永遠の仔

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作者のプロフィール

天童荒太 永遠の仔(上)(下) 出版社 幻冬舎

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1960年愛媛県に生まれる。

◎ 明治大学文学部演劇科卒

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1992年 栗田教行(本名にて) 『白の家族』(角川書店) 第13回野性時代新人文学賞受賞 

◎ 文筆活動を休止して映画の世界へ  『ZIPANG』『アジアンビート』の原作、脚本

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1993年 『孤独の歌声』(新潮文庫) 第六回日本推理サスペンス大賞受賞優秀作を 受賞

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1996年 『家族狩り』(新潮社)第9回山本周五郎賞を受賞

 

あらすじ

 1993年に第6回日本推理サスペンス大賞優秀賞を受賞した「孤独の歌声」(連続猟奇殺人事件をめぐる主人公達の孤独とそれからの脱出)から6年、第9回山本周五郎賞を受賞した前作「家族狩り」からは3年、読者待望の長編作品である。この作品は、幼き日に受けた心の傷(トラウマ)は、人の運命をいかに翻弄するか、そして、そこからの救いはあるのかをテーマにしている。

 主人公の三人はかつて一年間だけ、愛媛県松山市にある県立双海(ふたみ)小児総合病院の小児精神科に入院していた。そこは、周りから“動物園”と呼ばれ、患者にはその症状を示す動物の名が付けられ、そのあだ名で呼ばれていた。

 勝田生一郎は、次々と男を引っぱりこむ母親に、その行為の間、いつも押し入れに閉じこめられていた。そのため、閉所恐怖症、暗黒恐怖症にかかり、暗闇を極端に怖がった。そこで、モグラの英語名であるモウルと呼ばれた。有沢梁平は、母親から煙草を押しつけられ、全身が火傷の痕だらけで、キリンの肌に似ていた。そこで、キリンを意味するジラフと呼ばれた。久坂優希は、父親からの性的虐待により、情緒不安定になり自分の体を傷つけ、自分の体が汚いと思いこんでいた。彼女は、病院に入院するときに、近くの海に、裸で海に飛び込んだことから、イルカを意味するルフィンとジラフとモウルから名付けられた。

 モウルとジラフは、人生をやり直すために病院から逃げようと準備をしていた。そんな時、見知らぬ少女が、病院の前の海に、真っ裸で走って行くのを見た。それは、人魚のようであった。二人は、この瞬間自分達を救ってくれる女神が現れたと思った。「一緒に連れていってくれ」「俺達を救ってくれ」と叫びながら少女を追いかけた。この少女が、

12歳の久坂優希であった。病院に入院することを嫌がっていた優希であるが、医師から、治療のため登山訓練があり、神の山に登ると聞いた時から、それによって自分が生まれ変われるかもしれないと考え、入院に応じる。その日から、病院のルールに沿った生活が始まる。初めは心を閉ざす優希であったが、モウルとジラフの積極的な働きかけと、この二人に自分と同じ臭いを感じたことから、徐々に心を開いて行く。しかし、父親からの性的虐待は続き、優希の心は一進一退であった。

 そんな嵐のある日、優希が行方不明になった。山にいるに違いないと確信した、モウルとジラフは病院に黙って、優希を探しに行った。優希は予想通り楠木の洞穴にいた。そこで3人は、それぞれのトラウマについて語った。優希にとって、母以外の人間には初めて語ったことであり、何か肩の荷がおりるような安心感を感じた。また、二人の虐待を聞き、やっと自分と同じ人間をみつけられた安堵感でいっぱいであった。しかし、モウルとジラフは自分達の女神の、壮絶な告白に息をのんだ。自分達が救われるには、彼女を救わなければならない。そのためには、彼女の父をなんとかしなければならないと、二人は決意をした。そして、彼女も自分が新しく生まれ変わるには、父を殺さなければならないと考えていた。その恐ろしい計画の決行は、卒業記念に保護者と共に登る、西日本の霊峰「石鎚山」で行うことになった。しかし、それをやらなくても救われる道はある。霊峰に登れば神がいる、彼なら自分達をきっと救ってもらえる。こう考えていた3人は、この恐ろしいことを本当にやるとは、最後まで信じていなかった。しかし、苦労して鎖場から頂上に登った彼らであったが、自分達を救ってくれる神は見つけることができなかった。やはり、自分達の救う道は自分達で切り開くしかない、そう再び決意をした。はたして、霧の深い山道で、彼女の父は足を滑らせ谷底へ落ちて死んだ。警察は、事故死と断定したが、本当は誰が殺したのか?この、父親の死は、3人の運命に大きな影を落とす。3人にとって共通のトラウマとなった。また、モウルとジラフは、密かに彼女の父親を殺した方に、彼女をとる資格があると約束を交わした。この資格のために、モウルもジラフも優希を愛することをできず、新たな不幸が生まれた。なぜなら、モウルはジラフが、ジラフはモウルが殺したと思っていた。さらには、優希は自分が殺したと思っていた。この錯覚が、3人の運命を翻弄する。

 四国の霊峰「石鎚山」で起きた、あの恐ろしい事件から月日が流れ、17年後の1997年。運命の糸に導かれるように、29歳になっていた3人は再会する。3人は退院後、それぞれ努力をし、立派な社会人として活躍していた。しかし、子供の頃に受けた心の傷は癒えず、その傷によって、今の生活は大きく規制されていた。3人は、双海病院時代に楠木の穴で誓ったことを、心の支えに生きてきたが、暗黙の内に、それを再び期待する3人であった。

 現在の優希は、神奈川県川崎市にある、多摩桜病院の老年科病棟の看護婦(主任補)であった。双海病院を退院後、叔母の世話で川崎市で家を持ち、母の志穂、弟の聡志と3人で暮らしていた。彼女は、自分の体験を活かし、医者になるためにがんばっていたが、家族(特に聡志の大学資金)のために医大をあきらめ、看護婦になった。看護婦になってからの彼女は、何かにとりつかれたように、夜勤に明け暮れ、献身的で、異常なほどの働きぶりであった。女を捨て、一生結婚しないつもりだった。それは、母の志穂から見れば、自分への復讐をしているように感じられた。また、弟の聡志は、家族の期待を一心に集め、司法試験に2回目で合格し、今は独立した祥一郎の事務所で働いていた。しかし、子供の頃から自分には知らされない、家族の秘密を感じていた。

 その優希の前に、ある日、アルツハイマーを患った母親のまり子を伴って、弁護士の笙一郎(モウル)が現れる。彼は、退院後母の離婚で名字が勝田から長瀬に、名前も生一郎から祥一郎に変わっていた。病院にいる頃から、法文を暗記するのが得意であったが、弁護士になるために、新聞配達などの苦労をし、高校中退後は大検を受け、大学に籍をおき司法試験一本に絞った。弁護士になってからは、商法方面を得意とし、若くして独立した事務所を経営する。法学部に通う聡志を偶然見つけ、優希のことを調べた。今は、聡志を一人前の弁護士にするために、事務所に預かっている。聡志をいろいろな面でかばい、援助している姿は、優希への愛情の肩代わりである。彼は、結婚をするつもりもない。時々、コールガールを買うが、決してセックスはしない。というよりできない、彼は不能である。母のまり子はあいかわらず男を代えては、家を飛び出し行方不明であった。それが、3ヶ月前、同居している男から電話で、母を引き取って欲しいと言って来た。彼女は、アルツハイマーを患って、一人で生きていける状態ではなかった。困った彼は、優希の勤め先を思い出し、病院に彼女を訪ねた。

 有沢梁平は神奈川県警の刑事であった。退院後、養父母に引き取られ香川県に行き、高校・大学と進み、警察が受かると一人暮らしを始めた。神奈川県警に勤めたのは、そこしか受からなかったと彼は言うが、明らかに優希を意識したものであった。また、職業柄彼女の身元を調べるのは簡単であった。優希の勤め先に、時々無言電話がかかってきた。それは、梁平のしたことだった。彼は、犯罪を憎む気持ちが人一倍強く、特に幼児の虐待に対しては異常な反応を示す、正義感に満ちた刑事であるが、その行動は暴力的にも見える。それは、幼き日父親から受けた暴力の影響である。彼には、早川奈緒子という恋人がいる。彼女の父は警察官であるが、職務上でけがをしたために、居酒屋を始めた。父の死後、それを任され、一人で切り盛りしていた。父の職場の仲間に助けられて店をやっていたが、その中に梁平がいて、お互いに惹かれた。彼には、伊島という上司がいて、何かと面倒を見ていた。伊島は奈緒子の父とも親しく、彼女の親代わりのような立場であり、二人の結婚を強く望んでいた。また、梁平も彼と馬が合うのか、彼を尊敬し、彼の言うことにだけは従った。

 必要以上に、患者のためと自分を犠牲にし、懸命に働きつづける姉。そして、ある日を境に急に優しくなり、全て自分に譲ってくれた姉。父の事故のことをかたくなに隠す母。これらをおかしいと思った聡志は、家族には自分に言えない重大だ秘密があることを察する。その秘密を探り真実を知るために、祥一郎から休暇を取り、愛媛県の双海総合病院を訪ねた。そこで姉が入院したのは小児精神科であることを知ったが、それ以上は知ることができず、謎はますます深まるばかりであった。また、石鎚山に登り、図書館で新聞を調べ父の事故も知った。そんな、聡志の行動に危機感を持った祥一郎はそのことを優希と梁平に伝えた。この聡志の過去を探る旅の始まりと共に、3人の周辺には多くの不吉な出来事が起こっていく。多摩川の川辺で起きた2つの殺人事件。一つは、「親の気持ちを考え、親を大切にしろ」と言った、年輩のバーのママ。もう一つは、自分の娘にシャワーで熱湯をかけ、やけどを負わせた母。この事件の真犯人は誰か?

