クリスマスカロル

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◎ この作品を読もうと考えたのは、私の好きな作家ジョン・アービングが、ディケンズを尊敬し、彼から多大な影響を受けたと聞いたからです。本当は、「大いなる遺産」や、「二都物語」などの代表作を読めば一番いいのですが、時間がなかったことと、アービングの「オーエンへの祈り」を読んでいると、その中にクリスマスカロルの劇が出てくる場面があり、この本を理解するためには「クリスマスカロル」のことを少しは知らないと、面白くないと思ったことと、さらに、クリスマスが近かったこともあって、読もうと決めました。読んでみての感想は、アービングが尊敬するだけあって、登場人物や事象に対する、比喩の巧みさ(ちょっとくどいと感じられるくらい)とストーリーの面白さに感心しました。

 

<あらすじ>

◎ 主人公のスクルージは、金儲け以外に興味がない、けちで強欲な商人でした。彼のケチは徹底していて金儲け以外に時間を使うのも無駄だと考えほどの老人でした。そんな彼の所へ死んだマーレー(共同で会社をやっていた仲間、スクルージと同じように強欲で、7年前に死んだ)が幽霊となって現れます。マーレーはスクルージを伴って、彼の過去へと彼を運びます。彼の子どもの頃が映し出され、なぜ今のような強欲でケチな老人になってしまったかの原因を見せました。

 

◎ マーレーの役目はそれで終わり、自分の後に現代の幽霊と未来の幽霊が現れることを予言して、消えて行きます。次に現れた現代の幽霊は、彼の所で働く書記の一家と、彼の甥夫婦の家庭を見せてくれます。この時すでに彼は改心し、人に優しくしよう、施しをして愛されようと考えていました。

 

◎ 最後に、未来の幽霊によって、自分の死を予言されます。そして、自分が死んだ後、皆んなに嫌われ、死んだことを喜ばれている自分を見せられます。この悲しみを回避するために、もう一度やり直したいと幽霊に懇願します。

 

 その懇願が通じたのか、彼は死んではいませんでした。それに感謝したスクルージは、貧しき人々に施しをします。さらに、甥の家に行って一緒に楽しみ、次の日には書記の給料を上げてあげます。

 

 「善を施せば天国へ行ける。」こう言われて私たちは育ってきました。生きている間にできるだけ良いことをする、その量で天国に行けるかどうかが決まる。そんな見えないルールで日々の行動を規制してきました。それが、ひとつの道徳となり、国の秩序を守ってきた気がします。サンタクロースを信じない時代、まして神がいることなど信じられない時代。私たちは何をよりどころに生きていけばいいのでしょうか?

 

 私は思います。天国も地獄も自分の心の中にあると……。人に善いことをし感謝されると気持ちが良い。人から愛されていると思うと幸せな気分になる。その逆が地獄です。だから、自分の心を安らかに保つこと、それが幸せにつながると思っています。だから人生とは、その方法を見つける旅、そんな気がします。

 

 

遠藤周作 女の一生 一部キクの場合

 

 しばらく前から読んでいた、<遠藤周作 女の一生 一部キクの場合>を読み終えました。キリスト教関係の小説は、ドストエフスキーの「罪と罰」以来だから、ずいぶん久しぶりになります。いろいろ考えさせられることがありましたので、感想を書きます。

 

 日本におけるキリスト教の布教は、フランシスコ・ザビエルによって戦国時代にもたらされました。戦国乱世の時代背景を元に農民だけでなく、武士の間でも深く信仰されました。織田信長は熱心な支持者でしたし、高山右近(奥さんが、細川ガラシャとして有名)や小西行長など西国大名を中心に約10万人くらいの信者がいたそうです。

 

 信長の死後秀吉、徳川家康はキリシタンの禁止令を発します。江戸時代の始め農民の苦しみが頂点に達し各地で農民一揆が起こります。特に、九州の島原・天草地方では、過酷なキリシタンへの弾圧と農民の不満が重なり、天草四郎時貞を先頭に農民3万が天草城に立てこもり、反乱を起こします。<島原の乱>といわれる切支丹の反乱です。

 

 農民の抵抗はことのほか強く、領主の力だけでは足りず、江戸から幕府の討伐軍が駆けつけて、兵糧責めで何とか攻め落としたそうです。死を恐れない農民の行動は、武士にとって脅威でした。それを機会にさらに切支丹の取り締まりは厳しくなり、踏み絵(キリストやマリアの像を足で踏ませて、切支丹であるかどうかを確かめる)などが定期的に行われました。切支丹だとわかると、捕らえられて拷問によって、棄教を迫られました。そのため、切支丹は地下に潜らざるを得なくなり、これが隠れ切支丹の始まりです。

 

 この小説は江戸の末期から明治維新にかけての物語です。隠れ切支丹はあれから200年以上を経ていたので、日本では絶滅したと考えられていました。しかし、長崎の浦上村の周辺では、代々切支丹が秘密の内に受け継がれて、今でも熱烈な信者が世に出る機会をうかがっていました。彼らは「クロ」と呼ばれ、周辺の村からはつき合いを拒絶されながらも、暗黙の元に切支丹であることが認知されていました。

 

