ通った。その時、バイト先の男性から交際を求められ、思いきって付き合ったのに、彼には他に彼女がいた。その彼女になぐられてショックで倒れた。めまいや呼吸障害が続いて記憶がなくなり、気がついたらストレス・ケア・センターにいた。それは、19歳の時だった。生きる自信をつけたのは、ある人と出会ったからである。それが、恋人の緒方哲郎であり、彼女は彼の命を救ったと思っている。しかし、それはすべて幻覚である。

◎ 塩瀬彰二の神経症の原因

 過度の仕事から来るストレスと疲労である。妻は、いつも一人だったという言葉を残して離れていった。働き蜂が家庭を犠牲にして、それに関係する人々を不幸にしていく。そんな離婚であった。彼の神経症の症状は、色や匂いの認識がなくなると同時に、性に関する関心と意欲が全くなくなることである。

◎ 桐島智子の神経症の原因

 父親の浮気が原因で、家庭が不和になり、やがて夫婦は離婚した。彼女によれば、離婚が決まるまでの夫婦間のけんかが、嵐のようで離婚そのものより嫌であった。この間の諍いが大きな心的な影響を彼女に与えた。また、母親が離婚後すぐに再婚した。これは、離婚の途中で再婚相手との付き合いがあったことの証明である。この嫌悪感の中で、母と義理の父とのセックスを見て、セックスとは不潔なものという認識から、セックス恐怖症になる。

 

 

 

V やすらぎの香り

 

V あらすじ

 奥村香苗(29歳)は、幼い頃から優秀な子であった。海外出張の多い父に代わって、母と姑の間に入って、何かと気を使っていた。言うことを聞かない弟と妹の分までいい子でいようと頑張ってきた。しかし、いろいろなことがあり、結局2流の大学しか出られなかったことや、離婚をするなど親の期待に添えないことが原因で、神経症にかかった。

 秋葉茂樹(28歳)は、両親が共働きのため、年の離れた姉に面倒を見てもらっていた。そのため、何かにつけて我慢する子になっていた。7才の時、姉と公園で遊んでいる時、姉が急に腹膜炎で苦しみだし、手当のかいなく病院で亡くなった。その時、それをただ呆然と立ちつくすだけで何もできなかったことが、彼の心に深い傷として残った。両親は姉の分まで頑張って生きなさいと、励ましてくれるが、それがかえって姉の死を自分の責任のように感じさせた。そこで、姉の分までいい子になろうと、今まで以上に我慢をし頑張るが、いくら頑張っても両親にとっては姉の代わりにはならないことが分かった。このトラウマの上に、カンニングや就職先での出来事が重なり、神経症にかかる。

 二人は同じ精神科のある病院に入院していた。症状が快復したので外勤作業に出ていた香苗は、宗教団体の勧誘で困っている所を、彼に助けてもらい親しくなった。いつしか、なくてはならない人になっていた二人は、アパートを借りて生活をするにした。しかし、本当に二人だけでやっていけるか不安であったため、誰の助けもなしに6ヶ月間やれるかどうか、試すことにした。そして、その試験に合格したら、正式に結婚をすることにした。二人はお互いに励まし合い、懸命にがんばって、約束の6ヶ月まで、後3日となった。彼女は、婚姻届けの用紙を武蔵野市役所に取りに行くが、用紙が欲しいと自分から言い出せない。気を利かせた女性職員が婚姻届けを渡してくれた時、緊張と安堵から気を失い病院に運ばれる。そこで自分が妊娠していることを知らされ、大きなショックを受ける。自分には子供を育てていく自信が全くなかった。気が滅入って何もする気が起きなかったが、彼にだけは気づかれないように、細心の注意をした。

 約束の6ヶ月目、病院に院長を始め、茂樹の両親と香苗の母と弟が集まり、結婚の承諾を与えようとしていた。後は香苗が婚姻届にサインするだけであったが、彼女はどうしようもない不安に襲われ、病院を一人抜け出す。後を追ってきた茂樹に妊娠の事実を告げるが、産む自信がないと言う。それを茂樹が励まし、二人で支え合って子供を育てて行こうと決意した矢先に、彼女が倒れ出血する。しかし、茂樹はその場に何もできず呆然と立ったままだった。それは、あの遠い日の姉の時と同じ状況であった。このことがきっかけで、茂樹は再度入院してしまう。彼女は、彼には責任がないとかばい、立ち直らせようとするが、彼の症状は改善しない。彼女の必死の説得が続く。「私だってつらい、良いときだけ、やさしくかっこいいことを言わずに、苦しい時こそ支えてほしい。」初めて彼女は、自分のいいたいことを思いっきり言った。

