サマリア

映画の目次へ 

 

サマリア DVDh19.12.4

キム・ギドク監督の代表作ということで見ました。
「春夏秋冬そして春」と比較して、
どこが良いのか私には理解できません。
まだまだ、私が映画を深く理解する力が
不足しているためなんでしょうね(笑)。

題名の「サマリア」は、聖書の「サマリア人」からとったそうです。
聖書に出てくるサマリア人は信仰が篤く善人の象徴です。
それは、キム・ギドクが熱心なキリスト教徒であることが大きいと思います。

朔的には☆は3つで、国際映画祭
(べルリン国際峡画祭で最優秀鑑督賞である銀熊賞を受賞)
等で評価が高い作品ですが、
私には十分その良さがわかりません。
ただ、独特の雰囲気をもった作品を
作る監督であることだけはわかりました。

女子高生である、ヨジンとチェヨンは親友同士です。
二人は海外旅行のお金を貯めるために援交をしています。
でも、ヨジンは見張りとお金の管理のみ、チェヨンが一人で援交をしている。
チェヨンは笑顔で援交をし、すぐに恋をする。
(援交の相手は全て良い男として描かれている。本当かな?)

ある日、援交中に警察に踏み込まれて、
チェヨンは逃げるために窓から飛び降りて死ぬ。
その原因が自分にあるとして、その罪滅ぼしのために、
ヨジンはチェヨンが相手をした男を呼び出し、
セックスをした後お金を返していく。
その膨大な数は驚くばかり……。
それを偶然知った刑事の父は、娘に問いつめるのではなくて、
相手の男を執拗に追いかけ妨害をする。
しだいに妨害はエキサイトし、殺人を犯してしまう。
彼は娘と贖罪の旅(母親の墓参り)に行く。

<疑問な点>
@ 笑顔で援交をするチェヨン。
そして、重症を負った時、誰も知り合いがいなかったこと。
A 父親の娘に対する態度、そえはまるで恋人のようにもの。
近親相姦さえ連想する。
B 父親はなぜ娘を問いつめようとしなかったのか?
この映画、見方によっては友情と、
父と娘の愛の物語のようであるが、果たしてそれだけであろうか?

こんな疑問が湧いたが、それに対して
面白い(私的には適切な指摘)評論が載っていたので、
そのまま書いておきます。

<違った見方>
この作品は映画としてはそれなりにおもしろい。
作品は3部に分かれ、それぞれにおいて
先の展開とそこに隠された心理が謎として提示される。

第1部ではチェヨンとヨジンがどうなって行くのか、
そしてチェヨンはなぜそのように明るく売春を続けているのか、
ということがなぞとして私たちに投げかけられる。
少女が援助交際という名の売春をするのはなぜなのか。
この映画のように旅行や洋服と言った
お金を目的とすることが多いわけだが、
それはなぜなのかということを観客は考えてしまう。
 
第2部に入ると、ヨジンの行動が謎を投げかける。
なぜヨジンはチェヨンが寝た男たちと体を重ね、
お金を返そうとするのか、
そこに見えてくるのはチェヨンとヨジンの関係であり、
この年代の少女同士の親密な関係が持つ
独特の関係が謎として投げかけられる。

そして第3部にも謎があり、
観客はその謎を追って映画の世界に入って行くことができる。
そのような意味ではこの監督は
ストーリーテラーとしてはうまいということができるのだろう。
観客を物語りに引き込み、考えさせる。
それができれば観客は映画を楽しむことができる。

しかし、そのようにおもしろい作品ではあっても、
これは軽蔑に値する作品でもあると思う。
なぜならば、この作品は結局、
オトコのロリータコンプレックス的欲望を表現したものに過ぎず、
しかもその欲望の発露が無批判に肯定されてしまっているからだ。

まず、最初のチェヨン、売春相手を「いい人」といい、
恋心すら覚えてしまうチェヨンは結果的に
ロリコン男に都合のいい女である。
相手が傷を負っていないということで
自分も精神的に傷を受けることがなく、
欲望だけを満足させることができる。
チェヨンを肯定することはそのような男たちをも肯定することなのだ。
この作品はそのようなチェヨンの行動の背後に
“親の不在”をあげているように思える。
チェヨンが不在の親(本当にいないわけではないと思うが)の
代用として買春する男たちを使っているということだ。
このような周到な正当化はこの映画が完全に男の視点、
しかも男の都合のよい見方からしか
組み立てられていないことを暴露する。

それはヨジンの行動をとってみてもそうだ。
このヨジンの行動はチェヨンとの関係という
視点に立って行われるものであり、正当化されているが、
ここでもロリコン男の視点に立てば都合のいいできごとが
起きているのである。
しかもそのことに対して咎はない。

ヨジンの父の行動は彼らの行動に対する因果応報のようにも見える。
しかしその実この父親の行動は娘に対する
近親相姦の欲望の裏返しでしかない。
自分が欲望する娘とのセックスを他の
しかも自分と同じくらいの歳の男たちがやっていることに対する嫉妬、
彼の行動の背後にあるのがそのような欲望と嫉妬であることは、
それ以前の彼の娘に対する視線から明らかであるように思える。
彼は直接娘に向かわせることのできない欲望を、
娘を“買った”男たちへの復讐という形に転化しているのだ。

彼が本当にただ娘を守りたいだけならば、
娘の行動を見つけた時点で娘をしかり、話し合うはずだ。
それをせず相手の男ばかりを付けねらうのは、
歪んだ欲望の発露と考えるほうがしっくり来るのだ。

そんな男の立場で、男に思考のみによって作られたこの作品は、
何か考えさせるようなモーションをしていても、
考えた末出てくるのは男の欲望を肯定することだけだ。
ただ、女性を虐げ、男性を正当化するそんな思考をすることに何の意味もない。
そして、しかもそれが作品としておもしろいだけに、
逆にたちが悪いということも出来る。
 

 

上に戻る