 長崎に隣接する浦上村馬込郷の娘キクは、幼い時命を助けてくれた、同じ浦上村中野郷の清吉にほのかなあこがれを抱きます。でも、清吉は当時クロと呼ばれた隠れ切支丹、二人は会うことすらできない運命でした。娘になったキクは大浦の五島屋に奉公に出されます。そこで、もの売り(季節の野菜や魚を売る)として店先に来た清吉に偶然会い、恋をします。それからというもの、清吉に会うことだけを楽しみにキクは奉公を続けます。そして、逢うたびにキクの恋心は募っていきます。

 

 ペリーの来航と開国。江戸末期はそれまでの鎖国政策が崩れ開港されます。その最先端の街が長崎です。そこでは、外国人のキリスト教徒のためだけとの約束の元に、大浦にキリスト教会が造られます(大浦天主堂)。そこの神父であるプチジャンは、自分の信念の元に隠れ切支丹を捜し出し、彼らのために布教活動をします。しかし、最初は目をつむっていた長崎奉行も、だんだんエスカレートして大胆になっていく、切支丹信者と神父に制裁を加えます。彼らは、清吉を始め大勢の切支丹をとらえ投獄します。

 

 それから取り調べがあり、棄教への説得が始まります。最初は話しだけですが、それでは無理とわかると、拷問を加えます。その過酷な拷問のため「仙右衛門」以外は全て棄教をします。許された彼らは、村へ帰ります。しかし、村では棄教(転んだ)した彼らを村八分にすることが決まっていました。やっと許され、家族や村からはよく頑張ったと褒めてもらえると思った彼らに、過酷な現実が待っていたわけです。彼らは、もう一度キリスト教に戻ることを庄屋に伝えます。そして、再び投獄。

 

 時は明治に移ります。新しい時代になれば切支丹は許されると、一縷の望みも虚しく。新政府の政策は、今まで以上の厳しい切支丹の禁止。清吉達は<津和野>へ流されます。

そこでも過酷な運命。食料を減らし、寒さと飢えで体力を消耗させる。さらに、残酷な拷問の数々。それでも、彼らは頑張り通します。

 

 清吉を拷問する、長崎奉行所の下級役人に伊藤清左衛門という武士がいます。小心者で常に自分のしていることを後悔し、反省をするけど、また同じことを繰り返しています。

男の切支丹だけでなく、若い女性の切支丹に対する拷問(裸にして恥をかかせる)では、その後に自責の念で、やけ酒を飲むくせに、決してやめようとはしない。

 度重なる過酷な拷問にも耐える切支丹を彼は不思議に感じています。自分たちを助けてくれないキリストやマリアをどうして信じるのか?ヒョッとしたら、彼らの信じる神は存在するのではないか?罪深き男、しかし人間の心を持った憎めない小悪人です。

 

 伊藤はキクを見初めます。そして、キクの純潔と引き替えに、清吉の待遇を改善することを約束します。さらに、お金を清吉に渡したり、役人に配るためとキクに大金を要求します。彼女はそれを身を売ることで作ります。でも、伊藤はそれを着服し清吉にはほんの少しの食料と衣類、手紙を渡すだけでした。キクは考えます。過酷な生活を強いられている清吉に自分のできることは、これしかない。これによって、自分の身は汚れ、清吉と一緒にはなれないけど、それで良いと考えます。<献身的な愛>そのものです。

 

 伊藤の上役に本藤舜太郎という武士がいます。彼は、時代を見る目があり、通訳として岩倉具視に認められアメリカへ随行します。伊藤がいみじくも言う言葉、<この世の中には、運の良い人間と悪い人間がいる>運の悪いのは自分でどうあがいても世には出られない。それに引き替え、本藤はなんの苦労もなく出世していく。伊藤は、職務に忠実であったが故に、<拷問>の責任をとって首になります。なんともやるせない限りです。

 

 日本は外国の圧力で変わる。これは、いつの時代でも同じで、切支丹の禁令が解かれたのは、岩倉具視一行が不平等条約の改定のために外遊した外国での反応のためでした。アメリカの大統領から、切支丹の弾圧をやめることが条約改定の前提だと言われ、決断をします。それによって、清吉達は救われたのです。

 

 清吉はキクに対する愛、死ぬまでに一目会いたいという信念で、頑張ってきました。赦免されて必死でキクを探しますが、キクは見つかりません。キクは結核ですでに無くなっていたのです。

 

 私は伊藤清左衛門と同じ人間です。良くないこととわかっていてもそれが楽しいこと、楽なことだとやってしまいます。そして、後で後悔し反省をし自分が嫌になります。でも、しばらくすれば同じことを繰り返しています。善と悪の心が共存し、どちらかといえば悪の心が強く大きいです。

 

 プチジャン神父が伊藤に「神は本藤よりも伊藤を愛する」といいます。そのことを彼は救いとするわけです。本藤のように日々の生活が充実し、将来の夢が開けている人間は、神を必要としない。伊藤のような悪人で自分の行為を責めている人間こそ神が必要である。必要な人間の所に神は宿るわけです。

 

 壮絶な拷問にも転ばない切支丹。どうして?私などは真っ先に転びます。自分の身体が苦痛にさらされるのは我慢ができません。でも、彼らは耐えた。耐えきれずに死んだものがいるけど、どうして神は助けてくれないのか?そんな疑問も小説の中で一杯出てきます。永遠のテーマですね。その答え、プチジャン神父が言った「神は常に善を行う。」この言葉がキーです。神が行っていることは人間には理解できないけど、必ず善である。だから、きっと意味があるんだ。 

  

 

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