 聡志は、自殺した母の遺書から、家族のそして姉の秘密を知る。そして、その秘密を永遠に葬るように、母と共に家を燃やした。そして、優希の元を訪れ、母の遺書を渡し、自分が母を殺し家に放火したと言った。弟の言葉に導かれるように、家に帰った優希が見たものは、母の焼けた遺体と小さな家の焼け跡だった。こんな小さな家を守るために、自分達は何をしてきたのだろうと、遠くなる意識の中で優希は考えた。

 伊島は、この殺人と放火だけでなく、多摩川で起きた2件の殺人も聡志の犯行と考え、聡志の行方を必要に追っていた。そんなおり姿を隠していた聡志が、祥一郎をこっそり訪ね、姉を支えてやって欲しいと言いに来た。それを張り込み中の伊島に見つかり、逃げる途中トラックにはねられ、重傷を負い手当のかいもなく死ぬ。

 奈緒子は、梁平の子供を妊娠していたが、梁平に生むなと強く反対され、悩んでいた。彼女はどうしても子供が欲しかったので、梁平には、店をたたんだ金で、子供は自分が立派に育てると言っていた。結局子供は流産をするが、それが自分のせいであると、罪の意識に苦しんだ。いっそ死のうと刃物を手に当てるが、一人で死ぬのはさびしいと思い、祥一郎を呼ぶ。祥一郎は不能であった。しかし、奈緒子の暖かく柔らかい肌に触れ、初めて男として役立った時、彼は約束通り奈緒子の首を絞めていた。そして、彼女の悲しい気持ちを梁平に伝えるために、祥一郎は、包帯をその部屋において立ち去った。その包帯は、優希が初めて双海総合病院に来て、突然海に向かって走り出した時に彼女がしていた包帯であった。この包帯を二人はお守りのように大切に持っていたのだ。

 祥一郎は、母のまり子を老人医療施設に入れるために必要な、

5000万円の金を、弁護士という地位を利用し不正に作った。彼は、3つの殺人(多摩川の2件と奈緒子)の他に、肺ガンのため、もう先はないと思っていた。そこで、最後の後始末をした後、優希に自分の罪を告白する。優希は、それでも祥一郎と一緒に行きたいと願うが、祥一郎は承知しない。自分には資格がない、これは自分にとって天の声だ。彼は、母まり子に銃を握らせ自殺をする。

 優希は母の遺書を読んだ。そこには以外な事実が述べられていた。父を押したのは母であった。そして、そこにつづられた母の自分に対する愛の深さを知り、救われた思いがした。離島に看護婦として勤める優希には、自分を理解し、自分を認めてくれた、モウルとジラフがいる。モウルは死に、ジラフとは遠く離れたが、二人の思いは彼女の心から離れることはなかった。3人で確認した「生きていていいんだよ」この言葉に、支えられて彼女は、これから力強く生きていける。それは、梁平も同じであった。

 

詳しい筋と感想

(導入)

◎ 小説は、1979年(原因)と1997年(結果)を交互に語るという構成をとり、子供達の受けた虐待や心の傷が、現在の主人公達にどのような影響を与えているかを、明らかにしている。現在に起きた殺人が遠い昔の出来事が原因であるという手法は、ミステリでは良くあるが、この小説のように、時空を超えて交互に話が進められることにより、少しずつ真実が見えてきて、読み手を飽きさせない。

◎ 話の展開は、一応3つの殺人事件の犯人を捜すという、ミステリの手法がとられているが、単なるミステリの領域を超えた、偉大な作品に仕上がっている。現代社会の病理(被害者の立場に立たない社会)を鋭くえぐり、問題提起した内容は重く、かつ重要である。

◎ 1999年の暮れから正月に掛けて一気に読んでしまった。(トイレに行く時間も、寝る間も惜しむような作品は、本当に久ぶりである。)また、一気に読まなければ、つらくて読めない作品でもある。読み終わった後は、言いようのない重さ、救いのないむなしさ、出口のない閉塞感に包まれたが、強く心を揺さぶられた。この作品よって、私は天童荒太の大ファンになり、彼の作品、彼の考え方を知りたくなった。

(生い立ちから双海病院入院中まで)

◎ 主人公の三人はかつて一年間だけ、愛媛県松山市にある双海(ふたみ)総合病院の小児精神科に入院していた。

◎ 双海総合病院の小児精神科に入院している患者は、それぞれの症状の特徴を示す、動物のあだ名で呼ばれていた。それは、差別を示すものではなく、彼らとうまくやっていくためのルールのようなものだった。勝田生一郎は、次々と男を引っぱりこむ母親に、いつも押し入れに閉じこめられていた。そのため、閉所恐怖症、暗黒恐怖症にかかった。そこで、モグラを意味するモウルと呼ばれた。有沢梁平は、母親から煙草を押しつけられ、全身が火傷の痕だらけで、キリンの肌に似ているので、キリンを意味するジラフと呼ばれた。久坂優希は、父親からの性的虐待により、情緒不安定になり自分の体を傷つけ、自分の体が汚いと思いこんでいる。彼女は、入所の時、裸で海に飛び込んだことから、イルカを意味するルフィンとジラフとモウルから名付けられた。

◎ 主な入院患者のあだ名は以下のようであるが、全て動物(英語)の名前である。これは差別ではなく、相手に対する注意、お互いの安全のためのものだった。

 メア……牝馬、気性が荒く、逆らうと馬のように人を蹴る。ラトル……ガラガラヘビを英語にしたラトルスネークの略。母親が自分の前で睡眠薬自殺したのに、自分が寝ていて、音を出すことができずに母親を死なせてしまったことを悔やんで、音をたてる癖がある。リザ……トカゲを意味するリザードを略して。彼女は拒食症。やせたいあまり、自分の肩の肉をそいだことがある。イフェメラ……カゲロウの英語名。はかなく死ぬことばかり言う。自殺を何度も繰り返す。アダ……マムシのアダーから。昔はひ弱でいじめられていた。今はその復讐のため体を鍛えている。テイパー……夢を食べるバクのこと。部屋中を自分の好きなぬいぐるみや人形で飾り、毎日夢見るような生活をしている。

◎ 初めて、優希が病院を訪れた時、車で走って来る間に海を見た。まばゆい光に包まれた海は、自分の汚れを清めてくれるような気がした。そこで、病院に着くと、両親のわずかな隙をねらって、裸で海に走っていった。

◎ 双海総合病院に入院していた、ジラフとモウルは、遙か以前から病院を抜け出し、誰にも干渉されない場所に行き、二人でやり直したいと思っていた。そのための食料などの準備は万端であったが、なぜか決心がつかなかった。自分達を救い導いてくれる人の存在を密かに待っていたからだ。

◎ そんな時、二人の目の前を、裸の少女が海に向かって走っていくのが見えた。見た瞬間二人は、自分達が待っていた天使に巡り会った気がした。そこで、「一緒に連れていってくれ」「俺達を救ってくれ」と叫びながら、夢中になって優希を追いかけて、一緒に海に入った。二人にとって、優希は、この世界を捨てて、別の世界に行こうとしている人魚か天使のように見えた。

◎ 優希は、死ぬつもりで海に入ったものの、心とは裏腹に体が反応し、死ぬことはできなかった。その時、優希が浜に捨てた包帯を、二人は半分づつ拾い、宝物として大切に保管した。

◎ 生一郎(モウル)が双海病院に入院した経緯。小学校の時、犬や猫をウサギ小屋に放り込んだり、下級生を体育倉庫に一晩中閉じこめたりの問題行動があったため、担任が罰として、物置小屋に彼を閉じこめた。彼は、過呼吸症状を起こし、我を失い、便をして、自分のからだになすりつける行動をとった。意識障害を起こしたモウルは病院に運ばれた。モウルは、退院したのち、罰を加えた教師の自宅に放火した。幸い、ぼや騒ぎですんだが、モウルは児童相談所に送られた。

 だが、児童相談所内の一時保護所で、同室となった中学生の少年が、生意気だと、モウルを殴った。モウルは、少年が眠ったあとに、保護所の玄関先に飾ってあったサボテンの鉢を運び、少年に声をかけ、相手が目を開いたところで、サボテンを顔に叩きつけた。

◎ 梁平(ジラフ)が双海病院に入院した経緯。梁平は、煙草を吸う女をみると、胸がむかつき、落ち着きがなくなる。小学校4、5年生の時、煙草を吸っている見知らぬ女に殴りかかり、気を失った。そのことで、