 彼女の愛が彼を少しづつ積極的にし、3ヶ月後退院した。退院した彼を駅に迎えに行くが、以前と同じように傘を取られても何も言い返せない。これでやっていけるのだろうか?と不安になった時、駅に降り立った茂樹がやさしく抱いてくれた。それは不安を取り除く、『やすらぎの香り』であった。

 

V 詳しい筋

◎ 奥村香苗(29歳)と秋葉茂樹(28歳)は、駅から歩いて20分ほどのアパートに暮らしていた。茂樹は、浅草橋の暗い倉庫で、機械ではできない特殊な形の箱を作っていた。また、香苗は、アパートから3キロほど離れた駅近くの仕出し屋で、食器洗いや料理の下ごしらえなどの裏方をしていた。

◎ 二人は神経的に病み、精神科のある病院に入院していた。症状が快復したので、社会復帰病棟に移り、数人の患者とグループを組み、スーパーに買い物に行ったりして、社会になれる訓練をしていた。そのような努力が実り、入院後1年が経過する頃には、香苗は一人で外勤作業に出られるまでに自信を回復していた。そんなある日の帰り、路上で宗教団体の勧誘に捕まり、どうしていいかわからずに困っているところを、同じ外勤作業に出ていた茂樹に助けられる。

◎ いつしか、心が通い合い、お互いに大切な人、なくてはならない人になっていた。病院を出ても帰る家のない二人は、アパートを借り、二人で生活をしていこうと決心する。しかし、本当に二人で、二人だけでやっていけるか不安であった。そのため、二人だけで誰にも助けてもらわないで6ヶ月間やれるかどうか、試験をすることにした。その試験に合格したら、周囲も認め、結婚を許可してくれることになった。そして、その間の約束として、必ず毎日二人の行動日記を交代でつけることになった。

◎ 二人はお互いに励まし合い、懸命にがんばって、約束の6ヶ月まで、後3日となった。

◎ 彼女は、二人の婚姻届けの用紙を武蔵野市役所に取りに行った。しかし、どうしても用紙が欲しいと自分から言い出せなくて、自己嫌悪に陥っている時に、気を利かせた女性職員が婚姻届けを渡してくれた。しかし、それまでの緊張と安堵から気を失い病院に運ばれる。そこで自分が妊娠していることを知らされ、大きなショックを受ける。自分には子供を育てていく自信が全くない。それどころか、育てていく権利があるのか。そんなことを深く考え込んでいると、アパートに帰っても、気が滅入り何もする気が起きない。ただ、そのことは絶対に彼には気づかれてはならないことであり、細心の注意をした。

◎ 約束の6ヶ月目が来たとき、病院に院長を始め、茂樹の両親と香苗の母と弟が集まり、二人を祝福し、結婚の承諾を与えようとしていた。いよいよ最後に香苗が婚姻届にサインするときになって、彼女はどうしようもない不安に襲われ、病院を一人抜け出す。後を追ってきた茂樹に妊娠の事実を告げるが、産む自信がないと彼女は言う。それを茂樹が励まし、二人で支え合って子供を育てて行こうと決意した矢先に、彼女が倒れ出血する。しかし、茂樹はその場に何もできず呆然と立ったままだった。それは、あの遠い日の姉の時と同じ状況であった。その時、駆けつけた彼女の弟が救急車を呼んで、彼女を病院に運んだ。

◎ 茂樹は彼女が流産し、苦しんでいる時何もできなかった。このことで、自分のトラウマ(姉が盲腸で倒れても自分は何もできなかったという悪夢)を思い出し、再び病院に入ってしまう。

◎ 流産をした彼女は、彼の行為をどうしようもない、仕方のない行動であり、責任はないとかばい、何とか彼を立ち直らせようとする。しかし、彼の病状はなかなか改善されない。彼女の必死の説得が続く。

◎ 私だってつらい、良いときだけ、やさしくかっこいいことを言わずに、苦しい時こそ支えてほしい。つらいことを一緒に引き受けてくれることが家族ではないの?彼女は自分のいいたいことを思いっきり言った。

