新カラマーゾフの兄弟

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新カラマーゾフの兄弟 上下
h28.4.15 読了

<ネットより抜粋>

 ロシア文学、中でもドストエフスキー研究の大家。新訳がミリオンセラーとなったドストエフスキー未完の傑作『カラマーゾフの兄弟』の完結を目指し、初の小説を書き上げた。構想から二年半、「カラマーゾフ研究の総決算」と位置付ける。四百字詰め原稿用紙に換算して原作とほぼ同じ三千三百枚に及ぶ長大な物語で、「父殺し」の謎に迫った。

 小説の舞台はロシアではなく一九九五年の日本。一家の父の死、遺産や女性をめぐる息子たちの疑心や葛藤を描く。並行して自身を思わせるT外大教員「K」の物語が進み、ドストエフスキーやその妻アンナと思われる人物も登場する。

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亀山郁男氏の「新カラマーゾフの兄弟」を読んだ。

 彼はロシア文学、特にドストエフスキーの翻訳家として有名で、
わかりやすさや、新解釈でカラマーゾフの兄弟の翻訳を手がけ、
百万部を売り上げた強者である。

 なぜ翻訳本(今までさんざん翻訳されてる世界的な古典で)
でベストセラーを記録したのかの、
その秘密の一端がこの小説にも現れている気がした。
豊富で卓越したドストエフスキーの知識、見識は随所に伺うことができ、
彼の翻訳した、カラマーゾフの兄弟をいつか読んでみたいと思っている。

 この本を手にした時に、
もう一度ドストエフスキーを読んでみたくなった。
自分にとって、大切な本は何度でも読んで、
それをしっかり頭のなかにたたき込んで置くことが必要である。
今まで(もう65歳であるが)の自分は、
同じ本を二度読むということをほとんどしなかった。

 そのため、ほとんどの本は、内容はもちろんのこと、
あらすじさえわすれ、その本を読んだこと位しか覚えていない。

 これは自分の性格(飽き性で、新しいものを求めるきらいがある)
にもよるが、還暦を過ぎたこれからは、幅を広げるよりも、
深さを求める方が、重要ではないかと思うようになった。

 自分の青春時代(18〜25歳)を取り戻すこと。
あの時代は、たくさんの本(小説、エッセイ、評論など)を読んだ、
特にドストエフスキーを深く読んだおかげで
頭がクリヤーになり、論理的なこと、
思想、哲学、形而上学的なことに興味があり、
ある程度理解もできた。
それはあの超難解と言われている「地下生活者の手記」を読破し、
その内容もある程度は理解できた。

 あの当時はドストエフスキー以外は認めない、
読みたくないと(彼の小説以外は、意味がないとすら思っていた)
考えていた、そんな頑なで偏屈な時代でもあった。

 ドストエフスキーにあまりにも集中し、多読したので、
宗教、神、死、等を深く考えることとなり、
自分も正義を実践しなければ、人間として価値がないと
真剣に考え、四角四面の堅い人間になっていた。
でも、20代からこんな人生を送っては、
味気ない人生となってしまうとの思いから
ドストエフスキーから、無理矢理に遠ざかることを決意した。

 この小説は、やや冗長で、同じことを何度も繰り返していて、
焦点がぼけて、まとまりがないので読みにくかった。
この本の目的は、<カラマーゾフの兄弟>の
続編をドストエフスキーの代わりに書くことであったが、
正直言って、その目的は果たせてはいない。
作者は、名翻訳家として有名であるが、小説家ではない。
思想的な深みもたりないので、なるほどと頷ける所が少ない。

 19世紀の帝政ロシアのカラマーゾフ家を、
1995年の現代日本の黒木家に置き換えている。
アリューシャを黒木リョウ、次男イワンを黒木○○、
長男のミーシャを黒木みつるのように、名前が
連想できるように変えている。
同じく、その他の登場人物も、連想できる名前にし、
性格や状況もよく似たものに置き換えている。
そのため、どの人物が誰にあたるのかを考えるのは楽しい。

 思想的な深みが足りない。
謎解きは犯人がすでに分かっているので、新鮮味がない。
あとは、動機とかが意外であってほしかったが、
それもありきたりで、物語もすこぶる単調に展開する。

 ドストエフスキーの思想の深さ、当時のロシアの状況、
キリスト教を新興宗教に置き換えること。
やはり無理があるのでは、神秘的なもの、敬虔なものが
感じられない。

 黒木兵午(フョードル)が善人に描かれている、
これがなんともなじまない。
原作に沿えば、妻園子の自殺の原因は、
当然のごとく、兵午にあるべきであり、
もっと、生活も女関係も乱れているべきである。
幸司の出生の秘密も、馴染まない。

 須磨幸司(スメルジャコフ)の、兵午殺しの動機も稀薄である。
単にお金のためだけでは納得ができない。

 幸司とイワンとの共犯関係、それをしそう(唆す)という
言葉で表している。ただ、それもはっきりとしない。
それから黙過(知っていて黙って見過ごす。)
これは犯罪であり、リョウも共犯となる。
なんとも、オリエント急行殺人事件のように、
兄弟すべてが共犯である。
この断定も微妙なものがある。

 父親殺しに兄弟すべてが責任がある。
手を下した幸司、でもそれをしそうしたイワン、
黙過してリョウ、だれが一番罪が重いのか?
果たして誰が一番罪深いか?

 誰でも父殺しをする。
それは自分が父となるために、どうしても必要なことである。
もちろんそれは精神的な意味ですが……。

 父を乗り越えること、父の権威を乗り越えることは、
家族の中で自分が父親になるために必要なことですが、
社会的にも父殺しが必要であると筆者は言っています。
新しい世代が育ち、その世代が自分たちの新しい社会を
作るには、旧世代という父親を殺す必要があります。

 古い世代の権威、価値観を破壊する。
たとえば、作者はウィンドウズ95の誕生を
その一つとしていることに興味を感じた。
すなわち、ネットで世界がつながること、
これによって旧来の価値は失われ、新しい価値観が生まれる。

 この作品の主要人物である、
大学教授のK(これは作者自身のことであるが)と、
黒木家との関わりがあまりにも不自然で
取って付けたような印象を受ける。
さらにその行動は不自然であり、幻視をみたり、幻想を描くのが
よく理解できない。

 ただ、このkによって語られるドストエフスキーの話、
たとえば、彼が死んだときその葬式に数万のモスクワ市民が
参列したとかの話は面白い。また、ドストエフスキーの
研究者らしい、理論なども良い。ある意味では、それが
なければ深みのない薄っぺらな小説になっていたかもしれない。
それを考えるといたしがえしではあるが。

 カラマーゾフの兄弟の中では、イワン等の登場人物が
哲学的な理論を話したりしているが、その総まとめの
代表としてのkがいるのかもしれない。
 

  

 

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