11歳の時双海病院に入院した。退院後は、少しは我慢することができるようになったが、完治したわけではない。

◎ 優希が双海病院に入院した経緯。双海総合病院に入院する3ヶ月前、優希は拒食と不登校が深刻になり、地元にある小さな精神科のクリニックに通った。

70歳を越した老医師との週一回のカウンセリング中に、「なんでもいいから話してごらん」と言われ続けた。

このことに腹を立てた優希は、医師を罵倒し、病院を飛び出し夜の繁華街に行った。そこで、問題行動を起こし入院した。

◎ 病院に入院することを嫌がっていた優希であるが、医師から、治療のため登山訓練があり、神の山に登ると聞いた時から、それによって自分が生まれ変われるかもしれないと考え、入院に応じる。絶対的な存在(神)によって、自分を許してほしかった。お前は悪くない、お前には責任はない。生きていていいんだと、言ってほしかった。普通はこれは親の役目である。

◎ その日から、病院のルールに沿った生活が始まる。定期的にカウンセリングが行われたが、優希はほとんど話をしなかった。そんなある日、カウンセリングで医師の土橋から「悩みは人に話すことで楽になる。」「誰でも悩みを話せる相手がいるかどうかで変わってくる。そういう人を見つけるといいよ」と言われた。それに対して、優希は「人はどんなに重くてつらい悩みを打ち明けられても耐えられると思う?」と問い返す。「それは人にもよるけど……」との土橋の答を受けて、「どんなひどい悩みでも耐えられるとしたら、何も感ぜずに聞いているからよ。耳では聞いている振りをして、心は閉ざしているからよ。本当に相手と同じ心で受け止めようとしたら、きっとつぶれてしまう悩みだって、あるんだから」

◎ 初めは心を閉ざす優希であったが、モウルとジラフの積極的な働きかけと、この二人に自分と同じ臭いを感じたことから、徐々に心を開いて行く。しかし、父親からの性的虐待は続き、優希の心は一進一退であった。

◎ 登山訓練が受けたいばかりに、一生懸命にリハビリに励む優希であった。その成果が上がり、病院から外泊の許可がおりるようになった。土曜日に両親が迎えに来て、日曜日の夜に病院に帰るという外泊である。そんなある外泊の日、聡志が

39度を超える熱を出し、病院に入院し志穂が付き添うことになった。そのため、雄作一人が優希を病院に送って行くことになり、帰りの車のなかで、ホテルに行くように誘われた。それを断るために、いつものように右腕をかんだ。そして、病院に帰ると翌日、タンクから飛び降り大けがをし、手術をした。

◎ ある日、優希が行方不明になり、モウルとジラフが探しに行き、明神の森にある楠木の洞穴で、3人はお互いの秘密を打ち明ける。人は自分の秘密(悩み)を人に話すことで、そのほとんどが解消するといわれる。ただ、この3人秘密は現在進行形であるし、あまりに大きい問題で、話しただけで解決するわけがない。しかし、話したことで心が随分軽くなったことは確かである。特に、優希にとっては母親以外に、初めて話したことで、彼らに自分の心を開くきっかけになった。

3人の友情の絆は、誰にも言えない秘密を共有したことにある。ただし、友情というより、モウルとジラフにとっては、優希に淡い恋心を感じていたと思う。二人は恋のライバル、優希が最も望むこと(父親を殺すこと)を実行した方が、彼女を愛する資格がある。そんなふうに、二人には暗黙の了解があった。

 特に彼女を愛していたモウルは、彼女の父を山で、押すことができなかったことを悔やんだ。(父親を殺すのは、自分かジラフのどちらかしかないと思っていた)俺には資格がない。そう思いこんだ所に彼の不幸があった。

◎ 有沢梁平(ジラフ)のトラウマとその影響

 母親からたばこを押しつけられ、体中にキリンのようなあざがあることから、このあだ名が付けられた。母親は、何度か登場するが、それでも影が薄い。まして、父親などはほとんど出てこない。義理の親になる父の従兄弟夫婦が養子を申し出たとき、この父が「勝手にしてくれ」と言った言葉が、印象に残るだけである。

 母親のイライラは、夫婦の不仲と祖母が原因であるが、それにしても、両親がそろっていたのに、愛されなさすぎることが悲しい。両親から愛された経験がないため、人を愛する方法を知らない。自分を愛し、理解しようとする奈緒子に対して、最もあってはならない愛の形を取ってしまう。自分流の愛し方しかできず、それは、自己中心的な愛である。

 成人して、刑事を選ぶ。彼の正義感は尋常ではなく、時には暴力的である。(父親の暴力の影響)裁判や法律などのまどろっこしい、手続きではなく、極悪人は自分の手で決着を付けようとする。特に、幼児の虐待には、敏感で我を忘れてしまう。少年を犯した犯人に対して、さんざん殴ったあげく、銃口を彼の口に突きつけるシーンは、鬼気迫るものがある。さらに、助けた少年を病院に見舞い、大声で犯人に怒りの声をあげさせ、「自分のせいではない」ことを何度も何度も繰り返し確認させた。「自分のせいではない」だから「自分を許せる」彼は、こう考えたのだろう。犯人を徹底的に憎み、悪いのは自分ではない。自分には責任はない、だから自分は許される。これは、彼の経験からでた行為であるが、肝心の彼は、母を憎み、自分のせいではないと、自分を許したわけではない。人にしてあげることと、自分が自分にすることとは違う。彼は、いまだに自分を許していない、また、許せない自分も許せない。

 彼の恋人として、早川奈緒子がでてくる。彼女は警察官の父を持ち、父の死後、今の居酒屋を始めたが、警察仲間に可愛がられ、何とか店をやっていた。彼女の控えめで、人に可愛がられる性格を見ると、幼児期に虐待された経験はないと思う。そのため、梁平の心の奥が理解できなかった。しかし、賢明に理解しようと努力する姿がけなげであるが、ことごとく梁平から拒絶される。梁平からの拒絶がなければ、彼女は彼を救ったであろう。なぜなら、彼を理解し寄り添っていけるタイプであったから。

 梁平は、自分勝手で、相手を傷つけてばかりいる。彼女が妊娠したことに腹を立て、ハツカネズミを2階から段ボールごと捨ててしまうシーンがある。どんな気持ちで、彼女がそれを可愛がっているのか、理解できない。生き物を愛することは、人間を愛することと、共通するものがある。彼は母の愛を知らない。そのため、愛し方を知らないのだ。

 梁平にとって、自分の子供が産まれるのを極端に怖れていた。それは、自分が親から受けた虐待を、子供にもしてしまうのではないかと考えたからである。それなら、最初から生まれない方が幸せであり、自分で、この連鎖を断ち切ってやろうと思った。

 梁平の暴力的な所、自分勝手な所に、優希は自分の父親雄作を見たのではないか?それで、だんだんと彼から遠ざかり、心が祥一郎に傾いていった。

◎ 勝田生一郎(モウル)のトラウマとその影響

 母親が男を家に連れ込むので、そのたびに押入に、それも長い間閉じこめられ、閉所及び暗所恐怖症と性的不能になる。モウルとはモグラのこと。彼には父親の存在が見えない。母は、次々に男を変えるが、その時は彼女なりに真剣に結婚を考えている。また、モウルに対する愛も、普通の母親に比べれば、異質であるが、彼女なりの愛情を注いでいる。そういう意味で、モウルはジラフと違って、人の愛し方を知っている。相手の気持ちを考え、優しく接することができる。この違いに優希は惹かれたのだろう。

 成人して、彼は弁護士になる。3人とも、恵まれない環境を克服し、高校、大学と相当の努力をしたから、現在の職業に就けたと思うが、特に祥一郎は弁護士であり、並大抵の努力ではなかっただろう。経済的にも、家庭的にも恵まれない彼が、弁護士になろうとしたのは、母親にほめてもらいたかったからである。母親にほめてもらう、見返してやろうという一念からがんばったのだろう。母を優希に置き換えてもいいと思う、心の底では優希のためという気持ちもあったと思う。普通彼のような境遇から、弁護士のようなエリートになれば、おごり高ぶり、傲慢になるのに、あのようにやさしく、細やかな神経の持ち主になったのは、天性のものであろうか?虐待の連鎖、暴力の連鎖を覆す事実である。

 彼は資格がないと思っていた。ジラフが、彼女の父親を山で押したと、死ぬまで思いこんでいた。彼女を好きなのに、好きと言えない事情の裏には、このことがあった。彼女のために手を下した者が、彼女を取る権利がある。こんな勝手な男の論理のために、彼は彼女を救えなかった。悲劇の一端はここにあった。

 彼女を愛すれば愛するほど、彼女を愛してはいけないという気持ちが強くなる。そのジレンマの中で愛は更に深まる。彼女を権利のある梁平となんとか引っ付けようとする。そのことがかえって不自然に優希には映る。彼女への果たせぬ思いに悩むとき、2つの殺人を犯す。一つは、自堕落なバーのママの中に、自分の母親の過去の姿を見たために殺し。もう一つは、幼い女の子にシャワーの熱湯をかけ、やけどをさせた母親を殺した。それは、母親に責任が行かないように、シャワーの熱湯は、自分がかけたと言う子供に、自分の幼い時の姿を見たからだった。

◎ 久坂優希(ルフィン)のトラウマとその影響

 父親から性的な虐待を受け、自分を汚い人間と思い、情緒不安定になり、双海総合病院の精神科に入院する。彼女にとって父親と離れることが最良の薬であるのに、完治すると、その父親の待つ家庭に帰らなければならないという、ジレンマがある。