◎ 彼女の愛が彼を少しづつ積極的にし、3ヶ月後退院した。退院した彼を駅に迎えに行く。彼女は、そこで、酔っぱらいに傘を取られ、それに対して何も言い返せない。茂樹にはたった一度怒りをぶつけることができたが、状況はほとんど変わっていないことを思い知らされる。これでやっていけるのだろうか?自分にやりきれなさを感じていた。その時、駅に降り立った茂樹が「何も言えなくても、無理に何かができなくても……いいんだ。なんとか、やっていける。そうだろう?」と言い、やさしく抱いてくれた。その懐かしい体臭は、彼女の不安を取り除く、やすらぎの香りであった。

◎ 香苗の神経症の原因

 両親と祖母、本人、弟と妹の5人家族であった。幼いころから成績がよく、両親から誉められていた。父親は海外出張が多く、姑とうまくいかない母は、3人の子供を抱えて苛立っていた。その二人の間に立って子供ながらにうまくいくように配慮をしていた。通知票は5か4で行動の記録も責任感がつよく評価が高かった。それに比べて弟や妹は出来が悪く、いつも両親はお姉さんを見習いさいと叱っていたが、彼らはほとんど聞かず両親も祖母もそれを仕方ないものとして許していた。そこで、弟や妹の分まで、親の期待に答え、いい子でいようと頑張ったが、小学校の5年の頃クラスで軽いいじめにあい、それが原因で不登校になる。その結果成績が落ち、親から、期待していたのにと叱られる。次の学期頑張り成績を取り戻し、妹や弟に「あなたたち、もうすこし頑張りなさい」と言ったら、「いい気にならないの」と叱られた。中学高校も成績はよかった。高校2年の時、自分のバストの大きさを不潔と感じ、バストを減らし体重を落とすために、食事をした後吐くようになった。平凡な大学生活を過ごし、大手の都市銀行へ勤めた。香苗が25才の時上司の進めで、資産家の男と結婚。しかし、その男は、自分の意志では何も決定できない、マザコン男だった。ある日、食後トイレで吐いている所を義母に見つかり、妊娠したと勘違いされる。しかし、実際は妊娠でないことがわかると、うそをついたと言いがかりをつけられる。それらが原因で離婚したが、実家には自分のいる場所がなかった。両親は、「あんなにいい子だったのに、どうしちゃったの」と彼女を責めた。その後、鏡に映る自分の顔が醜く見え衝動的に鏡を割り、心療内科のカウンセリングを受けた。そんな折り、妹の結婚の話が持ち上がり、自分がいないほうが良いと考え、家を出て外をさまよっていた所を警察に保護された。入院施設のある精神科の病院には彼女から望んで入院した。

◎ 茂樹の神経症の原因

 千葉の小さな商店街で婦人服店を経営している両親の間に、3人兄妹の末っ子として生まれた。両親は忙しく、彼の面倒は姉が見てくれた。しかし、姉には学校があり、兄とは8歳も離れていたので、一人で遊ぶことが多く、何事にも我慢をする子になっていた。 7才の時、姉といっしょに公園で遊んでいる時、姉が腹膜炎で苦しみ出す。茂樹は怖くて何もできなくその場に立ちつくす。そばにいた人の連絡で病院に運ばれたが、姉はそのまま亡くなった。両親は直接的には責めなかったが、「お姉ちゃんの分もがんばりなさい」と言われたことが、彼には姉の死を自分の責任のように感じさせた。そのため、姉の分までいい子になろうとがんばり、わがままを控え、勉強を頑張った。しかし、どんなにがんばりいい子になっても姉の代わりにはなれなかった。

 高校3年の時の学力テストでカンニングをした。カンニングをした部分は点数には関係なかったが、その後自己嫌悪に苦しんだ。二流の大学を卒業後、千葉に戻って、地元のプラスチック加工会社に就職した。しかし、入社早々の花見の場所取りが、押しが強くないのでうまくとれず、先輩社員に怒鳴られる。また、営業部では、言葉の表現が下手で、取引先との関係がうまくいかず誤解を与えた。このような仕事のストレスが原因で、茂樹は慢性的に下痢を起こすようになり、人前に出ることが、ままならなくなって、自分で退社した。その時、両親は「お姉ちゃんに申し訳ないと思わないか」と言った。

 25歳の時高校時代の友人が自殺し、その葬儀の時幻聴を聞いた。「どうだった、うまくやれたの、ちゃんとできた?」それから1ヶ月後、仕事中に気を失って病院に運ばれ、精神科の病院に入院した。

 

