森田正馬

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森田正馬(森田式)


 私は若い頃<不安神経症>になりかかったことがあります。今で言う<うつ病>です。医者に行くほどではなかった(心療内科みたいなものがなくて、どこに行けばよいかわからなかったのが正直な話)のですが、つらい日々を送っていました。

 結局、

森田正馬氏の本を読むことで救われました。今考えると、精神的には一番辛い時期でした。

 

 私は典型的なA型人間で、何事も完璧にやりたいという気持ちが強かった。今は、だいぶリラックスして人生を過ごすことができるようになりましたが…。<人から褒めてもらいたい><凄いやつだと思われたい>というのがいけなかった見たいです。自分がいなくても世の中は回っていくとわかった頃から、楽になった気がします。

 

 今も基本的には真面目です。人の性格は変わりません。でも、結構いい加減な所も出てきたし、ストレスを解消する方法も見つけました。

 

 

森田正馬氏は森田療法理論の産みの親です。不安神経症の日本における第一人者だと承知しています。彼の本、及び彼の弟子の本がたくさん出ています。私はそれらを片っ端から購入し読みあさりました。<藁をも掴みたい>そんな心境でした。いろいろためになる言葉、心にしみる言葉が一杯出てきましたが、その中で一番好きなのが、<心とはころころと動くもの>です。つまり、心が一つの所にとどまった時不安神経症が起こります。人間誰でも不安になるけど、すぐに他のことを考えて忘れてしまう。心が常に動いているのです。心が動かない状態を<とらわれ>といいます。ここから脱することが、治療の最大の主眼です。

 

 <幽霊の正体見たり枯れ尾花>といわれるように、怖いものに目を背けたがるもの、でも、勇気を持ってそれに立ち向かうと、怖いものの本当の正体が見えて安心する。怖いと思ったら、逃げずにそのことに立ち向かう。その姿勢を持つことが不安神経症からの脱出の鍵だと思っています。

 

 人は自分が可愛い、つまり命がほしいわけです。生きたいという意欲の表れが、怖さの源です。嫌なことから逃げることもそのためで

 

 生きていく以上はいやなことも避けて通れない。だから、いやなことは一番にやってしまいます。何も意識しないと嫌なことは後回しにして、楽しいことからやってしまいます。だから、意識的に嫌なことを先にやろうとするわけです。不安神経症にかかっていた頃、

森田式以外にもいろいろな本を読みました。その中で、<すぐにかかれ>という言葉が出てきました。嫌なことでもしなければならないことは、躊躇せずにすぐにかかれというわけです。行動を起こせないから不安になる。動いていれば、少なくとも頭で考えていることはないわけです。

 

 私は今でも心配事があると、頭の中で<ぐずぐず>考えます。でも、それは仕方のないこと、無理にそう考えてはいけないと思わずに、悩む時はとことん悩もうと思っています。一種の開き直りですね。結局考えてもどうにもならない、最終的には行動を起こすしかないわけです。人は最悪の事態を覚悟できると、安心できるといいます。最悪の事態どころか、心配したことのほとんどが起こらないわけですが、それを考え込まなければならない、タイプの人間がいます。

 

 ひとつのことが気になると、徹底的にそのことばかりが気になりだす。これを「とらわれ」といいます。心がひとつの所に止まって動かないためです。心は、本来「ころころ」といって、常に動いていることが普通です。それが、何らかの原因(神経症)で動かなくなる。人間はいろいろなことを、次から次へと考えているが、決してひとつのことをずっと考えているわけではありません。電車の車窓の景色が次から次へと流れていくように、常に変化していくものです。

 

 不安神経症、強迫神経症には、いろいろなパターンがあります。具体的には、潔癖(清潔)恐怖症、電車恐怖症、対人恐怖症、赤面恐怖症、読書恐怖症等です。一時私は読書すると目線の先に自分の鼻が見えて、それが苦になって読書が出来なかったことがあります。 これらの症状は、すべて、人から自分がよく思われたいと、強く願うことから生じます。神経質で物事を真剣に考え、向上意欲が旺盛な人、常に自分の価値判断の基準を人に置いている人等が、神経症にかかりやすわけです。

 

 私は、自分はそれほど重要な人間ではないと考えることにしました。つまり、自分がいなくても学校が回っていったり、家庭が動くということがわかると、この症状から抜けられます。言葉は悪いですが、いいかげんになることです。もっとも、いいかげんといっても、神経症にかかるような人は、本来まじめすぎるのだから、それでも十分おつりがくるわけです。

 

 意識の固着(とらわれ)をなくするために、考え込む時間をなくしました。忙しくして、手当たり次第、何でもいいから目についた仕事をしていきました。面倒だからといって、後に延ばさず、次から次へと仕事をやっていく、それも精一杯やりました。それによって、仕事に集中し、考え込むことがなくなったのです。

  

 

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