 彼女は、成績も良く、素直な性格の女の子であった。何でも優希の責任にしたがる母親より父親が好きであった。父とお風呂に一緒に入ることも特に不自然には感じていなかった。それが、小学校4年生の時、父から性的な関係を迫られた。彼女は、自分が女であることがその原因で、その罪の意識から自分は汚れていると考えていた。しかし、全ての責任は、父親の弱さにある。父親はいろいろなことに不満を持っていた。仕事がうまくいかないことや、妻や実家が裕福なことを鼻にかけ、自分を馬鹿にしていることであった。妻からの優しさや思いやりを失い、自分に優しくしてくれるのは優希だけだ、優希だけが救いだと彼が考え出した時、間違いが起こった。父親が娘を可愛がる、しかし、それには自ずと限度がある。娘を自分の所有物か何かのように考える。これは、幼児の虐待と共通するが、こういう勘違いから全てが始まる。幼くても一個の人格を持った人間である。このことは絶対に忘れてはならない。

 妻への不満をこのような形で解消する。離婚をしなかったのは、雄作も志穂と同じく、家庭を壊したくなかった。そして、志穂も娘から訴えがあっても、それを信じようとしない。志穂は、娘の言葉が嘘だと思ったのではなく、そのような事実を信じたくなかったのだろう。結局二人とも、何とかして家族という形を残したかった。離婚が必ずしも良いとは思わないが、離婚しなかったばかりに、この家族は最悪の展開を見せる。娘だけでなく、家族全員を犠牲にしてまで、守りたかったものは何なんだろう。単なる家族という形式的なものなら、あまりにも悲しい。それとも、今はぎくしゃくした家族も時間が経てば、元に戻ると考えていたのか?この大人のずるさを優希は体ごとぶつかって抵抗する。

 彼女は自分の体が汚れていると思っている。何度も何度も、洗っても汚れが取れない。心の汚れは取れないのだ。人からつけられた汚れ(相手が悪い場合)であれば、いつかはとれる。しかし、自分から付けた汚れ(自分に責任がある場合)は取れない。

成人してから彼女は、看護婦になる。本当は医者になりたかったが、家族のためにあきらめる。彼女の恵まれない環境を考えると、家族のためと歯を食いしばって頑張ったと思う。(弟の聡志も弁護士になるくらいだから、頭のいい家系なんだろう)看護婦としての彼女の働きぶりは、献身、自己犠牲、他人への愛、白衣の天使という言葉がぴったりある。過去の罪の意識から逃れるために、夜勤をして暇をなくし、わざと忙しい自分を演出していた。とにかく、何も考えたくなかった。

◎ モウルとジラフは自分達の女神の、壮絶な告白に息をのんだ。自分達が救われるには、彼女を救わなければならない。そのためには、彼女の父をなんとかしなければならないと、二人は決意をした。そして、彼女も自分が新しく生まれ変わるには、父を殺さなければならないと考えていた。

◎ その決行は、卒業記念に保護者と共に登る、西日本の霊峰「石鎚山」で行うことになった。しかし、それには超えなければならないハードルが合った。保護者の同意がなければ登山はできないのだ。その日から、3人はそれぞれ、保護者の同意を取り付ける作業を始めた。優希は、母の志穂が強く反対していたが、雄作の説得で何とかクリアーできそうであった。

◎ 正月の外泊で優希が家に帰った時、志穂が過労で倒れた。その夜、二人の関係を志穂に話したことで、雄作が家で暴れた。再び関係を迫られた優希……。病院に帰った後、優希の表情をみたジラフとモウルは、父親とまた何かあったと感じる。そこで、「やるしかない」「3人の救うために」と決心を新たにする。

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 「おまえを傷つけたいわけじゃないんだ。どうしてそんなことができる?愛しているんだ、おまえを心から愛してる……。聡志も、殺したくなんてない。聡志のことを愛しているんだ。志穂も大事だ。家族は、おれにとって、命なんだよ。おれは、ただ愛されたいだけなんだ。深く受け入れてもらいたいだけなんだよ……」彼は、床からガラスの破片を拾い上げ、自分の腹部を浅く切った。新しい傷口から、血がにじんで、流れてゆく。「世界で誰よりも受け入れてもらいたいのは、おまえなんだ、優希……いや、おまえでなきゃやだめなんだ。おまえ以外の者にほめられたって、おまえに認めてもらえなかったら、すべて無意味なんだよ。だって、おまえは、おれの分身も同じだからさ……。これと同じ血が、おまえのなかに流れてるんだ。おまえは、おれからできてるんだ。おれから生まれたものなんだよ……。もしかしたら、真のおれかもしれないんだ」雄作が静かに歩み寄ってくる。優希は動けなかった。雄作の手が、優希の肩に置かれた。優希にはもう何も思い浮かばない。音も聞こえず、何も見えず、ふれられてもまったく感じない世界に、すとんと落ちていた。

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◎ 上の**から**は本文からの抜粋(以下同様)であるが、父親の雄作の弱さ、自分の娘を自分の所有物のように考えていること。自分の行為に対するいいわけなど、虐待する人間の典型的なパーターンを示している。また、雄作にとっての家族とは、自分の都合のいい家族であることがわかる。

◎ 志穂の実家は、先代からの大きな家具店を経営していた。少なからず資産のある家であり、優希達の暮らしていた家も、その援助で建てられた。夫婦喧嘩の時志穂が、そのことを言う。雄作にとって、その言葉は甲斐性のない男と聞こえ、プライドを傷つけた。妻が夫に一番言ってはいけない言葉である。また、雄作は、大手食品メーカーの、山口県内の営業所長だった。所長になったばかりの頃は売り上げ成績が良かったが、次第に低迷し、そのことでも悩んでいた。

◎ 優希は、父親の行為を志穂に勇気を奮って告白したことがある。しかし、志穂はその言葉を信用しようとしなかった。このことは、父親の行為以上に優希の心を傷つけた。このときの優希の気持ちが本文の中にあったので、以下に掲載する。

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 お母さんが望んでいるのは、お母さん自身を、安心させてほしいということよ。聞きたいのは、お母さんが動転してしまう、本当のことなんかじゃない。家族がばらばらになってしまうかもしれない、真実なんかじゃない。わたしひとりが我慢していれば、みんなが幸せでいられる、嘘で固めた言葉を聞かせてほしいと、そう願ってるんでしょ……。

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◎ しかし、それをやらなくても救われ道はある。霊峰に登れば神がいる、神なら自分達をきっと救ってくれる。しかし、苦労して鎖場から頂上に登った彼らであったが、自分達を救ってくれる神は見つけることができなかった。やはり、自分達を救う道は自分達で切り開くしかない、つまり「例のことをやらなければだめだ。」そう再び決意をした。

◎ はたして、霧の深い山道で、彼女の父は足を滑らせ谷底へ落ちて死んだ。警察は、事故死と断定したが、本当は誰が殺したのか?この、父親の死は、3人の運命に大きな影を落とす。3人にとって共通の新たなトラウマとなった。

◎ また、モウルとジラフは、密かに彼女の父親を殺した方に、彼女をとる資格があると約束していた。この資格のために、モウルは優希を愛することをできず、新たな不幸が生まれる。

(双海総合病院を退院後から現在まで)

◎ 双海総合病院を退院する時、雄作は都合が悪く志穂だけが迎えにきた。そこで、志穂は「自分が惨めだ」と言った。志穂はこの言葉をどんな気持ちで言ったか知らないが、優希は自分が責められているように感じた。志穂が自分をいやな人間だと自分自身を責めれば責めるほど、優希は自分が責められているように感じた。優希が病気にならなければ、こんなことにならなかったのに、優希が以前のいい子でいてくれたら、こんな目に遭わなくて良かった。と言っているように、優希には感じられた。

◎ 退院に当たって優希は考えた。自分の責任で父親を殺してしまった。そのために一番迷惑をかけたのは何も関係のない聡志である。だから、これからは何でも弟にゆずり、自分のものは分けて上げたい。とにかく弟だけには絶対に幸せになってもらいたい。あの子が幸せになれば自分も幸せになれるのだから。

◎ 優希は、退院後、鎌倉に暮らしていた志穂の実の姉の勧めで、神奈川に出てきて、中古住宅を手に入れた。家計は、父の死亡保険金や志穂が事務の仕事をして支え、高校になってからは優希もアルバイトで生活を支えた。

◎ 優希は医者になりたかった。人を救いたい、助けたいといつも言っていた。彼女の成績なら、奨学金も下りるし、援助を申し出る医療関係者もいたが、聡志が劣等感を持つと思い断念する。

◎ 聡志は、姉が成績優秀、品行方正の完璧な人間であったので、幼い頃から劣等感にさいなまれていた。そのため優希は、成績をわざと下げたり、反抗的な態度をとったこともあった。もし、自分が医学部に行き医者になると、一層聡志が劣等感に苦しむと考え、看護学校に行くことにした。教師はがっかりしたが、母は反対しなかった。