V 私の感じたこと

強迫神経症について

◎ 香苗は、雨が降ったので傘を持って、茂樹を駅に迎えに行く。彼が来るまでにいろいろなこと(普通の人にとっては何でもないことだが、彼女にとっては、精神的な安定を欠く重要なこと)があり、傘を駅の片隅に置いておかなければならなくなった。その時、傘のない若者達が現れ、それを勝手に持って行ってしまう。しかし、香苗は、それに対する抗議の言葉を口に出して言えない。そして、抗議できない自分を弁護するように、心の中でいろいろと言い訳を考える。

 しかし、人のものを持っていくことを、どんなに正当化しようと、いけないことであり、当然の権利として、言うべきである。しかし、彼女にはそれが言えない。言えないのは正常ではない、だから言わなければいけない。そう強く思えば思うほど言えない。これが強迫神経症だ。そしてまた、その言い訳を探す。

◎ 香苗は朝6時に起きる。起きてトイレに入り、用を済ませた後もしばらく便座に座ったままでいる。それは、トイレの中で、今日は昨日と違う、新たな一日が今始まるということを、一人の空間で時間をとって自覚することがどうしても必要だった。今日も生きてみよう……。そう自分に言い聞かせてトイレを出る。

◎ 外出する時、どれだけ慎重に、火元と戸締まりの確認をしても、心配になり、家に入って再び火元と戸締りの確認をする。それをいつも3回繰り返した。

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◎ ひとつのことが気になると、徹底的にそのことばかりが気になりだす。これを「とらわれ」という。心がひとつの所に止まって動かないためである。心は、本来「ころころ」といって、常に動いていることが普通である。それが、何らかの原因(神経症)で動かなくなる。人間はいろいろなことを、次から次へと考えているが、決してひとつのことをずっと考えているわけではない。電車の車窓の景色が次から次へと流れていくように、常に変化していくものである。

◎ 不安神経症、強迫神経症には、いろいろなパターンがある。具体的には、潔癖(清潔)恐怖症、電車恐怖症、対人恐怖症、赤面恐怖症、読書恐怖症等である。すべて、人から自分がよく思われたいと、強く願うことから生じる。神経質で物事を真剣に考え、向上意欲が旺盛な人、常に自分の価値判断の基準を人に置いている人等が、神経症にかかりやすい。

◎ 自分はそれほど重要な人間ではないと考えること。つまり、自分がいなくても会社が回っていったり、家庭が動くということがわかると、この症状から抜けられる。言葉は悪いが、いいかげんになることだ。もっとも、いいかげんといっても、神経症にかかるような人は、本来まじめすぎるのだから、それでも十分おつりがくる。

◎ 意識の固着(とらわれ)をなくするには、考え込む時間をなくすことである。つまり、忙しくすることである。手当たり次第、何でもいいから目についた仕事をしていく。面倒だからといって、後に延ばさず、次から次へと仕事をやっていく、それも精一杯やる。それによって、仕事に集中し、考え込むことがなくなる。

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◎ 家族の間で交わされる、何げない言葉が、その本人にとっては、決定的な言葉になる。最も身近で、接触の多い家族だからこそ、細やかな神経、細心の神経を使った付き合い、言葉を選んだ言い方が必要である。

◎ この小説の主人公達のように、親にいい子だと思われたいと強く願っている子が神経症にかかっている。それは、人の為に生きている、つまり、人からの評価で自分の価値を計ろうとしているためである。常に親に誉められたいというストレスはいかばかりであろうか?

 いわゆるいい子といわれている子供たちの問題点は、我慢をしてしまうことや、外に向かって自分をさらけ出すことが出来ないことである。自分は、もっと人生を楽しみたいし、人の目を気にせずに時には悪いこともしてみたい。自分の意見を思いっきり言ってみたいし、わがままも言ってみたい。それを、人に遠慮をして、抑えている。

 

 

 

W 喪われゆく君に

 

W あらすじ

 保志浩之(19歳)は、栃木の公立高校を一年で中退し、東京に出てきてコンビニのバイトをしていた。恋人の有本美季(19歳)は、東京生まれ、女子高を卒業して、美容師の専門学校にかよっている。

