ダビンチコード

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 6月2日(金)の夕方、ダビンチコードを見てきました。

星は☆☆☆です。

 人によって価値観が違うように、映画の評価も人それぞれです。ということを踏まえて、この映画、私的にはあまり良いとは思えませんでした。星3つと言っても、実際は2.8で、四捨五入をして星3つでした(笑)。

 ダン・ブラウンの原作を読んだ時にも感じましたが、最初から中盤までの盛り上がりに比べて後半、特に終わり方にインパクトがなさすぎる気がしました。

 この物語は謎を解きながら、<伝説の聖杯>を見つけるもの。そして、聖杯とは女性(子宮)であり、娼婦と言われたマグダラのマリアのことです。そのマリアはキリストの妻であり、キリストの娘(サラ)を生みその子孫は血を絶やさずに今も生き続けている。一番の根本は「キリストは人間である」ということです。

 これがこの物語の<秘密>で、それを暗号を解読しながら謎を解いていくわけですが、それが中盤にはわかってしまうので、後は何とも気の抜けたビール状態でした(笑)

 この秘密をダビンチの書いた「最後の晩餐」を使って説明しています。キリストの隣に綺麗な女性がいること。二人は絵をCGで動かすと、寄り添うように書かれていること。中央に聖杯を表す象徴、Vの空間があることなどです。

 アクションもさほどたいしたことないし、役者の演技で見せる所もありませんでした。

 そんなわけで、単調な所があって中だるみ。疲れもあって何度か眠ってしまいました(笑)。でも、原作を読んでいたので、それでも、ぜんぜん問題ありませんでしたが……。

 原作を読んでから映画を見るのは好きですが、今回は失敗だった気がします。映画にもよるのでしょうが、少なくとも犯人や謎を解くようなものはだめですね。

 そのため、何が起こるかわからない、はらはらどきどき感がなくなってしまいました。これは、犯人のわかっている推理小説がつまらないのと同じ理屈です。

 私はルーブル美術館や教会の荘厳な建築物、絵画などが見られると楽しみにしていたのですが、それも期待外れでした。とくに、ルーブルは時間をかけて、もっと見せて欲しかった。

 トムハンクスは痩せてスマートになりましたが、この映画では存在感は薄いですね。別に彼でなくても良いような気がしました(笑)。

 それから、ソフィーのオドレイ・トトゥはあまり良くなかった。彼女の<アメリ>が、あまりにも神秘的で魅力的な女性だっただけに、期待をしたのですが、ちょっとがっかりでした。

 キリストの妻であると言われる、マグダラのマリアは女の子を産んでいます。この事実はキリストが人間である証拠となるもの。それでは都合の悪い教会は、それを否定するために、マグダラのマリアを娼婦といました。

 この説のどこまでが本当かわかりません。ただ、ずっとマグダラのマリアを娼婦だ言ってきたバチカンが後に、彼女の名誉を回復し、娼婦ではなかったと訂正したことは事実です。

 作者のダン・ブラウンの説は、現代のキリスト教研究の成果であり、無視できない勢力を占めていることは事実のようで、最近のテレビでのダヴィンチ特集でも、各国の権威ある学者がその説を裏付け、支持しています。

 もちろん、2000年も前のことを今論じているのですから、神やあの世があるかどうかの問題と同じように、証明することはなかなか困難なので、最後はどちらを信じるかですね。

 私は、彼の説を否定はしません。もちろん、全て信じているわけではありませんが……(笑)。というのは、キリストが人間であって良いと思っているからです。<人間キリスト>に奥さんがいて、子供がいて、その血統が現代にも受け継がれている。そんなロマンがあっても良いのではないですか(笑)?

 教会は自分の権威を守るために、キリストを神にする必要がありました。だから、キリストが人間だという証拠となりうるものはすべて排除しました。その最大の犠牲者がマグダラのマリアですね。

 教会はセックスを子孫繁栄のため以外には禁止をしました。庶民がセックスに喜びを感じると、それに夢中になって、教会にこなくなるからと聞いたことがあります(笑)。

 この話のどこまでが事実か知りませんが、そこら辺から女性蔑視も始まったのかも知れません。また、神以外に喜びを与えることができる存在(女性)。本来神が作る生命を生むことができる存在(女性)。これらも、女性を排除した理由の一つでしょう。

 自由な発想をしたり、男女同権を訴える女性は、魔女として宗教裁判にかけられて抹殺されました。このように、教会が支配した中世の暗黒時代の魔女狩りはその象徴です。 これは、男にとって都合の良い社会を作ることであり、それが教会の利害と一致したわけです。

 ダヴィンチは、その教会の考え方に批判的で、男女同権の考え方を基本に、女性の復権を唱えました。その象徴となるのがキリストの妻である、マグダラのマリアです。

 彼の書いた最後の晩餐の壁画は、傷みがひどく何が描かれていたのかわからない状態でした。それが、30年くらい前から最新の技術によって修復が行われてキリストの隣に、いるはずのない女性がいることがわかってきたわけで、びっくり仰天、全く予想外の出来事です。

 それ以外にも、最近になっていろいろとわかってきたことがありますね。たとえば、モナリザの絵をレーザーで覗くと、一番下にキリストの顔があり、それに重なるようにモナリザが描かれていたことがわかりました。キリストに重なると言うことで、モナリザはマグダラのマリアではないかとの話もあります。

 映画を見た人から、なかなかわかりずらい映画だと聞きました。あの膨大な内容を2時間半程度の映画にするのは至難の技ですね。でも、作者が言いたい秘密は、煎じ詰めれば単純なことなんです。「キリストは人間である」これだけですから。

 映画の中でも、ラングドンが言っていましたが、「キリストが人間であっても良いのでは?」「偉大な人間が、奇跡を起こしても良いのでは?」

 この映画の秘密。今ひとつぴ〜んとこないのは、日本人であるから。キリスト教社会ではないから、この秘密はどうでも良いことですから(笑)。

 

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