◎ 自分の責任で父が死に、家庭を経済的に苦しい状況に追い込んだ。何としても聡志には幸せになってもらいたい。たとえ、自分を犠牲にしても、そんな思いが強かった。

◎ 祥一郎は、退院した後しばらく母と一緒に松山のアパートに住んでいたが、彼女はすぐに男の所へ行き一人暮らしになる。彼が一番怖れたのは、施設送りであった。せっかく手に入れた自由をなくさないために、彼は、新聞配達や皿洗いをして中学を出た。その後、一端高校に入ったが、金やコネのない人間は、通常の路線では無駄だと分かり、中退して大検を受けた。司法試験を受けるには、大学に籍を置く必要があったので、籍だけ置き、バイトをしながら、司法試験一本に絞った。

◎ 梁平は、父の従兄弟の夫婦に引き取られ、香川にいく。彼らは、高校までの6年間、きちっと面倒を見てくれた。また、両親が二人そろっていたおかげで警察に受かった。勤務地を神奈川県の警察にした理由は、彼によれば、たまたまここが受かったからと言っているが、優希の影がちらつく。香川の養父の家には、5年前に一度帰ったばかりである。また、前の両親とは全く会っていないし、行方も知らない。

◎ 17年後、運命の糸に導かれるように、三人は再会した。これは偶然のように見えるが、必然のような偶然であった。3人が合うきっかけは、モウルがアルツハイマーの母を優希の病院に入院させたこと。ジラフが、傷を負った少年を優希の病院に見舞ったことでる。これは、ある意味では偶然であるが、しかし、その前提は彼ら2人が神奈川に来たこと、優希の勤務先を知っていたことであり、これを考えると必然である。

◎ 祥一郎は、優希がどこにいるかは、比較的早く、聡志と知り合う前からわかっていた。聡志が法学部を選んだのは偶然だった。しかし、彼がどの大学に進んだかを知ったのは偶然ではない。祥一郎は、聡志の大学時代のゼミの特別講師であった。企業法務や商法に強く、若いのに独立した事務所を持っていた。また、聡志には、前々から目をかけて、一人前になるまで自分の事務所に引き取り面倒をみるつもりだった。

◎ 3人は出会わなければ、それぞれ社会的にも立派な職業に就いているし、普通の人生を歩んだかもしれない。過去の傷を持ったままでも、人は生きていかなければならない。そして、誰でも、心に傷を持っているし、人には触れてほしくないことが、必ずあるものである。端から見ると幸せそうな人でも、心にどれほどの深い傷を持っているかわからない。また、その人の悩みの大小は、その人の基準で測られるもので、他人が安易に判断すべきものではない。

◎ 人はいくつ年を重ねても、本質的には変わらない。子どもの頃に持っていた性格なり、体質は成人しても変わらない。子どもの頃に、人付き合いが嫌いだった者は、大人になっても嫌いである。そのため、今の自分を変えるには、余程大きなことが起きるか、自分で自分の世界を変える、一大決心をし、それを確実に実行しなければ無理である。それも、相当強い意志で継続的に行う必要がある。そうしないと、一線は容易には越えられない。

◎ 自分にとっての壁を越えようと、意識すればするほど越えられないものである。超えられるものは、さほどの意識もせずに、知らない間に越えている。彼女たちは神の山に登ることで、自分を新しくしたい、自分を変えたいという気持ちを強く持っていた。しかし、その意識が強ければ強いほど、変えられないことがはっきりしていた。それは、おそらく彼女たちも感じていたと思う。

◎ 優希は、父親からの性的虐待が自分の責任であると思っていた。自分が女である(美しく、魅力があるため父親を誘っている)から、こういう不幸がやってきた。だから、女を捨てることで、この問題を乗り越えようと考えた。そのため、意識してか、それとも無意識かは、定かでないが女を捨てた。

◎ 女を捨てた優希を記述する部分を、本文から抜粋する。

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 もう十数年、白衣以外では、スカートをはいていない。中学校は、制服でスカートが義務づけられていた。優希は、入学して一週間、担任に注意されても、ジーンズか綿のパンツで通学した。周囲から浮くことなど気にしなかった。ついに別室に呼ばれて、教務主任と教頭から注意を受けた。病院などの一種隔離された世界でならともなく、学校の制服は、街を歩き、満員電車に来ることもある。女だからという理由だけで、女であるがゆえに危険な目にあう可能性のあるスカートが、どうして義務とされるのか……。理解できず、逆に教頭たちに訊ねた。校則で決まっているからと言われた。人々が幸せに暮らすために作られる規則に、どうして人が、自分を犠牲にし、身を危険にさらしてまで、合わせなければいけないのか、本末転倒じゃないかと訴えた。教務主任は四十代の女性だったが、優希の訴えには答えず、普通の女の子はスカートが好きよ、見られるのも好きよとほほえんだ。屈辱を感じた。泣きそうになるのをこらえて、多数の者にしか目がゆかず、被害を受けるかもしれない者、あるいは、被害を受けることを恐れている者のことを想像できない相手に、抗議した。私服を許可しなくとも、制服にパンツスーツも取り入れればすむことだと提案した。金がかかるよと笑われた。金が、人の尊厳や安全よりも優先される……優希は、なかば茫然として、教頭たちの笑う顔を見ていた。だったら私立に行けばと勧められたが、母子家庭では、公立しか望めなかった。結局、中学時代、優希はスカートをはいた。学校側が、志穂まで呼び出そうとしたためだった。志穂のつらそうな表情を見るのがいやで、優希は自分を殺した。スカートの丈は長くし、下にはつねにショートパンツをはいて過ごした。高校は、私服通学を許可している公立校を選び、三年間ジーンズや綿パンツで通った。

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◎ これ以外にも、双海総合病院に入院する時に、『髪はショートカットよりも短かった。昨日、彼女がみずからハサミできったものだ。長さは一定ではなく、何カ所かは地肌が透けて見えている。』のように、女の象徴のような髪を切っている。

◎ また、看護婦になってからも、『上に着るものは季節ごとに変えるが、下は季節を通して、ジーンズかスラックスをはいている。スカートをはくことは全くない。』の記述のように、非常に質素な服装をしている。

◎ 優希は、子供を育てられないという理由で結婚を拒否する。志穂にとって、優希が結婚することは、自分の罪を許してくれた証拠になると考えていた。

(再会後)

◎ 祥一郎の母まり子は、5年前から行方不明になっていたが、同棲している男から、突然電話があり、引き取ってくれと言ってきた。彼女は痴呆が進み、夜中に突然起きて部屋を歩き回ったり、部屋の隅で小便をした。彼が言ったときは、大便を顔に塗っていた。

◎ まり子を引き取ったが、アルツハイマーは進行するばかり、どうにもならならない状態で、優希の病院を訪ねる。それは、事前に聡志に相談し、彼女の病院にアルツハイマーの空きベットが一つあることを知っていたからだ。これによって、彼女を遠くからそっと見守っていこうという、もくろみは外れた。

◎ 『病院で優希に再会したとき、喜び以上に恥の意識が強かった。だが、母を受け入れてくれたことで、母との面会にかこつけて、優希に会い、聡志の仕事ぶりを報告するふりをして自分の仕事の成果を報告し、彼女からほめられると心が喜びで沸き立った』と。このように、祥一郎は優希に誉めてほしかった。これは本来母の役割であり、アルツハイマーで幼児に還り、その役割が果たせなくなった代わりを優希に求めたことになる。(母=優希)このことを裏付ける言葉が次にある。

◎ 入院した母の首を絞めて殺そうとした。母の瞳がすべての受けいれていると感じた。

自分はずっとなにがしかの人物になりたいと思い続けてきた。名誉、金、人々の賞賛、これほどの人物になったかと、認められたいために、寝る間を惜しんで頑張ってきた。それは、母のためだった。

◎ 祥一郎は、弁護士として、多少の汚い手を使っても疲れなかった。相手が傷ついても、心が痛まなかった。仕事として割り切っていた。それが弁護士の仕事と思っていた。しかし、優希と会ってから、仕事だからと狡猾な方法を以前のように平然と取れなくなった。

◎ ここ一年近く、多摩川沿いで、少年を相手に連続幼児猥褻事件が発生していた。その容疑者の賀谷を追って、梁平がある民家に入る。そこには、夫婦が縛られ、そのそばに7歳前後の男の子が立っていた。顔を殴られた跡と、肛門付近に裂傷を負い、臀部から太股にかけて血で汚れていた。

◎ 梁平は、法ではなく自分でカタを付けようと考えていた。犯人は生きていればまた同じ過ちを犯す。だから、俺がその鎖を切ってやる。梁平は、さんざん賀谷を殴ったあげく、拳銃を脳天にめがけて構えた。危なく引き金を引く瞬間、伊島に止められる。止めた伊島に梁平は言う。

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 「こいつはまたやります。病気なんだ。刑務所を出れば、また子どもを襲う…そして子どもが傷つく。からだだけじゃない。それ以上に、心が傷つく。心が傷ついた子どもは、怒りを別の子どもにぶつけることもある。大人になってから、誰かを傷つけるかもしれない……それがまた、子どもの場合もある。こいつは病原菌です。こいつも誰かにうつされたんでしょうが、どこかで断ち切らないと、終わらない」

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◎ 被害にあった少年は、多摩桜病院に入院した。しかし、ショックで事件の前後のことは何もしゃべらなかった。彼は、助けてくれた梁平を呼ぶ。梁平にもう一度助けて欲しかった。彼は、優希に会うことを恐れながら、2階の小児科病棟に向かった。