 クリスマスの夜、浩之がコンビニでバイトをしていると、30代後半の男性が、店に入ってすぐ倒れた。あわてた浩之が救急車を呼んだが、すでに急性心不全で死んでいた。しばらくして、この男性の妻宮前幸乃がコンビニに浩之を訪ねてくる。救急車のお礼と、その時の様子を聞くためだった。仕事中なので明日の3時頃に、近くのファミレスで待ちあわせをした。次の日彼は、恋人と遠出のツーリングに出かけ、帰りは8時半頃になった。しかし、彼女はまだそこで待っていた。彼女の真剣さに打たれた彼は、彼女に非礼をわびた。翌日の昼下がり彼は、彼女の家を訪れた。予想に反して、歓迎され部屋に上げてくれた。そこで、彼女の夫のコンビニでの様子を話す。彼女からは、夫との思い出話を聞く。二人は旅行と写真が趣味だったので、アルバムには二人の記念写真が一杯あった。その時浩之は、恋人を誘って、彼女と夫の想い出を辿ってみようと決意する。嫌がる美季を無理に誘い、想い出の写真と同じ場所で自分達も写真を撮って、その報告に、彼女の家を訪ねる。そんなことを繰り返しているうちに、浩之は、幸乃に惹かれていった。それは、自分の恋人にはない、大人の魅力であった。

 「彼の目ははるか彼方の、誰かを見ている。」それに、気づいた美季は、彼と二人で旅行をすることを拒否する。仕方なしに浩之は一人で旅をし、誰もいないアパートだけの写真を撮り、幸乃に会いに行く。それを見た彼女は、夫が亡くなったことを実感する。それと同時に、自分のせいで浩之とその恋人に亀裂を生じさせてしまったことを知り後悔する。そこまで、自分が彼の中で大きな存在となっていたとは知らなかった。この時を境に彼女は、彼の前から姿を消した。実家に帰ってやり直すためだった。しばらくして、彼女から手紙が来た。そこには、浩之と恋人がたどってくれた想い出のおかげで、夫との確かな年月を確認し、夫を喪ったという、実感を受け入れることができた。これで、再出発できると感謝の言葉が綴られていた。また、恋人を大切にと……。

 この手紙で、幸乃が夫を深く愛していたことを知った浩之は、幸乃を喪ったと思った。それは、彼女が死んだことと同じで、これからは想い出の中で、生かしていき、自分は、恋人と生きていくことを決意する。

 

W 詳しい筋

◎ 保志浩之は19歳のコンビニのバイトである。金髪に染めた髪と下唇の下に短いひげを伸ばしている。学校の成績はさほど悪くなかったが、栃木の公立高校を一年で中退して、東京へ出てきた。彼の恋人の有本美季は同じく19歳で東京生まれ、地元の女子高を卒業して、いまは美容師の専門学校にかよっている。夜は天丼屋で食器洗いをして、バイト代を学校の費用にあてている。彼女とは、今年の6月合同コンパで知り合った。

◎ 浩之がコンビニでバイトをしていたクリスマスの夜、30代後半の男性が、店に入ってきてすぐに、倒れてしまう。しばらく様子を見たり、足で蹴ったりしたが反応がなかったので、救急車を呼んだ。しかし、その男性は、すでに急性心不全で死んでいた。

◎ しばらくして、この中年の男性の妻宮前幸乃が、救急車を呼んでくれたお礼と、どのような状況であったか聞きたいと訪ねてきた。仕事中なので、次の日の3時頃に、近くのファミレスで待ち合わせをした。しかし、約束の日彼は、あえて恋人と冬の海を見るためにバイクで遠出をし、8時半頃にアパートに帰ってきた。その時、急に気になり、遠回りしてそのファミレスの前を通ったら、彼女がまだそこで待っていた。恐縮した彼は、彼女に非礼をわび誠実に対応した。

◎ 彼は、翌日昼下がりに、彼女の家を訪れた。理由は昨日彼女がファミレスで忘れたマフラーを届けることであった。予想に反して、彼女は彼が来たことを喜んでくれ、部屋に上げてくれた。亡くなった夫の位牌に手を合わせてから、浩之は、コンビニでの彼の様子を話す。その後壁に掛けてある写真から、彼女と夫との思い出話を聞く。二人は旅行と写真が趣味だった。そのため、アルバムには二人の旅先での想い出が一杯詰まっていた。アパートに帰った浩之は、なぜかこの夫婦が訪れた旅先に、自分の恋人の美季を無理に誘った。そして、想い出の写真と同じ場所で自分達も写真を撮って行くのだった。それから、その報告に、彼女の家を訪ねる。その時の彼女の楽しそうな顔と弾む会話。それを楽しみに、また、新たな思い出を訪ねる旅を浩之は続ける。

◎ 浩之は、幸乃に惹かれていく自分を感じる。自分の恋人にはない、大人の魅力に惹かれる。それは、彼の気持ちとは裏腹にどうしようもない、本能の叫びであった。自分の恋人と彼女の思い出をたどる旅をすること、それは自分の中で幸乃の存在を確かめるものであった。もちろん、幸乃に会うための言い訳にしていたし、それを続けている限り彼女に会えると考えていた。