◎ 少年の母は梁平に、警察批判マスコミ批判をする。

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「助けてくださった方に、こんなことを申し上げるのは、心苦しいんですけれど……警察の方々が何人も見え、繰り返し同じことを訊かれてゆきます。マスコミも、家だけでなく、この子の学校にまで行ってるそうです。正直、因ってます。この子はもちろんでしょうけど、わたしたちも、早く事件を忘れたいと思ってるんです。なのに、こんな状態ではとても……。あなたにお礼を申し上げたいと願っていましたけれど……今後はもう警察に呼ばれることはもちろん、こちらに来られることも、遠慮していただけないでしょうか。何もなかったことにしたいんです。この子のためにも……」

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◎ 事件を忘れたいといった母親に、梁平は、事件をなかったことにはできないと言った。なかったことにしたら、もっと傷が深くなる。梁平は少年に言った。「きみはひどいことをされた。悪いのは、あいつだ。きみじゃない。あいつがすべて悪いんだ。何もかもあいつのせいだ」

◎ 彼は、少年を連れて中庭を抜けて、病院の裏手に進んだ。そこにある、一本のハナモクレンの木にマットレスを立てかけ、これを犯人だとと思って、石を思いっきり投げるように言った。梁平は、怒りをぶつけることと、周囲の理解が彼を立ち直させると思っていた。難しいけど……。

◎ 梁平の恋人である早川奈緒子の父は、元神奈川県警の警察官で、伊島の上司であった。

15年位前、強盗を追った時胸を刺され、障害がのこったため、退職した。その後、自宅の一階を改良して居酒屋を開いた。だが、5年前に母が脳溢血で、父が2年前心不全で、亡くなったため、店は奈緒子で切り盛りしていた。奈緒子は7年前に結婚していた。

◎ 梁平が奈緒子の妊娠の事実の知った時に考えたこと。

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 悲劇を繰り返すことを恐れているのに、実は繰り返したい心が無意識になり、それが怖くて無理に意識を遮断する。例えば、彼女に子供をはらませ、そのまま捨てる……あるいは、産まれた子供に対して、自分がされたしつけを同じように行いたいという欲望がある。

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◎ 聡志は、家族には自分だけが知らない重大な秘密があることに、薄々感づいていた。それは、父が死に、神奈川に引っ越してからの姉と母の態度からだった。退院後、姉がまた変わり、以前の優等生に戻った。従順で素直で、奉仕活動にも積極的に参加した。そして何よりもすべて自分に譲ってくれた。また、看護婦になってからは、必要以上に、患者のためと自分を犠牲にし、懸命に働きつづけた。また、母は、そんな姉から一定の距離を置き、姉の優等生ぶりに少しも喜びを見せなかった。特に、父の事故のことは頑なに隠していた。

◎ この秘密を探り真実を知るために、祥一郎から休暇を取り、愛媛県の双海総合病院を訪ねた。そこで姉が入院したのは小児精神科であることを知ったが、それ以上は知ることができず、謎はますます深まるばかりであった。また、石鎚山に登り、図書館で新聞を調べ父の事故も知った。

◎ 祥一郎は、聡志が昔のことを調べに双海病院に行ったことを相談するために、梁平と「なを」で会う約束をした。初めて奈緒子を見た祥一郎は、柔らかな物腰ながら、芯の強さが伝わってくるのを感じた。

◎ この聡志の過去を探る旅の始まりと共に、3人の周辺には多くの不吉な出来事が起こっていく。まず、多摩川の川辺で、年輩のバーのママが殺された。彼女は、自分の娘に馬鹿にされたことに腹を立て、犯人に「親の気持ちを考え、親を大切にしろ」と言った。

◎ 聡志は母に、双海総合病院に行って来たことを告げた。母のはっきりしない態度に号を煮やした聡志は、優希の病院に行った。その駐車場で、やけどを負った5、6歳の少女と母親を発見する。大急ぎで優希を呼ぶと祥一郎が一緒だった。興奮する母親は、自分がシャワーで熱湯をかけて、やけどさせたと言った。原因は、不倫をし、家に帰ってこない夫の方が、毎日世話をする自分より、好きだと言ったためだった。

◎ 娘がやけどを負った夜。帰りの遅い父親を待ちながら、パパは嫌いでしょうと聞いたら、娘が、パパの方が好き、ママは嫌いと答えた。夫は会社の若い事務員に夢中で、家事のことは一切自分がやってきた。時には、厳しくしつけたが、それはすべて娘のためだった。それなのに、自分より夫の方が好きとは……。

◎ 母親は優等生だった。自分が間違ったことをするはずがない。これは、しつけだ。しつけに少し間違いが重なっただけだ。と自己を弁護した。また、夫に自分の間違いを指摘されるのを恐れ、前言を翻して、娘が間違って熱湯をかけたと言い直した。

◎ 娘は事情を婦人警官から聞かれた。誰がシャワーの温度をあげたの?。「わたし」と答えた娘の目から、大粒の涙がこぼれ、「ごめんなさいと」謝った。母親を庇い、自分に責任があると言う少女に、祥一郎は子供の頃の自分をダブらせていた。自分も母親がいなくなって餓死寸前になり、警察から事情を聞かれたとき、自分が悪いと言った。

◎ この母親が、多摩川の川辺で殺される。この母親は思う。自分よりもっと殺されなければならない奴がいると。

◎ この殺人の捜査のために、伊島が聡志に、病院の駐車場でやけどした少女を発見した時のことを聞きに来た。その時、聡志は吐き捨てるように、伊島に言った言葉。

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 「あの女を殺したのは、子どもさ」つぶやくように言った。「なんだって」伊島が訊き返した。「母親の代表に、子どもの代表が復讐したのさ」聡志は、唇の端に満足げな笑みを浮かべ、目を閉じた。「どういう意味かね」伊島が険しい声音で訊く。聡志の前に迫り、「いまの言葉の真意を、聞かせてもらえるかな」聡志は目を開いた。視線はなお伏せたまま、不遜げな表情をたたえて、「親は、子どものためだと言いながら、実は都合のいいところで、自分の欲求や願望を優先させてる。なのに、すべては子どものためだと言い訳して、子どもが、ありがたがらないと、恩知らずのように怒る。むしろ子どものほうが我慢して、親に気をつかってることだって多いのに、親の心がわからないと叱る。ただ、親も本当はよくわかってないんだろう。何が最終的に幸せなのか。誰だって、教えられた以外のことはできやしない。幼い頃に与えられたものや、環境から身につけたものを、どうしたって繰り返すに違いないんだ。親も、子ども時代、ずっと親の言うこと、することに、我慢し、従い、理不尽な命令にも、いやだと言えずに過ごしてきたんだろう。親のしてくれることが、どれだけ的外れでも、ありがたがらなきゃいけなかったんだろう。でないと、愛してもらえなかったからさ……。そうした子どもが、親になったとき、今度は自分が子どもに愛を与える力も、奪う力も持っているから、その力を無意識にもてあそび、子どもを支配しようとする。だから、子どもが言い返したり、反抗したりすると、腹が立つ。自分を抑えきれなくなる。ことに母親は哀れさ。男は外に出て、好き放題しても、男は所詮子どもだからと許される。女はそうはいかない。親になったって、人の子には違いない。甘えたいときだって、べったり頼りたいときだってあるはずなのに、夫や夫の家族からまで、母親としての役割を求められる。年齢に関係なく、親となったとたんにそうなるんだ。結局、母親にとって、自分が心から安心して甘えられる存在が、子どもになってるんだ。自分が子どもに戻れる相手が、我が子しかなくなってる。だから、いっそう子どもの反抗が理不冬に感じられるんだろう。だけど、子どもだって、やられっ放しじゃない。我慢ばかりじや、いつかは、ふざけるなと怒るのも、当たり前だろう? 親も確かに大変だろうさ、苦労ばかりかもしれない。だからって、立場や感情を無視した扱いがつづけば、子どもだって、愛情ばかりを抱いちゃいない。本当は愛したいはずの親が、愛情をかけるのに値しない親だったら……子どもだって、泣きながらでも、やり返すさ」聡志は、緊張にからだを固くして、一気に語った。

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◎ ある日、久しぶりに家に帰った聡志は、自殺した母を発見する。志穂は、聡志が秘密を調べ出したことから、これ以上隠しておくことは無理だと判断した。以前からこの日が来ることを予感し、自殺を考えていた。そのために、二人に自分が死んだときの保険金として

3000万円ずつ用意して置いた。志穂はとにかく疲れた。早く楽になりたかった。

◎ 志穂は、父親の件を含めてすべての秘密を遺書に書き残した。それを読んだ聡志は、家族の恥を永遠に葬るために、母の遺体と共に家を燃やした。そして、その足で優希の元を訪れ、母の遺書を渡し、自分が母を殺し家に放火したと言った。

◎ 弟の言葉に導かれるように、家に帰った優希が見たものは、母の焼けた遺体と家の焼け跡だった。そして、焼け跡のあまりの狭さに愕然とする。この狭い家の中で、いろいろなことが起こり、秘密を必死で守ってきた。この小さい家を守るために、自分達は何をしてきたのだろうと、遠くなる意識の中で優希は考えた。

◎ どんなに虐待をされても子供達は、親を悪く言われることを嫌う。かつて、祥一郎も自分を餓死寸前まで追い込んだ母をかばった。「僕が悪いんだ母を悪く言わないで。」子供は親を守りたいものである。聡志の放火の原因はここにある。母の自殺を見つけ、遺書を読んですべてを知った聡志は、親の恥を隠すために放火をした。

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 「自分の親が悪く言われるのは、我慢できない。どんな親でも、人に悪く言われるくらいなら、自分が悪く言われるほうがましだと思う。親に頭を割られても、階段から落ちたって言いつづけたガキもいるんだ……。それに聡志は、きみを守りたくもあったんだろう。きみのつらい過去を、他人に知られたくなかったんだと思うよ。いわば、お母さんの遺志を継ぐ形で、きみに過去を深く埋めて、生きてもらいたかったんじゃないのか」

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◎ 志穂を荼毘に付してから、優希は祥一郎のマンションにいた。

◎ 伊島は、この殺人と放火だけでなく、多摩川で起きた2件の殺人も聡志の犯行と考え、聡志の行方を必要に追っていた。そんなおり姿を隠していた聡志が、祥一郎をこっそり訪ね、姉を支えてやって欲しいと言いに来た。それを張り込み中の伊島に見つかり、逃げる途中トラックにはねられ、重傷を負い手当のかいもなく死ぬ。

◎ 梁平は、奈緒子から妊娠したことを告げられ、怒りのままに、奈緒子の可愛がっていたハムスターを窓の外に捨てる。そこで、梁平は「生きていく力が、本当にあるなら、この程度のことで死にはしないさ。どうしても生きたかったら、自分で餌を探して生きのびりゃいいんだ。」「現実に生きていくのに、仔どもだからって、誰が遠慮する。誰が助ける。親でさえ、自分の身が一番の時がある。」と言った。それに対して、「かわいそうな人……」と奈緒子。

◎ 奈緒子は、梁平の子供を妊娠していたが、梁平に生むなと強く反対され、悩んでいた。彼女はどうしても子供が欲しかったので、梁平には、店をたたんだ金で、子供は自分が立派に育てると言っていた。結局子供は流産をするが、それが自分のせいであると、罪の意識に苦しんだ。

◎ 死ぬことは怖くなかった。ただ、一人きりの所で死ぬのは、あまりに淋しいと感じていた。だれかそばにいて欲しい。梁平を失った彼女にとって、祥一郎しかいなかった。そこで、電話で祥一郎を呼ぶ。

◎ 祥一郎は不能であった。しかし、奈緒子の暖かく柔らかい肌に触れ、初めて男として役立った時、彼は約束通り奈緒子の首を絞めていた。そして、彼女の悲しい気持ちを梁平に伝えるために、祥一郎は、包帯をその部屋において立ち去った。その包帯は、優希が初めて双海総合病院に来て、突然海に向かって走り出した時に彼女がしていた包帯であった。この包帯を二人はお守りのように大切に持っていたのだ。

◎ 5年ぶりに、香川から養父母が梁平を訪ねてきた。知り合いの結婚式が東京にあったのでその途中に、横浜に寄るというものであった。梁平は、二人を食事に招待し、ホテルのバーに連れていった。養父は来年の春、市役所の清掃員を定年で退職する予定であった。退職後は、ディケアーの運転手になり、ボランティア活動をするつもりだと語った。

◎ 養母が梁平に言う。梁平が、私たちに距離を置いているのは、なじめないこと以上に、私たちを傷つけないための優しい配慮だった。これに続いて、

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 「同じようにね、好きな人とも距離を置いてしまうことが、あるんじゃないかと思ったの。でも、気をつかい過ぎるあまり、より深く、相手を傷つける場合もあると思うのよ。結婚しなくても、家族を持たなくてもいい。でもね、できれば、一緒に生きる相手は見つけてほしい。相手を認めることと、相手から認められることが、生きてゆくには、大事だと思うもの。ひとりで踏ん張ろうとし過ぎると、自分はもちろん、やっぱり誰かを傷つける気がする。すべてを、ひとりで背負って、解決しようとするばかりが、大人のやり方じゃない。人を信頼して、まかせたり、まかせられたりできるのも、ひとつの成長かなって思うし。ゆっくりでもいい、自分を開いてみたら、どう……人にすべてを託して甘えることを、自分自身に許してあげたら、どうかしら……」

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◎ 養父母は、おみやげに梁平の好きな讃岐うどんを持ってきた。

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 梁平は、もらった讃岐うどんの包みを、握りしめた。たかだか千円か、二千円のみやげを買うためだけに、車で一時間違る人たちだと思う。自分は、かつて、病院を出るためだけに、この人たちを利用したというのに……。「おれは……あなたたちに、似たかったですよ」喉がつまり、声がかすれた。溢れる感情を押し戻すことができない。むしろいまは、表にあらわしても許される気がして、「双海病院の、運動会のとき……母さんが作ってきてくれた、弁当のことは、いまも忘れられないですよ。おれに、おれなんかに精一杯、気をつかってくれて……。おれは、あなたたちのように生きたかった……似たかったよ……本当に、似たかったですよ」顔を上げられなかった。ふたりの息づかいだけが聞こえた。しばらくして、「ありがとう」養父の声がした。「ありがと……」養母の声はつまって、最後まで聞き取れなかった。

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 感動的なシーンです。何度読んでも胸にこみ上げるものがあります。

◎ 養父母と別れた梁平は思う。現実の生活をしっかりやっていくには、奈緒子が必要だ。彼女は一度受け入れてくれた。もう一度許してもらおう。その決心を胸に、彼女の家に向かう。しかし、時すでに遅し、彼女は冷たくなっていた。置いてあった包帯から、祥一郎の計らいを感じ、事情を聞くために祥一郎を捜す。

◎ 梁平は、伊島に自分のせいで奈緒子は死んだと電話する。容疑が祥一郎に行かないための配慮であったが、逆に、祥一郎は指紋を警察に送りつけて、自分が犯人だと名乗りでた。

◎ 伊島は、梁平と祥一郎の行方を探して、優希の元を訪れる。伊島は、志穂と聡志の位牌に手を合わせて、優希に言った言葉。「死んだ人は時には支えになるね」「支えにして、生きて行かなきゃね……焦らないでいいよ、忘れる必要もないだろう。大切にして、抱えて、生きてゆけるのなら、その方がいいよ。」伊島は、奈緒子の親代わりを自認しており、梁平と結婚すればいいと思っていた時もあるので、この言葉は、梁平への気持ちでもある。

◎ 梁平は、祥一郎の行方を追って優希のアパートを訪ねた。そこで、優希の口から、父親を押したのは自分であると告白される。梁平は、ずっと祥一郎だと思っていた。また、祥一郎は梁平がやったと思っていた。だからお互いに遠慮し合っていた。俺達は

17年ものあいだ何をしていたのだ。

◎ ここで、優希と梁平が結ばれる。優希と祥一郎が結ばれるチャンスが一度あったが、うまくいかず、それ以後はなかった。このシーンから、やはり優希は祥一郎が好きで、梁平との関係は、祥一郎がいない寂しさがさせたことかも知れない。奈緒子が梁平の代わりに、祥一郎を選んだように……。優希と結ばれた後、梁平の次の言葉が素敵である。

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 こらえきれず、左腕を口もとに上げ、歯を立てた。瞬間、腕が押さえられた。「優希」梁平の声を聞いた。声が泣いていた。顎から力が抜けた。されるままに、腕を下ろした。「きれいだ」ささやかれた。ありふれた言葉が、自分のなかにしみ入ってくる。「きれいだよ」もしかしたら、最も欲しい言葉だったかもしれない。自分が醜く、汚れているというイメージで、ずっと生きてきた。決して誰にも見せられない、開きたくないとみずからを内側に閉ざしてきた。だが、心の底では渇望しつづけていた。ほんの少しでいい、讃えてもらえる日のあることを。つらさばかりを感じながらも、どうにか生きてこられたのは、いつか、ほめてもらえる日のあることを信じ、それに憧れ、求めていたためだとも思う。優希は、梁平の首に、手を回した。彼ではなく、彼の言葉を逃したくなかった。認めてもらえたこの瞬間の、その言葉に、強くしがみついた。

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◎ 祥一郎は、母のまり子を老人医療施設に入れるために必要な、

5000万円の金を、弁護士という地位を利用し不正に作った。彼は、3つの殺人(多摩川の2件と奈緒子)の他に、肺ガンのため、もう先はないと思っていた。そこで、最後の後始末をした後、優希に自分の罪を告白する。優希は、それでも祥一郎と一緒に行きたいと願うが、祥一郎は承知しない。自分には資格がない、これは自分にとって天の声だ。

◎ 梁平は、優希から祥一郎が5年ばかり外国に行くという話を聞いた、彼が自殺を考えていると直感する。その時、まり子が病室から消えた。祥一郎が連れていったと考え、梁平と優希は共に病院中を探す。やっとの思いで、まり子と一緒にいる祥一郎を中庭で見つけた。その時の、祥一郎が梁平に言った言葉。この言葉は、被害者の心理と立場を理解したものである。

****************************************「この先の緑地で亡くなっていた、例の母親の遺族と、六月の一週に、多摩川の下流で見つかった女性の遺族に会って、犯人は死んだと伝えてくれないか。肉親を殺した犯人が、のうのうと生きてると思って過ごすのは、つらいことだろ?犯人が死んだからって、遺族は決して救われやしないだろうけど……少なくとも、事件が終わっていないと、遺族は、新しい人生に、なかなか踏み出せないように思うんだよ」