◎ 幸乃にとっては、浩之とその恋人が自分達の思い出をたどっていく旅は、自分と夫とのつながりの確認であり、二人の愛の存在を確認する行為であった。これが、浩之の幸乃への恋心からの発想であることを、彼女はわかっていたのだろうか? もちろん、賢い彼女のことだから全然気づいていないわけがないだろう。いや気づいていない振りをして、若い浩之との恋愛ごっこを、ほんの少し楽しんでいたのかもしれない。

◎ そんな、旅もいつしか恋人の疑いを招く。「彼は自分を見ていない、彼の目ははるか彼方の、誰かを見ている。」それに、気づいた美季は、彼と二人で旅行をすることを拒否する。仕方なしに浩之は一人で旅をし、写真を撮った。そのため、幸乃と夫が暮らしていたアパートの前の写真では、いままでなら二人が写っていたのに、ただ古くてさびしげなアパートだけしか写っていなかった。

◎ それを見た彼女は何かに気が付く。きっと、誰もいないアパートをみて、夫が亡くなったことを実感したのだろう。また同時に、自分の都合で浩之とその恋人に亀裂を生じさせてしまったと感じた。そこまで、自分が彼の中で大きな存在となっていたことを知らされた。

◎ 急に帰ってほしいと言い、彼が帰った後、バルコニーに出て、枯れた花の植木鉢を掘り起こした。そして、球根を見て、「なんで、なんでなの……」と繰り返しつぶやいていた。

◎ これを最後に彼女は浩之の前から姿を消す。彼女は実家に帰ったのだ。しばらくして彼女から浩之に手紙が届く。その手紙の中で、2週間前にバルコニーで枯れたと思った鉢を掘り返してみたら、まだ生きている球根があったので、こちらに来て植え替えたことが書かれていた。生きている球根を見つけた時、胸が痛んだと同時に、植え替えればきっとまた花が咲くことを強く信じたことが書いてあった。

◎ 今は、実家に帰り仕事をしている。そんな気持ちになれたのは、浩之のおかげであると感謝の気持ちと共に、浩之と美季はお似合いの関係だから、恋人を大切にしてくださいと書いてあった。

◎ このままいけば、浩之は自分に深く入り込んで、彼を不幸にする。彼を幸福にすることができるのは、恋人の美季だけだ。そんな気持ちで書いた手紙だった。

◎ この手紙で、彼女が夫を深く愛していたことを知った浩之は、彼女を喪ったと思った。それは、彼女が死んだことと同じで、これからは想い出の中で、生かしていき、自分は、恋人と生きていくことを決意する。

 

W 私の感じたこと

◎ 誰も写っていない写真を見て、幸乃は夫を喪ったことと、同時に浩之を喪ったことを実感した。でもひょっとしてという気持ちを抱いて、バルコニーへ出た。枯れたと思っていた球根でも生きているものがあるかもしれない。そんな気持ちで彼女は、植木鉢を掘り返してみた。そして、生きていた球根を見つけ、植え替えた。この球根は、浩之達恋人であり、まだ生きているから大丈夫やり直せるという浩之へのメッセージである。もし、自分が掘り返してやらなければ(つまり自分が浩之から遠ざかること)、二人の関係は死んでしまう。そんなようなことをこの行為は暗示しているのかもしれない。

◎ 幸乃は、浩之と恋人がたどってくれた想い出のおかげで、夫との確かな年月を確認し、それによって、夫が亡くなったという、実感を受け入れることができた。それによって、夫を忘れ、(現実から想い出の中で生きる夫へ、変化させることができた)死を受け入れることができた。彼女にとっての再出発である。

◎ 彼女にとって、突然の夫の死は、現実感がなく、とても受け入れられなかった。その突然の死は、今までの夫婦生活から恋人時代の思い出まで、すべてなかったもの、実在感のないものにしてしまった。それを、現実のものにすることができた時、夫の死を現実のものとして受け入れることができると幸乃は考えていた。ただ、それを確認するために、自分に好意を持っている浩之を不幸にすることはできない。彼女は、浩之を愛することで、夫を裏切ることはできなかった。夫を深く愛していたのだから。

◎ 表題の喪われゆく君は、幸乃にとっては夫であり、浩之である。また、浩之にとっては幸乃である。

 

 

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