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◎ 祥一郎は、母まり子に銃を握らせ自殺をする。彼は、拳銃の引き金をまり子に引いてもらいたかった。「最初に戻りたい」自分を生んでくれた母なら、自分を最初の闇に戻してくれる。そうすれば、最初からやり直せると思っていた。

◎ 優希は母の遺書を読んだ。そこには以外な事実が述べられていた。父を押したのは母であった。そして、そこにつづられた母の自分に対する愛の深さを知り、救われた思いがした。

◎ 離島に看護婦として勤める優希には、自分を理解し、自分を認めてくれた、モウルとジラフがいる。モウルは死に、ジラフとは遠く離れたが、二人の思いは彼女の心から離れることはなかった。3人で確認した「生きていていいんだよ」この言葉に、支えられて彼女は、これから力強く生きていける。それは、梁平も同じであった。

 

この本のテーマ

(1) 「生きていていいんだよ」これを支えに人は生きていく。

◎ 最後の二行の言葉、「生きていても、いいんだよ。おまえは……いきていても、いいんだ。本当に、生きていても、いいんだよ。」これが、この作品のテーマである。

◎ 誰かに、「お前は生きていていいんだよ。」と言われたい。どんなに罪深い人間でも、誰かを支えに生きていく権利がある。この誰でも生きる権利があるということから、「罪と罰」の主人公ラスコーリニコフの犯した殺人と、映画「グッド・ウィル・ハンティング」のセラピストと患者の心の通い合いを思い出した。

は殺しても良いと考えていた。そこで、金貸しで強欲な老婆を殺す。それは、老婆が何の役にも立たず、それどころが、逆に害になる虱と彼は考えていたからだ。しかし、老婆を殺してから、心の平安が保てないない彼は、この殺人が失敗であったと気づく。彼は、老婆にも生きていく権利があることを忘れていた。

◎ また、映画「グッド・ウィル・ハンティング」では、孤児で里親から虐待を受け、心を閉ざした青年が、同じ虐待を経験したセラピストとの友情で心を開いていく。その時に、「お前は悪くないんだ」という言葉を何度も繰り返して言う。お前は悪ない、だから、自分を許し、生きていっていいんだよ。

(2) 人はトラウマから、どうしたら救われるか?

◎ 母親の遺書から、彼女の愛を確認できた。ジラフとモウルの愛も確信できた。しかし、残念なのは、モウルが死んだことだ。二人はすばらしいカップルになれただろう。モウルが罪を認め自首して服役する。それを影で支える優希、いつしか刑罰ではなく、彼女の愛を確認することで、モウルは生まれ変わる。こんな「罪と罰」のような展開を……。期待できるはずである。

◎ 入院患者の岸川夫人の告白(私のホームページ天童荒太の所へ)。彼女は叔父から性的虐待を受ける。このことで長い間苦しんでいたが、自分の体験をそのまま夫に話し、理解してもらうことで、精神的な呪縛から解き放たれ、幸せを実感できるようになった。この夫人の話が優希の将来の暗示、救いのサインではないか?

◎ 梁平、養父母の住む香川へ帰り、刑事はやめて他の仕事に就く。養父母と一緒に暮らすことで、彼らの優しさ、思いやり、愛情の深さが梁平を変える。そして、人を愛する方法を学び、最終的には優希と結婚する。(こんな風になるといいなと私は思う)

◎ 祥一郎は自殺するが、その時「生まれてくるところからやり直したい。」と言った。彼にとって、二つの殺人を犯したり、肺ガンが悪化していたりで、今からではやり直せない、もう遅いという気持ちが強かったのだろう。せめて、父親を押したのが、ジラフでないことがわかったら、展開も代わっていたし、残される優希のことを考えることができただろう。そして、できれば、優希の言葉に従って自首し、服役して優希と共に生きて欲しかった。しかし、自分の愛した優希の中に、鮮明な記憶として残ることで、彼は生き続け、救われたのだろう。

(3) 老人介護の問題を幼児虐待と同じように重要なものとして、扱っている。

◎ まり子は、アルツハイマーになり幼児に退行する。アルツハイマー病を中心にした老人介護の問題を、幼児の虐待と同じように大きく扱っている。永遠の仔の意味。虐待によって心に傷を持った仔、それをいつまでも引きずって子供のまま成長した仔、アルツハイマーや呆けによって、幼児に退行する仔。人の一生の間続く(永遠に続く)仔の状態。

◎ 優希は、焼けた家にたたずみ、自分達はこの小さな家のために何をしてきたのだろうと、考えていると意識がなくなり、病院に運ばれていた。そこで、看護婦から仲間の愚痴として、老人介護の問題について言われる。

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 「でも長い目で見れば、高齢者の病気をしっかり診たり、機能を回復させたりする施設が充実しているほうが、実質の経済効果は上がるんじゃないの。人は、生まれて、成長して、老いて死ぬまでがひとつのサイクルでしょ。これまで大事にされてきたのは、人生の一部分だけだと思わない。仕事で社会に貢献できる人間を、どう育て、どう活かすかってことが、一番の目標のように言われてきたんじゃないかしら。病気や障害を抱えた人への社会の視線も、似た感じがあるでしょ。けど、人間って、何々しなければ認められないって、そんな軽い存在?病院にいると、わかるけど、ただ生きていてくれるだけでも、救われる患者さんの家族って、すごくたくさんいるんだから……」

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◎ 伊島と優希の会話

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 「さっき待合ロビーにいたとき、赤ん坊が母親の腕のなかで笑っていてね、ああいうのを見るのは、嬉しいものだ。子どもの笑顔は、何にもまさるよ」「お年寄りの笑顔も素敵です。なかには、子どもに戻られて、子どもとまったく同じ笑顔を見せてくださる方もいらっしゃいますよ。生きている方は、たとえ寝たきりになったとしても、亡くなった人は与えられない多くのものを持っていると、信じられる笑顔です」

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(4) 3人の職業を通して、現代の弱者無視、被害者無視の社会を批判し、被害者の立場に立った社会の必要性を訴えた。

 成人してからの3人の職業は、看護婦(医師になりたかったがあきらめて)、弁護士、刑事である。これは、作者がこの本の中で求めていた、弱者優先の社会、被害者の立場に立った社会の構築に必要で、最も力を発揮して欲しい職業であると私は考える。

 今後、被害者の立場に立った社会を作っていくには、乗り越えて行かなければならない、いろいろな問題があるが、その基本は3つである。犯罪を捜査し犯人を逮捕する警察、犯罪を裁く裁判所、心のケアをする病院である。

 弁護士に代表される裁判所は、法の執行という立場であり、彼らの考え方一つで大きくその法は変わる。また、被害者保護の法律を作るにも、彼らの協力が必要だし、それに対する考え方で法律が大きく変わる。場合によってはできない場合もある。

 弁護士というと、犯罪者をかばい、実際に犯罪を犯していても、無罪に強引に事実を曲げて行くような、加害者サイドのイメージが先行するが、これからの社会は、被害者側に弁護士が付くことも十分考えられる。その意味で、依頼者の有利になることばかりを考え、被害者の人権や立場を理解しない弁護士は、今後生きていけない。

 現在の被害者に対する人権無視は、弁護士だけでなく、裁判官を含めた裁判の在り方(私のホームページ天童荒太へ)に、問題があり、改善の余地があることを、祥一郎を弁護士にして、作者は言いたかったのではないか?

 梁平は、正義感あふれる刑事であるが、時には暴力的である。裁判を含めた法による犯罪人の処罰に疑問を持っている。苦労してせっかく逮捕しても、裁判では、執行猶予がついたり、すぐに出所したりする。こういう連中は、出所すると再び繰り返すのだから、殺した方がいいと、心のどこかで考えてる。連鎖(犯人が再び同じ幼児虐待を犯すこと)を断ち切るため、自分の刑事という立場を有効に使おうとする。それによって自分の立場が悪くなろうと、その衝動に従ってしまう。

 作者は、警察全般の捜査の仕方を、彼を通して批判している。もっと、被害者の立場に立った捜査とそのアフターケアーをしてほしいと。現在のままでも、警察の対応一つで大きく変わると思っている。

 優希は、自分の経験を通して、自分と同じような境遇の子供達を救う医者になりたかった。彼女が最初父親の性的虐待で情緒不安定になり、精神科に通っているとき、その医者から、「何でもいいから話して見ろ」と言われ激怒したが、彼女に言わせれば、話せない内容だから苦しんでいる。そういう弱者の気持ちを理解できない医者は最低である。しかし、自分ならそれを理解し、虐待を受けた子の立場に立った治療をしたいと思ったのだろう。結局、家庭の経済的な問題、聡志を大学に上げるためには、優希が働かざるを得なくそれを断念する。

 病院に入院するとよくわかるが、医者以上に看護婦は大切である。入院患者にとっては、一番身近に、長い時間接するのは彼女たちである。彼女たちの行動、言動が、患者をいらだたせたり、楽しい気分にさせる。優希が看護婦になり、献身的に尽くす姿は、この作品を優しい雰囲気で包んでいる。

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